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『盂蘭盆経』を読む(「逆さ吊り」説は出鱈目)

2019-07-31 10:28:06 | 年中行事・節気・暦
 もうすぐお盆の時期を迎えます。今年はたまたま旧暦の7月15日は、一月遅れの新暦8月15日と重なり、旧盆と月遅れ盆が同じ日になっています。お盆についての解説では、「盂蘭盆」という言葉を例外なしに「逆さ吊りの苦しみ」を意味しているとしているのですが、これがとんでもない出鱈目なのです。

 一般に「盂蘭盆」という言葉は、「古代インド語であるサンスクリット語(梵語(ぼんご))で、『逆(さか)さまに吊(つ)るされた』という意味のullambana(烏藍婆拏(うらんばな))という言葉に由来している」と説明されています。『仏教大辞典』にもそのように解説されていますし、歴史的にも長い間そのように理解されてきましたから、無理もないことは理解できます。しかしお盆の仏事の根拠となる『盂蘭盆経』をいくら丁寧に読んでも、「逆さ吊り」のことは微塵も触れられていません。

 「逆さ吊り」という理解は、七世紀前半、初唐の玄応という僧が、勅命によって撰述した『一切経音義』という書物の中に、「盂蘭盆、この言は訛(なまり)なり。まさに烏藍婆拏(うらばんな)と言ふ。この訳を倒懸(とうけん)といふ」という記述に拠っています。この「倒懸」という漢語が「逆さ吊り」に当たるわけでて、同書にはわざわざ「盆是貯食之器者此言誤也」、つまり「盂蘭盆は食器のことという説は誤りである」と記されています。しかしこれは裏を返せば、盂蘭盆は食器であるという理解が普通であったということになります。

 しかし何でも定説ということにすぐに疑問を持つ私は、まずは先入観なしに『盂蘭盆経』を読んでみました。『盂蘭盆経』は400字詰め原稿用紙で4枚にもならないほど短く、国会図書館デジタルコレクションで書き下し文にしたものを閲覧できます。難しい仏教用語がありますが、大意は理解できます。それで以下に載せてみましたので、まずは読んでみて下さい。

 聞くこと是の如し。一時、仏舎衛国(しやえこく)の祇樹(ぎじゆ)、給孤の独園(祇園精舎)に在(いま)しき。大目(だいもく)乾連(けんれん)、始て六通(神通力)を得、父母を度し、乳哺の恩を報ぜんと欲し、即ち道眼(霊視の力)を以て世間を観視し、其の亡母を見るに、餓鬼の中に生まれて飲食を見ず。皮骨連立せり。目連悲哀して、鉢を以て飯(盆)を盛り、往きて其の母に餉(お)くるに、母鉢の飯を得て、便(すなは)ち左手を以て鉢を障(ささ)え、右の手を以て食(じき)を摶(にぎ)るに、食未だ口に入らざるに、化して火炭と成り、遂に食することを得ず。目連大に叫び、悲号啼泣して、馳せ還(かへ)りて仏に白(まを)(申)して、具(つぶさ)に陳(のぶ)ること此の如し。仏の言く汝の母は罪根深く結せり。汝一人の力を以て、奈何(いかん)ともすべき所にあらず。汝孝順にして、声天地を動かすと雖も、天神地神も、邪魔外道も、道士も四天王神も、亦奈何ともすること能わず。当(まさ)に十方衆僧の威神の力を須(もつ)て、乃ち解脱することを得さしむべし。吾今汝が為に救済の法を説き、一切の難をして、皆憂苦を離れしむべし。仏目連と十方の衆僧に告げ給わく。七月十五日、僧自恣(じし)する時(自ら懺悔を行なう法会の日)に於て、当(まさ)に七世の父母、及び現在の父母、厄難の中なる者の為に、飯と百味の五果と、盆器を汲灌(きゆうかん)し、香油錠燭(ていしよく)(燭台)床に臥具(がぐ)を敷き、世の甘味を尽して、以て盆中に著(つけ)て、十方の大徳衆僧に供養すべし。此の日に当たりて、一切の聖衆、或は山間に在りて禅定し、或は四道果を得、或は樹下に在りて経行し、或は六通自在にして声聞(しようもん)縁覚(えんか゜く)を教化し、或は十地の菩薩、大人権(かり)に比丘と化して、大衆の中に在りて、皆同一心に、鉢和羅(はわら)の飯を受け給ふ。清浄(しようじよう)の戒を具せる聖衆の道は、其の徳汪洋(おうよう)たり。其れ此等の自恣僧を供養することあらん者は、現在の父母、七世の父母、六種の親属、三途の苦を出ることを得て、時に応じて解脱し、衣食自然(じねん)ならん。若(も)し復(また)人有り、父母現在せば、福楽百年ならん。若し已(すで)に亡ぜし七世の父母は、天に生じ自在に化生し、天の華香(けごう)に入りて、無量の快楽を受けん。時仏十方の衆僧に勅したまはく。皆先づ施主家の為に七世の父母を呪願し、禅定意を行じ(座禅をして心を定め)、然して後に食を受くべし。初め食(盆)を受くる時、先ず仏塔の前に安在し、衆僧呪願し竟りて、便ち自から食を受くべしと。爾(その)時に目連比丘、及び此の大会(だいゑ)の大菩薩衆、皆大に歓喜し、而して目連悲啼の泣声釈然として除滅す。是時目連の母、即ち是の日に於いて、一劫餓鬼の苦を脱することを得たり。爾時に目連復仏に白して言はく。弟子所生の父母は、三宝の功徳の力と、衆僧威神の力を蒙ることを得るが故なり。若し未来世の一切の仏弟子、孝順を行ずるも、亦応(まさ)に此の盂蘭盆を奉じて、現在の父母、乃至七世の父母、救度すべきこと爾(しか)るべしと、為んや否や。仏の言はく大に善し、快(こころよ)きかな。問ふこと我正に説かんと欲す。汝今復問へり。善男子若し比丘比丘尼、国王太子王子大臣宰相、三公百官、万民庶民、孝慈を行ずる者、皆応(まさ)に所生の現在の父母、過去七世の父母の為に、七月十五日の仏歓喜日、僧自恣の日に於て、百味の飲食を以て、盂蘭盆の中に安し、十方自恣の僧に施し、現在の父母をして寿命百年にして病無く、一切苦悩の患無く、乃至七世の父母、餓鬼の苦を離れ、人天の中に生じて、福楽極無きことを得せしめんと願うべし。
仏告諸善男子善女人。仏、諸善男子善女人に告げ給はく。是の仏子孝順を修する者は、応に念々の中に、常に父母乃至。七世の憶(おも)ひて、年々七月十五日に当に孝慈を以て、所生の父母、乃至七世の父母を憶ひ、為に盂蘭盆を作り、仏及び僧に施し、以て父母長慈慈愛の恩を報ずべし。若し一切の仏弟子、応当(まさ)に是の法を奉持すべし。爾(その)時目連比丘四輩の弟子、仏の所説を聞きて歓喜奉行しき。

 要約すれば、次の様なことが書かれています。「釈迦の弟子の一人である目連が、ある時、神通力によって冥界を見渡してみると、亡き母が餓鬼道に落ちて苦しんでいると知った。(餓鬼道とは、生前に強欲であった者が死後に行く世界で、そこでは目の前に飲物も食物もあるのに、それを飲み食いしようとするとすぐに燃え上がってしまい、飢えと渇きに苦しむ世界である)。目連は神通力によって母の前に鉢に盛った飯を出現させたが、燃え上がって食べることができない。目連は苦しむ母をどうしたら救えるかと釈迦に尋ねたところ、釈迦は、『お前独りの力ではどうにもできない。十方(四方八方に上下方を加えた全方位)の衆僧の威力によらなければならない。夏の修行期間の明ける七月十五日に、盆器に盛った飲食物を十方の衆僧に捧げて供養すれば、父母だけではなく七世前の祖先まで救われるであろう』と答えた。そこで目連が釈迦の教えのままにすると、その功徳により母親は苦しみから解放され、極楽往生を遂げた」というものです。

 どんなに丁寧に読んでも「逆さ吊り」は見当たらないでしょう。最後の結論部分は「仏、諸善男子善女人に告げ給はく。是の仏子孝順を修する者は、応に念々の中に、常に父母乃至。七世の憶(おも)ひて、年々七月十五日に当に孝慈を以て、所生の父母、乃至七世の父母を憶ひ、為に盂蘭盆を作り、仏及び僧に施し、以て父母長慈慈愛の恩を報ずべし。」なのですが、その「盂蘭盆」を「逆さ吊り」と置き換えて読んでみて下さい。意味は全く通じないではありませんか。「盂蘭盆」は明らかに容器の一種として理解されています。

 どうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。おそらくは、盂蘭盆が逆さ吊りのことであるという理解は、古くから共有されてきましたから、誰も疑問を持つことなく、疑念を持ってお盆の仏事の全ての原点・原典である『盂蘭盆経』を読もうとしなかったからなのでしょう。このことは私にルターの宗教改革を思い起こさせます。ローマ教会の説くことが基準と成り、だれもが全ての原点である聖書そのものを読もうとしなかった。ルターの宗教改革は、聖書の読み直しから始まったのです。

 書く内容に責任を問われない、お気軽なネット情報ならばやむを得ませんが、少なくとも仏教関係者や伝統的年中行事の解説書の著者ならば、『盂蘭盆経』くらいは読んでおかなければなりません。私自身はキリスト教徒の端くれですが、その私でも原典を読むのですから。

 逆さ吊り説を説いている人にお尋ねしたい。あなたはそれを盂蘭盆経を読んで確認したのですかと。もし確認したというならば、盂蘭盆経のどの部分なのか、指摘していただきたい。お盆の風習の原点は盂蘭盆経なのですから、よもや読んでいないということはないでしょう。そうは言うものの、実際に読んだことのある人は極めて少数だと思います。まさか原稿用紙数枚だけの短い経典とは思っていないでしょうから、簡単には読めないと思い込んでいるのでしょう。もし読んでいれば、どこにも逆さ吊りについて書かれていないのに気が付いて、流布している定説に疑問を持つことでしょう。

 しかしお盆が逆さ吊りと無関係であっても、親や祖先を供養することは大切なことですから、お盆の行事は心を込めて行われるべきものです。しかしせっかくの機会ですから、この際、是非とも原典をあらためて読んでみては如何ですか。

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