雨。
koiです。
七夕。
雨。
書くことは七夕の由来しかないね。
はい、ドンッ!
別名「笹の節供」「星祭り」といわれる七夕は、江戸時代に五節供の一つに定められ、今でも広く親しまれています。
七夕といえば、どことなくロマンチックに感じますが、その由来を紐解いてみると、色々な文化が結びついていることがわかります。
七夕の由来は、皆さんもご存知の織姫・彦星の星物語から始まります。
新暦の7月7日はまだ梅雨のさなかで星空もよく見えないかもしれませんが、旧暦の七夕は現在の8月なので夜空もきれい。
月遅れで東の空を見上げてみてはいかがでしょう。
天の川に輝く琴座のベガが織姫(織女星)で、鷲座のアルタイルが彦星(牽牛星)。
この2つの星と白鳥座のデネブを結んだものが「夏の大三角形」と呼ばれ、夏の星座を探す目印になっています。白鳥座は、二人の橋渡し役となるカササギです。
さて二人の星物語は・・・
■ロマンチックな織姫と彦星の星物語
天の川の西岸に織姫という姫君が住んでいました。
織姫は機織りの名手で、美しい布を織り上げては父親である天帝を大変喜ばせておりました。
そんな娘の結婚相手を探していた天帝は、東岸に住む働き者の牛使い彦星を引き合わせ、二人はめでたく夫婦になりました。
ところが、結婚してからというもの、二人は仕事もせずに仲睦まじくするばかり。
これに怒った天帝が、天の川を隔てて二人を離れ離れにしてしまいました。
しかし、悲しみに明け暮れる二人を不憫に思った天帝は、七夕の夜に限って二人が再会することを許しました。
こうして二人は、天帝の命を受けたカササギの翼にのって天の川を渡り、年に一度の逢瀬をするようになったのです。
■七夕のルーツ「乞巧奠」
この二人の逢瀬を祝い、中国で「乞巧奠」(きっこうでん)という行事が催されるようになりました。
「乞」は願う、「巧」は巧みに上達する、「奠」はまつるという意味で、織姫にあやかり機織りの技が上手くなるように、ひいては様々な手習いごとの上達を願いました。
そして、「乞巧奠」が奈良時代の遣唐使によって日本に伝わると、宮中行事として取り入れられるようになりました。
詩歌や裁縫の上達を願って星に祈りをささげ、梶(かじ)の葉に和歌をしたためて、お祀りしていたそうですが、梶の葉の裏側は細くて滑らかな毛がたくさん生えているため墨の乗りがよく、紙の原料としても使われていたからです。
宮中行事を伝承する京都の冷泉家では、いまでも古式ゆかしい七夕の歌会や乞巧奠がとり行われており、梶の葉が重要な役割を果たしています。
■どうして七夕(たなばた)と呼ぶの?
日本では機で織った布を祖霊や神にささげたり、税として収めたりしていました。
旧暦の7月はお盆や稲の開花期、麦などの収穫期にあたります。
そこで、お盆に先立ち祖霊を迎えるために乙女たちが水辺の機屋にこもって穢れを祓い、機を織る行事が行われていました。
水の上に棚を作って機を織ることから、これを「棚機」(たなばた)といい、機を織る乙女を「棚機つ女」(たなばたつめ)と呼びました。笹竹には、神迎えや依りついた災厄を水に流す役目がありました。
やがてこの行事と乞巧奠が交じり合い、現在のような形に変化していきました。
そして、7月7日の夕方を表して七夕(しちせき)と呼ばれていたものが、棚機(たなばた)にちなんで七夕(たなばた)という読み方に変わっていったのです。
■短冊に願い事は江戸時代
笹竹に短冊をつるして願い事をするようになったのは、江戸時代から。
手習いごとをする人や、寺子屋で学ぶ子が増えたことから、星に上達を願うようになったのです。
本来はサトイモの葉に溜まった夜露を集めて墨をすり、その墨で文字を綴って手習い事の上達を願います。
サトイモの葉は神からさずかった天の水を受ける傘の役目をしていたと考えられているため、その水で墨をすると文字も上達するといわれているからです。
こうした本意を踏まえると、短冊には「○○が欲しい」というような物質的な願いごとではなく、上達や夢を綴ったほうがよいとされています。
夢叶うといいね。
てことで三代豊国 『当世葉唄合』
ではまた。