まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

幸せのレシピ ・ なんちゃって常夜鍋

2011-01-12 22:32:53 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
先日、卒業生から頂いたタジン鍋を使って、鍋料理を作ってみました。
しかも、せっかくなので電子レンジで作ってみようという挑戦です。
とはいえ、帰りがけの電車で急に思いついたので、
このあいだ買った料理本に頼ることはできず、完全に自己流です。
それほど大きい鍋ではないので、いわゆる鍋料理みたいにあれやこれや入れるのは、
最初からムリだろうなとあきらめていました。
私の立てた作戦はこんな感じです。

1.キャベツか白菜を買ってきてテキトーな大きさに切り鍋の底の方に敷き詰める。
2.その上に適量のシイタケ、しめじ、ニンジンなどをばらまく。
3.上からしゃぶしゃぶ用の豚肉で覆う。
4.少量の日本酒をふりかけて、レンジに投入する。
5.おろし大根と味ぽんでいただく。

これなら鍋のほうにとりたてて何か味付けしなくてもいいので、
既成のレシピに頼らずに、そこそこ食べられるものができるのではないかという狙いです。
1~3までをやってみたらこうなりました。



見えませんが、今回はけっきょくキャベツにしました。
ニンジンもわりと薄め、小さめに切ってあります。
日本酒をふりかけて、レンジに入るくらいにシリコンのふたの高さを調節しかぶせます。



そして、レンジに投入。



問題はここからです。
何分ぐらい加熱すればいいのでしょうか。
このあいだ買った2冊の料理本には、レンジによる調理のことはまったく載っていなかったので、
どれくらいチンすればいいのか皆目わかりません。
普通のガスコンロによる加熱の料理の場合、
似たようなメニューは5~7分くらい加熱するように書いてありましたが、
電子レンジで同じくらいやっちゃっていいのかどうかがわかりません。
この段階でパソコンで検索するのも面倒ですし、
とりあえず4分くらいで始めてみましたが、
すぐに思い直して3分で様子を見ることにしました。
3分経ってふたを開けてみたところがコレです。



おおっ!
もうちゃんと出来上がっているではないですか
下のほうのキャベツも、ちょっと心配だったニンジンもいい感じです。
危ない、危ない
4分もやったら豚肉が固くなっちゃっていたかもしれません。
さっそくいただいてみます。
うーん、素晴らしい
こんなにお手軽で、ダシとかなんにも取っていないのに素材からちゃんと味が出ています。
思いつきにしてはたいへん満足のいく料理でした。
ただし、鍋が小さいので1回ではお腹いっぱいにはならず、
同じものをもう1回作って食べました。
まあそれも当初の計画通りです。

いちおう名前をつけるとすると 「なんちゃって常夜鍋」 ですが、
しかし、これを1人鍋の新しいレパートリーと呼ぶのはちょっと抵抗があります。
やはり鍋料理だとするならば、お豆腐をどうしても入れたいところですし、
最後にうどんか何かで〆ないと鍋を食べたという実感がわきません。
残念ながらこのやりかたではそれはできませんね。
ま、ただの蒸し料理かな。
でも十分美味しゅうございました。
ごちそさまでしたっ。

福島異常気象

2011-01-11 19:52:12 | 人間文化論
この3~4日、福島市の天候がヘンです。

福島駅近辺 (つまり我が家のあたり) ではずっと雪が舞い、道はツルツルに凍結しているのですが、

金谷川駅 (つまり大学近辺) に来ると、まったく雪は降っておらず、

青空が広がって、まるで小春日和のような感じなのです。

福島駅のほうが北にあり、金谷川駅はそこから10㎞ほど南下したところにありますので、

常識的にいえば、北で雪が降っているときに南で晴れていてもおかしくはないのですが、

福島県の中通りというのは標高のせいか気温の逆転現象が起きていて、

南下すればするほど寒くなり雪深くなるというのが普通の状態なのです。

その北暖南寒という当たり前がこの数日崩れていて、

北寒南暖になってしまっているのです。

たまに1日くらい、そういう再逆転現象が起こっていても驚きませんが、

こう毎日毎日、大学に着いたら雪もなくてあったかいという肩すかしをくらわせられると、

どうしちゃったんだろうなあと心配になってきます。

やはり、家を出るときにその日の寒暖によって何を着ようか考えますから、

昨日も今日も、福島仕様で真冬の雪の日対策用の最強武装で出かけました。

上はタートルネックで首まで守り、

ユニクロで今シーズン購入した、軽いのに完全防備のシャリシャリの冬用ウェアです。

下はやはりユニクロで数年前に購入した、まるでスキーウェアのような、

その上、内側がフリースみたいになっててあったかくシュンシュンな感じのパンツです。

これでツルツルの道をゆっくり用心して駅まで歩いたのですが、

金谷川駅に着いてみると、この完全防備がまるで場違いな感じがしてしまうくらい暖かいのです。

まあ、ほかのみんなも完全防備なので恥ずかしさを感じることはありませんが、

研究室に着くまでのあいだに軽く汗ばんできてしまいます。

うーん、どうなっているのだ?

何かがおかしい。

隕石が近づいてきているんだろうか (by SoftBank)?

一本ヒゲ

2011-01-10 16:50:34 | がんばらないダイエット

身体のなかにミョーに成長の速い毛って生えてませんか?

全体に毛深いわけでもないんだけど、

1本だけ切っても抜いてもまたすぐにグイグイ伸びてきちゃうやつ。

ぼくの場合は昔は、左前腕に1本と背中の下のほうに1本あって、よく気にしていたんです。

で、誰かがそれを抜こうとしたら、「抜くと死んじゃうからやめろっ!」 と怒鳴ってみたり。

まあ、別にそう信じているわけではないのですが、お約束なので。

そして、特に抜いたわけでもないんだけれど、いつの間にかなくなっていて、

あれっどうしたんだろう?と思っていると、そのうちまたグングン伸びてきてたり。

ところが歳取ってしまったからか、最近その2本はついぞ見かけないんです。

その代わりなんでしょうか、このところ顔のなかにそういう成長の速い人たちが集まってきました。

それがけっこうあちこちにあるのですが、

今日はヒゲの話です (ヒゲ以外に関してはまた別の機会に)。

成長の速いヒゲは2本あります。

1本は左頬のエラの角に一番近いあたり。

このへんには私はまったくヒゲは生えないんですが、1本だけ伸びてきちゃうんです。

そして、普通のヒゲよりも格段に成長スピードが速いです。

ふと気づくとけっこうな長さになっていて驚かされたりするのです。

もう1本が今回の写真のやつなんですけど、見えましたでしょうか?

ちょうど右アゴのライン上です。

こいつが皮膚に対して直角に生えないで、皮膚に沿うように伸びていくので、

いちおう気にしてそのあたりもヒゲ剃り (電動) しているつもりなのですが、

ブラウンの深剃りを免れて生き残ってしまうんですよねえ。

わかりやすいようにちょっとヒゲを立たせてみて、アップで写したのがこれです。



長さを実感してもらうには上の写真のほうがいいかなあ。

それにしても、たった1本だけ、こんなに伸びなくてもいいじゃないですか。

測ってみたらぴったり2.0cmありました。

いつの間にこんなに伸びたのでしょうか?

自分的には、毎日ヒゲを剃っていてまったく気づかなかったのですから、

たった1日で伸びたのではないかと考えたいところです。

まあ、理性的にはそんなことありえないだろうとは思いますけど…。

こんな1本ヒゲ伸ばしたまま毎日授業したり飲み会に行ったりしてたのかなあ?

ああ、恥ずかしい。

そして、こういうのって自分では気づけないので、

誰かに指摘されて初めて気づくんですよねえ。

ああ、恥ずかしい。ああ、悔しい。

今回に始まったことではないので気をつけてるつもりなんだけどなあ。

この2本は要注意と思ってヒゲ剃りしていたはずだったんだけどなあ。

チクショー、やられたぁ。


P.S.

ちなみにこの話題、どのカテゴリーに割り振っていいか困り、

これだけ長いヒゲを剃ったら少しは体重も軽くなったろうということで、

「がんばらないダイエット」 に入れてみました。

幸せに生きるための心理学

2011-01-08 12:25:34 | 幸せの倫理学
私のブログの師匠が絶好調です。

なんかあちこちに行っていい話をして回っているようです。

うらやましいかぎりです。

やはり、倫理学なんていう辛気くさい学問よりも、

心理学という時代の最先端の学問のほうが役に立つのでしょうか?

まあ、そういう学問論はやめておきましょう、空しくなってしまいますから…。

私も直接聞いたわけではないのですが、

生徒の皆さんの感想をちらっと拝見させてもらっただけでも、

なんだか自分まで幸せになってきてしまいます。

中間先生の幸福論は、私のようなノーテンキな幸福論とちがって、

不幸を目の当たりにしている人、幸福を受け入れられない人にも届くようなお話なので、

ぜひ皆さんもちょっとのぞいてみて幸せになってください。



「幸せに生きるための心理学」


「自分を伸ばすための心理学」


「子育て子別れの心理学」 「リプライ(2)」 「リプライ(3)」


「前向きに生きるための心理学」 「コメント補足」

単位の実質化 ―自習時間を増加させる方法― (その1)

2011-01-07 12:20:02 | 教育のエチカ
 近年、大学教育において「単位の実質化」が叫ばれるようになってきています。以前、日本の大学は「学生のパラダイス」とか「モラトリアムの花園」と呼ばれて、大学生はバイトと部活ばっかりでまったく勉強をしていないと揶揄されていたものでした。大学受験のときが一番勉強しているので大学入学直後が一番能力が高く、その後は授業に全然出なくてもちゃんと単位をもらえてしまうので、4年間ですっかりダメになって使いものにならないまま卒業していくというのです。たしかに私はそういうバラ色の時代に大学を卒業し、5年はかかったものの卒業式の日に、ロシヤ語学科の教授から「お前はダンス部卒だな」と言われたものでした。それから10年以上の歳月が過ぎ、私が福島大学に赴任した頃、大学はそういうパラダイスではなくなりつつありました。
 赴任後数年目には「FD」ということばが囁かれるようになりました。「単位の実質化」という語を初めて聞いたのもその頃です。「大学設置基準」の第21条に「1単位の授業科目を45時間の学修を必要とする内容をもって構成する」という規定があるのですが、これをきちんと守れというのです。当初私は、これは常軌を逸した要求だと思いました。だいたい現在の授業科目は講義も演習も半期2単位となっています。ということは、半期1コマの授業のために90時間の学修をしなくてはならないわけです。1回90分の授業は2時間とカウントしていいことになっていますが、それでも半期15回やったとしても30時間分しか勉強したことになりません。その倍に当たる残り60時間は学生が授業時間外に自習しなくてはならないのです。つまり1コマの授業の単位を取るために、学生は毎週4時間ずつ自分で勉強しなくてはなりません。これを履修しているすべての科目に関してやらないと、本来はどれも単位を認定してもらえないはずなのです。大学生のときの自分の感覚からしても、今の学生たちの感覚からしても、「そんなのムリ!」というのが本音ではないでしょうか。しかし、文科省は本気のようで、単位の実質化の要求を取り下げる気はまったくないようです。そして、社会の趨勢も、大学生にはもっとちゃんと勉強させろという方向で推移しているようです。
 大学への風当たりが厳しさを増している昨今、大学設置基準の規定のほうがどうかしているんだからそっちを修正しろ、とかいってもまともに取り合ってもらえないでしょうし、そんなの物理的にムリなんだからほっとけばいいよ、と放置しておいたら大学は何をやってるんだと槍玉にあげられてしまうでしょう。単位の実質化のために福島大学もCAP制を採用しましたが、それでも半期24単位の授業を履修登録したとすると毎週48時間(丸2日分!)の自習をしてもらわなくてはなりません。その完全実施はどう考えてもムリだとは思いますが、本稿では、少しでも学生の自習時間を増やせないか、その効率的な方法をいくつかご紹介していきたいと思います。(つづく

この世の中でも外でも無制限に善いものは何か?

2011-01-06 18:29:36 | カント倫理学ってヘンですか?
「およそこの世界においてはもちろん、それどころかこの世界の外においてすら、無制限に善いとみなしうるものがあるとするなら、それはただ善意志のみであって、それ以外には考えられない。」(『道徳形而上学基礎づけ』第1章)


 この文は、カントが自らの倫理学を打ち立てた初めての書 『道徳形而上学基礎づけ』 の本論を書き始めた冒頭の一文です。この文からカント倫理学はスタートしていると言っていいでしょう。ここからしてすでにもう、とてつもなくヘンです。文全体としては、とにかく無制限に善いもの、誰がなんと言おうと絶対に善いと言えるようなものって何だろうと考えると、それは善意志、つまり善い意志しか考えられない、ということを言おうとしています。善意志ってどういうものかという話は今後追い追い説明していくことにしますが、私が笑ったのはこの文の最初の部分です。「およそこの世界においてはもちろん、それどころかこの世界の外においてすら」 ってどういうことでしょうか?
 「この世界の外」 というのは、要するに 「あの世」 のことです。「あの世」 って言ってしまうと宗教色が色濃く出てしまいますが、どんなものであれ、私たちが住んでいるこの世界とは別の世界のことを意味しています。カントがあの世についてどう考えていたかというのも、そのうちお話しする機会があるでしょう。とにかく、私はカントのこの冒頭の言葉に二つの意味を重ね合わせて読んでいます。
 ひとつには、この世だけではなくあの世にも通用するような絶対的に善いものをカントは見つけ出したいと考えているのだと思います。私たちが生きているこの世界だけではなく、別のどんなところに行こうとも必ずやこれだけは絶対に善いと言えるようなものをカントは探し求めています。
 もうひとつの読み方としては、この世に存在しようが存在しなかろうがかまわない、という意味にも取れます。万が一私たち人間が住んでいるこの世界には存在しなかったとしても、どこか別の世界には存在しているかもしれないであろう、無制限に善いと言えるものって何だろうかとカントは考えています。実際、カントは 『道徳形而上学基礎づけ』 の後のほうでは、善意志はこの世には見出されないかもしれないと言っているのです。
 この世だけではなくあの世にも通用するような、いや、ひょっとしたらこの世には存在していなかったとしてもかまわないから、とにかく無制限に端的に善いと言えるものは何だろうかとカントは考えているのです。なんでそんなことを考えなきゃいけないんだと普通の人間なら思うでしょう。私もこの問いはとてもヘンだと思います。でも、人間の理性はそういうことを考えることができるのです。世界の始まりってあるのかないのかとか、世界を構成している一番小さいものは何だろうとか、そういうギリギリ限界のことを人間は考えることができますし、誰もこの世で会ったことがある人はいないにもかかわらず、神とか創造主と呼ばれるような存在者はいるのだろうか、もしもいるとしたらその存在者はどのような性質をもっているのだろうかといったことを考えることができます。というか、人間の理性はそういうことを考えたくなってしまう習性があるのだ、というのが、カントの有名な大著 『純粋理性批判』 が明らかにしたことでした。
 理性のその習性に従うと、善さという問題についても、人間の理性は常識的なことを踏み越えて、極限的に善いものは何だろう、人間に可能かどうかとかそんなことはどうでもいいので、とにかくもう誰がなんと言おうと最終的に、絶対的に、無条件的に善いものは何だろうという問いを立て、それについて考えることが可能だし、考えたくなってしまうものだというのです。カント倫理学がヘンだというのは、そもそものこの出発点の問いに原因があります。こんなにとんがった問いに対する答えなのですから、普通の人間の常識ではついていけないとしてもしかたないでしょう。しかし、考えてみることができる以上、一度は考えてみてもいい問題ではなかろうかと私は思っています。人間にとって実現可能かどうかなんていうみみっちいことは置いておいて、とにかく純粋で完全無欠な善とは何だろうかと考えてみるのです。
 それに対するカントの答えが 「善意志」 でした。善い意志です。はたして他の答えは考えられないのか、もっと善いものはありえないのか、そもそも善意志って何なのか、そういったことについては次回以降考えていくことにしましょう。とにかくカントは、この世の中であろうと外であろうと無制限に善いと言えるものは何だろう、というものすごーくとんがった問いから出発したのだということを覚えておいてください。

夫婦箸

2011-01-05 18:34:48 | 性愛の倫理学
日本の伝統文化なんでしょうか?
夫婦箸とか夫婦茶碗ってありますね。
2個セットのやつです。
あれって必ず片方が長くて片方が短いとか、片方が大きくて片方が小さい、というふうになっています。
デザインは基本的にお揃いなんですが、配色がちょっと違っている場合も多いです。
まあおそらく大きい方が男性用で、小さい方が女性用ということなんでしょう。
で、男性用は男性色 (そんな言葉があるのか知りませんが) で黒系や青系、緑系など、
女性用は赤系や極彩色などの女性色となっています。

ま、完全にジェンダー・バイアスですね。
男は身体も大きくたくさん食べなきゃいけなくて、男らしい色のものを使い、
女は食べる量も控えめで身体も小さく、でも色はきれいなものを使ってよい、
という固定観念からこういう夫婦○○って作られてきたんだろうと思います。
しかし、身体の大きさだって食べる量だって、性別によって固定的に決まっているわけではなく、
個人個人の違いによって小食で身体の小さい男性もいるでしょうし、その逆の女性もいるでしょう。
色の好みだって、子どもの頃から男の子は青、女の子はピンクみたいにずっとあてがわれてきてるから、
なんとなくそういう好みの人が多いだけで、それでも中には林家ペーさんみたいな人もいれば、
月影千草のような女優さんもいらっしゃるわけです。

ご覧いただいている写真は、プレゼントとして頂戴した夫婦箸です。
妻の知り合いから、御自身も気に入っている使いやすいお箸ということで、
妻の分だけではなく、私の分までセットで頂きました。
おそらく下の黒いほうが私用で、赤いほうが妻用ということなのでしょう。
しかし、私は手が小さいんです。
結婚指輪をするかしないかという論争のときにも、論拠のひとつに持ち出したくらい、
私は自分の手が小さいことにコンプレックスを持っています。
ソフトボール以上の大きさになるときちんと握れず、上手くコントロールできなくなってしまいますし、
手袋もたいてい指先の部分が余ってしまっていて、ポケットから切符を取り出すときは、
一度手袋を外さなくてはいけないくらいです。
それに対して妻は手が大きいのです。
特に指が長いので、うらやましくてしょうがありません。
手を合わせてみると妻のほうが若干大きいのです。
妻は、たしかに自分は同性の中では手が大きいほうだったけれど、
自分より手の小さい男性は初めて見たと言っておりました。

さて、そういう場合、私たちはどちらの箸を使えばいいのでしょうか?
普通のジェンダー・バイアスをそなえた夫婦であれば、
それでも夫が長くて黒いほうを使い、妻が短くて赤いほうを使うということになるのでしょうが、
残念ながらうちはそういうジェンダー・バイアスから解放されていますから、
「じゃ、ぼくはこっちね」、「うん、私はこっちね」 とそれぞれの手の大きさに合ったほうを、
ごく自然に選んでいました。
私のほうが手が小さいといっても、ホントにほんのわずかの差ですから、
この2膳の箸の長さほど明確な差があるわけではなく、
したがってどちらの箸も使おうと思えば使えるわけですが、
もともと箸の使い方の下手な私ですので (これについてはそのうち書きます)、
お箸は短いに越したことはありません。
この赤いお箸は私が今までに使ったなかでもベストと言っていいくらいとても使いやすくて、
贈ってくださった方にはたいへん感謝しております。
ちなみに、夫婦湯呑みに関しても、
うちの妻はとても喉がかわきやすく、大量に水分補給を必要とする人間なので、
大きい湯呑み茶碗のほうを妻が使っていました。
(最近ではそれでも足りず、妻はお茶を飲むのもマグカップ)
ご飯茶碗に関しては、私のほうがよく食べるので大きいほうを使っていましたが、
最近ではご飯を食べる機会が減ってしまったので、
夫婦茶碗なんて引っ越しのときに捨ててしまいましたね。
けっきょくこの手の問題はすべて男だから女だからということとは関係なく、
ケースバイケースで実利を重視して決めているわけです。

これからはこういう夫婦○○の類ってだんだん減っていくのではないでしょうか。
それよりは、ひとりひとりの違いに合わせて、例えばお箸屋さんなんかでも、
親指と人差し指を直角に開いてその長さを測定し、そこから一番いい長さを計算して、
自分にぴったりの長さの箸を買ってもらうようになっているじゃないですか。
枕もそうですよね。
男だから女だからとか、夫だから妻だからということではなく、
ひとりひとりの特徴や好みに合わせたオーダーメイド的なものが主流になっていくように思います。
ジェンダーに規定されないその人らしさが大事にされるようになっていくでしょう。

大嫉妬傷心

2011-01-04 17:41:53 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
新年といえば年始回りですが、
うちの場合このところずっと日程が固定していて、
1月2日に小野原家の集まりがあり、
3日に妻の実家の集まりがあるという具合になっています。

2日は子ども時代の四半世紀以上を過ごした横浜市内の団地で新年会でした。
近年、みんなが集まるのに不便ということで、
実家の団地を訪れたことはほとんどなかったのですが、
久しぶりに行ってみるとホントに狭いところで、
3K (6畳×1、4.5畳×2、台所) の空間によく5人も住んでいたものだと思います。
風呂やトイレもミニチュアサイズで、今回は特に利用はしませんでしたが、
これだけ育ってしまった今となっては身体を丸めてちぢこまって使わなければならないでしょう。
なんだか小人の国にやってきたガリバーの気分で新年を過ごしました。

3日は東京の新居のお披露目も兼ねて、神保町の我が家に皆さんをお招きしての新年会でした。
東京タワーの近くに住んでいたときは、
部屋が狭くて妻方のご家族全員をお招きするという機会はもてませんでしたので、
久しぶりの大型プロジェクトです。
だいたい皆さんがなんやかんや持ってきてくださいますので、
あまりこちらで料理を用意しすぎても余ってしまいますし、
といって誰が何を持ってくるということがはっきり決まっているわけではないので、
意外とメニューを決めるのが難しいです。
数々の料理本を広げながら何にしようかあとずーっと頭を抱えておりました。

そんな中で、ほとんど悩むこともなくいちはやく決まったメニューがひとつだけありました。
「春菊のごま油和え」 です。
昨年の11月くらいだったか、農家の方から大量の春菊をもらったのはいいものの、
春菊って鍋に入れて食べるくらいしか利用方法がわからず、
処理に困って (せっかく頂いたのに申しわけありません)、
ネットで調べて仕入れたレシピです。
洗って水を切った生のままの春菊をザクザクと刻み、
適量の塩 (適量って困りますよね、2把に対して小さじ1くらいでしょうか?) を振り、
ふわっふわっとよく混ぜ合わせておきます。
そこに煙が出るくらい熱く熱したごま油を適量 (2把に対して大さじ4~5?)、
ジュワーッと回しかけます。
その上にゴマと刻みノリを大量にかけて出来上がりという、
とんでもなくお手軽なサラダです。



これを知ってからはうちでパーティをやるたびに出しています。
作るのが簡単で、春菊のみというのがインパクトがあり、
それを生で食べるというのにもみんな驚いてくれ、
食べてみると意外といけるのでものすごく好評なのです。
いろいろと凝った料理をたくさん用意していても、
あとで感想を聞いてみると、一番お客さんたちの印象に残っているがこのメニューなのです。
というわけで、この新年会でもこれだけは迷わず出してみようということになりました。

予想通り評判は上々。
特にお義父さんはこれをたいそう気に入ってくださって、
手帳にレシピを一生懸命書いていかれました。
お義父さんは元寿司職人で、今回もうちの切れない包丁で刺身を用意してくれたり、
海老の天ぷらを巻いた太巻きなど美味しいメニューをいろいろ提供してくださったのですが、
けっきょくこの一番お手軽な 「春菊のごま油和え」 に軍配を上げ、
「今年の大ヒット商品だな!」 と最大級の賛辞をくださいました。

ところでこのお義父さんは生粋の江戸っ子です。
江戸っ子って 「ひ」 と 「し」 の発音が区別できないんですよね。
なので 「大ヒット商品」 と言ってるつもりが、
「大シットしょうしん」 になってしまうのです。
文脈から 「今年の大ヒット商品だな!」 と言っているということは、
みんな最初からわかっていたのですが、
「え? 今なんて言った? 大嫉妬傷心? もう一度言ってみて」 などとからかいながら、
家族の楽しい語らいの夜は更けていったのでした。
年末から年始にかけて、またしこたま飲んでしまいました。
今測っても大して太っていないはずですが (「究極のがんばらないダイエットその2」 参照)、
福島に帰って体重計に乗るのが怖いです

カント倫理学ってヘンですか?

2011-01-02 22:26:02 | カント倫理学ってヘンですか?
 昨日予告しておいたように、新しいカテゴリーを起ち上げます。その名も 「カント倫理学ってヘンですか?」 です。私は知る人ぞ知るカント研究者ですが、これまでこのブログでカントについて語ったことはほとんどありませんでした。実は大学の授業でもあまりカントについて論じたことはありません。自分が専門に研究していることを、哲学について本格的に学びたいと思っているわけでもない皆さんにお話しするのって、けっこう難しいことだと思います。自分が好きであればあるほど、ものすごーく細かいディープな話をしたくなってしまいますが、そういう話をしてしまうとみんなザーッと引いてしまって誰もついてきてくれなくなるということを何回か経験して、中途半端な覚悟でこんなことをしてはいけない、やるならとことん時間をかけて徹底的にやらなければいけないんだな、ということをわりと初期の頃に学んだわけです。それをするためには十分な準備が必要だったので、これまでずっと先延ばしにしてきました。そして、2011年を迎えた今日、まだ十分準備が整ったわけではないのですが、いつまでも明日があると思っていちゃいけないということに気づいたので、そろそろ宿題に取りかかろうかなという気になったというわけです。
 カント倫理学についてわかりやすく語るという宿題は、このブログの中でも何回か言及したことのある、今は亡き友人、加藤国彦さんから頂戴した宿題です。福島県で高校教員をやっていた加藤氏から、初めてお会いした日にこんな言葉を投げかけられました。「高校生にどうやってカントを教えたらいいんですか。定言命法なんて言ったって彼らにはちっとも響かないんです。何のリアリティもない。どうやったらカント哲学の魅力を伝えることができるんですか」。福島大学に赴任してきたばかりの32歳の私はその問いに答える言葉をもたず、それ以来17年もの歳月が流れてしまいました。それについてずーっと考え続けてはいたのですが、どう答えたらいいかなかなか整理がつかずにいたのです。そして、今もまだきちんと整理がついたわけではないのですが、いつまでも先送りにしていてもしかたないので、とりあえず書き始めてみようとやっと腹をくくったというわけです。
 上手くいくかどうか確信がもてませんが、とりあえず私の計画は、高校生がカント倫理学ってなんかヘンじゃね?と納得いかないでいる、その違和感をまずは共有し、どこがどうヘンなのかを徹底的に分析してみてはどうだろうかと考えているところです。なのでカテゴリー名を 「カント倫理学ってヘンですか?」 にしてみたわけです。就職活動のために自己分析をしている大学生ってみんな自分の短所は思いつくけど長所が何も思い当たらず苦しんでいる場合が多くて、そういう彼らに長所と短所って同じなんだよと指導してあげてるわけですが、それと同様に、カント倫理学のヘンなところというのは、見方を変えれば、カント倫理学の長所でもあるはずで、ヘンだよねぇ、ヘンだよねぇ、でもそこがすごいんだよねぇ、というふうに話を進めていけないだろうかと目論んでいるわけです。はたしてこの計画が上手くいくかどうか、まあ上手くいかなきゃ途中で放棄してしまえばいいし、それ以前に自分が飽きてやめてしまうということも大いに考えられるし、どこまで続くかわかりませんが、とりあえずやってみようと思います。このカテゴリー、ブログ用に毎行改行して、1行の文字数を加減するなんていう余裕はないと思いますので、ダーッと書き下ろしていってしまうことにいたします。それと、絵文字や写メを活用するなんていうマメなこともたぶんできないでしょう。ちょっと読みにくいかもしれませんがご容赦ください。それでは、本格的なスタート (次回のアップ) がいつになるかわかりませんが、あまり期待せず気長にお待ちいただければと思います。

あけましておめでとうございます2011

2011-01-01 12:00:00 | 幸せの倫理学

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。

昨年の半ばに毎日更新は断念してしまいましたが、

その後も週6ぐらいのペースでブログの更新は続けてきました。

子どもの頃、元日から日記をつけ始めても本当に文字通り三日坊主で、

三が日でやめてしまうということがよくあって、

手垢のついていない真新しい日記帳がどんどん増えていくことに、

セルフエスティームの低下を感じていたものですが、

それに比べてブログはよく続いているものだと思います。

今年もしょうもないネタを書き連ねていきますので、

今後ともよろしくお引き立てのほどお願い申し上げます。

年も改まって心機一転、新しいカテゴリーを起ち上げる野望も抱いています。

それも含めて乞うご期待ということで。

ご覧頂いている写真は、東京の新居のエレベーターホールから望む富士山です。

神田神保町のオフィスピルの最上階17階からの眺めですが、

東京のど真ん中といえども、さすがにここまで上ると富士山も見えてしまうのですね。

以前の住まいからは東京タワーが見えていましたが、

今後は富士山映像が新年の定番写真になるかもしれません。

今年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。