おじさん山伏です

修験道の修行から見た心の散歩です。
アイヌのアシリ・レラさんからの命名です。
「キムン・マタギ」になりました。

一条恵観山荘が何となく気になり出かけました。 その3

2017-10-10 | 日記

昨日の続きです。

一条恵観山荘でカフェでコ-ヒ-とチ-ズケ-キをいただきました。

縁側で座禅のまねごとをしましたが、滑川のせせらぎの音を聞きながら

木々の間を渡ってくる爽やかな風を感じていると

自分を忘れて溶け込んでゆくことを感じました。

お庭をよく見るとひとつひとつ、考えて造園されていることに

気づきます。その小さい心使いが全体の落ち着いた雰囲気を醸し出しているのですね。

滑川は、朝比奈切通を源流から流れています。

 

やまもも亭が見えています。

本当は、苔むした石段を登ってゆくのが本当なのかも。

 

 

窓からお庭を眺めながらお茶をいただきます。

窓を少し開けて川のせせらぎの音を感じられるように気を使われています。

ホ-クとナイフは、エンボス加工してあります。

右の緑のものは手ふきです。

コ-ヒ-とチ-ズケ-キです。

美味しかった。

 

 

窓の外に縁側があります。

ふと感じました。この縁側で座禅をしたらいいなあ・・・・・

川のせせらぎや梢を渡る風の音を聞きながら瞑想することは

瞑想の神髄に近づきます。

清水義久さんの配布された資料に小川のせせらぎや小鳥の声を

録音されたCDが配られています。

そのCDを聞きながら瞑想をすることを薦めています。

でもCDでなく本当の自然のなかでの瞑想がすばらしいですね。

今度。おしりに敷く小さな座布団を持参して瞑想をしてみようと思っています。

円覚寺の座禅との違いに心がしびれます。

まだ、人が少ないのでこんな贅沢が出来るのでしょうね。

またまた新しい鎌倉を発見!!

 

こんな贅沢を独り占めして良いのか・・・・・

神さま、ありがとうございます。

客室は二つあり小さい方はこじんまりして落ち着きます。

接待してくださる女性は、お着物です。

 

 

 

細い竹の可憐さに心を奪われます。

 

 

 

 

 

新しいパンフレットが出来ていました。

今度、山荘見学(予約、¥1000円)を見学してみようと思っています。

ありがとうございました。

昨日の続きで、大島直行先生の「縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか」

プロロ-グから。

 

ヨーロッパやシペリアの先史時代に目を転じれば、そこでも数多くの墓とされる場所が見つかっています。

ほとんどが地面に円く穴を掘ってつくられていますが、じつはこの点が重要です。

なぜ世界各地で、人は死を知り、穴を掘って死者を葬ったのでしょうか。

 

埋葬に際しては、心のこもったていねいな儀式が行なわれたことも想像にかたくありません。

たとえば、死の悲しみにくれながら死者を葬るのは、縄文時代のムラで、

大自然に精霊や神を感じ、神話的な思考のなかで土器や上偶や石器をつくり、

竪穴を掘り、小屋掛けをして家をつくり、

海や山に食料や生活資材を調達しながら日々を送った人たちです。

もっと言ってしまえば、彼らの家族やムラの人々との人間関係は深く、

死者は残されたものに、とてつもない心的な影響を与えたに違いありません。

 

ところで今、私はまるで見てきたかのように縄文時代の人の葬送や暮らしぶりを語りましたが、

多くの方は違和感なくこの話を受け入れたのではないでしょうか。

「墓」という言葉に異を唱える人もいないはずです。

それには、ちょっとした理由があります。

それは、私たちの思考のなかに、すでに仏教や儒教、

あるいは道教などに影響を受けた考え方(世界観)が文化として根づいているからなのです。

 

しかし、縄文人が現代に生きる私たちと同じようなものの考え方をしているというのは

根拠のない前提あるいは仮説であり、本当にそうかどうかは、じつはわかりません。

考古学者はよく「祖先崇拝」という言葉を口にしますが、

それだって仏教や儒教的な世界観に基づいている可能性があり縄文人が

本当に「祖先」という観念を持ち、死者を崇拝していたかどうかは定かではありません。

 

斜に構えた見方と言われるかもしれませんが、

「墓」や「墓穴」という概念さえも、縄文人と共有できるかどうかは保証のかぎりではないのです。

 

縄文人は、多くの考古学者が考えるような、家族や祖先などの集団を基盤とした死生観ではなく、

肉体が滅んでも死にことさらこだわるのではなく、

新たな「生命」がよみがえることにこそ高い関心を待ったのかもしれないのです。

じつは私がそのように考えるのは、かつてヨ-ロッパでは、

死がことさら大きな意味を持つわけではなかったという研究

(フィリップーアリェス〔伊藤晃ほか訳〕『死と歴史』みすず書房、一九八三年)や、

アマゾン流域などの先住民の人々の不思議な生活や信仰を知っているからです。(中略)

死を認識する能力は動物にはなく、人間だけが獲得した脳生理学的能力なのだ。

要するに私たちは、未来を予見する生得的な能力があるせいで「死」を

知る羽目になったということらしいのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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