まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

正戦に関するFAQ

2011-01-19 18:29:34 | 哲学・倫理学ファック
「社会と人間 ―戦争への学際的アプローチ―」 の2回目の講義では正戦論を紹介しました。
戦争を全否定してしまうのではなく、ある条件を満たしている戦争は 「正しい戦争」 として
容認できるのではないかという考え方です。
倫理学のなかでは戦争全否定論 (絶対的平和主義) よりも主流派の立場です。
正戦論に関して次のような質問をいただきました。


「Q.開戦ルールについてですが、正義に基づく開戦理由の例に、自衛と、奪われた物を取り返す場合とが挙げられていましたが、現在、日本は尖閣諸島のことや、北方領土のことについて日中、日露間で関係が悪いように思えますが、これは開戦ルールに当てはまるものなのか? 奪われた物を取り返す場合に当てはまるものなのでしょうか? 仮にそうなら日本はなぜ攻めることをしないのでしょうか? 北朝鮮の拉致についても決定的な証拠があれば戦争をするのでしょうか?」


こういう質問をいただいてしまうと自分の説明の仕方が悪かったのだなあと落ち込んでしまいます。
あの講義では 「正戦論の倫理学的系譜」 ということで、
歴史の流れのなかで登場した正戦論をいくつかご紹介しました。
最初に紹介したのが、キリスト教的正戦論です。
これは中世から近代にかけて流行っていた正戦論ですが、
未だにこの正戦論が通用しているというわけではありません。
ご質問のなかで取り上げているのはまさにこのキリスト教的正戦論のなかの開戦ルールの話です。
たしかに、キリスト教的正戦論に照らして言うならば、
領土を奪われたり、国民を拉致された場合に、それを奪い返す戦争は正戦ということになります。
しかしながら、現代の正戦論はキリスト教的正戦論の教えをすべて受け継いでいるわけではありません。
特に、奪われた物の奪還というのは、今では正義に基づく開戦理由とは認められなくなっています。
これを認めてしまうと、時代をどこまで遡るかによって、
盗られた物を取り返すのだからということで、どんな戦争でも正戦になってしまいかねないからです。
北朝鮮による拉致の例が挙げられていましたが、
その奪還のための戦争が正しい戦争ということになってしまったら、
逆に北朝鮮の側 (韓国も同様です) は、
強制的に日本に連行されてしまった国民とその子孫 (すなわち在日コリアンの人々) を奪還するために、
日本に攻め込んでもかまわないということになってしまいます。
この手の問題を開戦理由にしていいということになると、
それこそ現在の世界の秩序が崩壊してしまいますので、
現代の正戦論はこれを含めていません。
国連憲章の第7条にあるように、現在において容認される開戦理由は、
自衛の場合と、平和への脅威がある場合に限定されています。

そして、もうひとつ。
特に日本の場合は、昨日も書いたように日本国憲法第9条がありますから、
そもそも正戦論という立場を取っていません。
国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄しているのですから、
領土問題があったとしても、それを理由にこちらから戦争を仕掛けるということは絶対にありえません。
これは日本人の常識として知っておくべきことだと思います。
では、次の質問に行きましょう。


「Q.世界史の中で 『正戦』 はあったのですか? 民間人を巻き込んでしまうのなら、どんな理由・理論をつけても 『正戦』 にはならないのでは?」


正戦論には開戦ルールと交戦ルールがありました。
交戦ルールというのは戦い方の条件です。
戦争だからといって何でもありではなく、ある種の決まりがあって、
その決まりを守って戦わないと正しい戦争とは言えないというのです。
「非戦闘員を攻撃してはならない」 というのはキリスト教的正戦論のなかの交戦ルールです。
歴史上それをきちんと守って戦われた正戦は本当にあったのか?
この問いは倫理学者の私ではなく、歴史学者の先生に答えてもらったほうがいいと思いますが、
正確な歴史的根拠もないままに私の想像でお答えさせてもらうならば、
そういう正戦はちゃんとあったのではないだろうかと思います。
「武器の進化」 についてお話ししたときに少し論じたと思いますが、
私たちは戦争というと、飛行機によって都市が爆撃されるところをイメージしがちですけれども、
それって20世紀になって飛行機が発明されてから以降の戦争の姿であって、
それ以前は軍隊どうしが戦場に行って戦っていただけなのです。
もちろん非戦闘員を巻き込んでしまう戦争もあったかもしれませんが、
国境近くの人里離れたところが戦場となるならば、
非戦闘員民間人を巻き込まずに戦争するということはありえただろうと思うのです。

しかも、キリスト教的正戦論の交戦ルールのなかには 「ダブル・イフェクト」 の決まりもありますから、
意図的に非戦闘員を狙って攻撃したのではなく、相手の軍隊に対して攻撃をしたのだけれど、
たまたま近くに民間人がいて巻き込まれて非戦闘員が犠牲になったという場合には、
「非戦闘員を攻撃してはならない」 というルールが破られたことにはならず、
したがってそれは正戦ということになるのです。
そういう許容も含めて考えると、昔は正戦と呼べる戦争はあったのではないかと思います。

しかし残念なことに、「非戦闘員を攻撃してはならない」 という交戦ルールは、
現代の正戦論には受け継がれていません。
先にも触れたように、飛行機やミサイルの開発によって、
戦争のあり方がガラッと変わってしまったからです。
1937年、スペイン内戦のときにゲルニカという都市が空襲によって破壊し尽くされ、
民間人の犠牲者も出ましたし、ピカソがその様子を描いた絵 『ゲルニカ』 も有名になって、
この空襲に対しては世界中から非難が向けられましたが、
その後は、日中戦争で日本軍が重慶爆撃を行ったり、
第二次世界大戦になるとアメリカによる東京大空襲や、
さらには広島・長崎への原爆投下など、
非戦闘員が暮らしている都市への攻撃が日常茶飯事になってしまいます。
したがって、現代の正戦論は 「非戦闘員を攻撃してはならない」 というルールを採用していません。
もはや、そんな戦争はありえないからです。
だから質問者の2番目の質問にお答えするなら、
現代においてはあのルールはもうないので、非戦闘員を犠牲にしてしまったからといって、
正しい戦争ではないということにはならないのです。

でも、これってなにかヘンですよね。
私に言わせると、
「非戦闘員を攻撃してはならない」 という条件が取っ払われてしまうのならば、
もはや正戦論には何の魅力もないという気がします。
これほどまでに武器が進化してしまった現代においては、
正しい戦争はどういうものかを考えるよりも、
日本国憲法第9条のような絶対的平和主義の立場に立って、
いかにして戦争をしないようにするか、どうやってなくしていくかを考えたほうが、
生産的な気がするのでした。