一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

第7回セミナーに参加して

2007-11-13 06:45:44 | セミナー関連

第7回セミナー「性差とジェンダーⅡ」に参加して     

ジェンダー・バランスとテクスト  

 太古の時代から息づいてきた《ジェンダー・バランス》という人類に普遍的な「大きな物語」、そして、北アメリカ先住民によるジェンダーをめぐる現代の「小さな物語」。ふたつの物語はどんなふうにつながっているのか? 東アジアに生活する自分は、どんな「わたしの物語」を語ることができるのか? 二日間のセミナーはこんな難問を突きつけてきた気がする。

 北アメリカ先住民の文学を知らぬわたしにとって、第一の問いはまさしくこれからの課題である。だから、しばらくは未知の領域の作品を読むという楽しい作業に手をつけることになりそうだが、その際に念頭において置きたい視点はこうなる。すなわち、先人の物語を口承によって伝えてきた北アメリカ先住民の子孫が、文字という表現手段を使って、しかも簒奪した側の言語によって、ヨーロッパ的近代化がもっとも進んだ国のなかで、みずからの物語を紡ぐ困難さに身を寄せること。   

 おそらく、マルチニックの作家パトリック・シャモワゾーがフランス語に風穴をあけたように、先住民文学も英語の部分的解体を宿命的に目論むだろう。そのとき生まれる文体はどうなるだろうか。  

 じつは、この文体という点に、わたし自身にむけられた第二の問いがかかわってくる。というのも、「明晰ならざるものはフランス語にあらず」といったデカルト至上主義が幅を利かす職場に身をおいていて、なにか男性原理一辺倒のようでいかにも息苦しく、もっと柔軟な言語観をもとめていた折に、ツヴェタン・トドロフがひとつのヒントを与えてくれたのだった。彼は『他者の記号学』のエピローグにおいて、科学とそれと同系統のすべてのものが属する体系的言説、文学とその変種が属する語りの言説、この二種のうち後者の領域が縮小しているとしたうえで、こんな決意を述べる。

 私が<征服者>のヴィジョンと訣別できたのは、彼ら征服者がわがものとした言説の形式を私自身が捨て去ったときであった。私は、押しつけるのではなく提示 する物語に同意し、またひとつのテクストの内部で語りの言説と体系的言説とが補い合う、そのようなテクストをもう一度見出さなければならないと感じている。  

 トドロフのめざす「テクスト」にはジェンダー・バランスに近い考えが横たわっているのではないか。かつてこの一節を読んで、自分もまたそんなテクストを、文体を、作り出したいと願った。その願いは、わたしのなかで希薄になり失われつつあるバランス回復にむけた自然な欲求にほかならなかったのだ。今回のセミナーが教えてくれたのはこのことである。    

 だから、「わたしの物語」は、なにを書くかでなく、どのように書くか、を出発点にしなければならない。                                                                                          

むさしまる



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