雌雄同体のカタツムリに学べ
石井ゆたか
男も女もない世界に生きる「カタツムリ」。たまに食べられてしまうこともあるけれど、たまに人間から「駆除」されることもあるけれど、自然の縁の中で命を繋ぎ、平和に暮らしている印象のある生き物。もっとも、実際には熾烈な生存競争が繰り広げられているのかもしれませんが、男と女が支配する側、される側に分かれて争うこととは無縁であるはず。ですから、私はカタツムリを見ていると落ち着きます。
「女性がみずからの女性性を無視して、単に男性との平等だけを追求するようなフェミニズムは、近代社会が作り上げた、支配する側の都合によるジェンダーシステムを肯定することになる。だから雌雄の雌である女性性を自ら認めよう。脳の基質的な違いも認めよう」という青木先生。私は、先生のお話を男の立場に置き換えて考えてみました。
「男性が自らの男性性を無視して、単に押し付けられた「男らしさ」だけを追求するように仕向けられる社会システムは、暴力と搾取と支配を好み、いずれ世界を破滅に追いやる。だから、自然の中に存在する雌雄の雄である男性性を自ら認めよう」。すると私自身が「男性性」についての概念を持っていないことに気付きました。
「女を守り、家族を養う義務を命がけで果たしてこそ男」という、「男らしさのスタイル」だけが残る自分。この義務感というものの正体は何でしょう。ある男性は「愛情そのものだ」と言い、ある男性は「考えたこともない」と言います。また、ある女性は「当たり前のことだ」と言い、ある女性は「そんな男性って素敵」と言います。女性も、誰かが刷り込んだ「男らしさ」という評価基準で男性の優劣を判断している人が多いようです。どうやら、男性自身が目を覚まして、男性性の本質を深く考察しなくてはならないようです。
誰が何のために、「らしさ」を押し付けてきたかは何となく理解できます。戦で人殺しをさせるため。会社は、比較的丈夫な体を酷使させ、カネを稼がせるため。そして、「らしさ」を演出するためのモノを売りつけるため。理解できないのは、男性がそうした「社会構造から押し付けられた役割」に疑問も不満も持たずに漫然としていて、私もそうであったこと…。
そもそも、「義務」や「責任」という社会的基準で生き方の枠をはめられて生きるのは、甚だ窮屈な話しです。とはいえ、一方では、家族の役に立っていることに深いよろこびを感じているのも事実ではあるのですが。
人間が、「雌雄同体」のカタツムリのように命を繋ぎ、自然がもたらす「縁」の世界で平和に暮らすには、女と男が自然を介して「同体」であることを再認識することが必要なのでしょう。しかし、心でそう思い、頭では混乱しています。カタツムリによって癒される私は、「男らしくあれ」という観念に従って生きることに疲れているのかも知れません。
次回は「男の何が、男の生き方や価値観を縛り続けているのか」について、もう少し掘り下げてみたいと勝手に想いました。
最新の画像[もっと見る]
- 楽しい映画と美しいオペラ―その46 11年前
- 第14回it's展開催中 11年前
- ソプラノ 奈良ゆみ新作CD発売 12年前
- 新刊 ベル・フックスの芸術論 12年前
- 第21回セミナー報告●「身体性」とはなにか? 12年前
- 『グエン・ティエン・ダオの世界』を聞いて 12年前
- 【グエン・ティエン・ダオの世界】を聴いて 12年前
- 【グエン・ティエン・ダオの世界】を聴いて 12年前
- 9月29日 レクチャーコンサート「グエン・ティエン・ダオの世界」 12年前
- 楽しい映画と美しいオペラ―その42 12年前