安政江戸地震は、1854年12月23日 M8.4の地震が、
関東から近畿におよび特に津波の被害が大きかった。
このあと、24日M8.4。26日M7.5。
翌年3月に飛騨白川、金沢にM6.7の地震があった。
11月には、江戸を中心にM7.1で江戸下町の被害が大きかった。
大正関東大地震のときは、余震が3時間以上揺れ続き
船に乗っているようだとの記録があります。
この本は、国立国会図書館にある鯰絵を復刻したものです。
その中から絵図と解説を転記します。
最初は「鯰退治」です。
絵図の解説からです。
「この絵の見所は、一般に地震を起こした鯰に対し、大儲けをした
連中(材木問屋、大工、屋根屋、左官、鳶職)は、鯰を有難がって
感謝している一方、大損をした金持、大家、芝居小屋、芸人などは、
鯰を打ちのめして怨みを晴らすという設定の鯰絵が多いが、
この「鯰退治」は、大儲け、大損の区別なく、地震を起こした大鯰を
俎の上に乗せ、江戸の庶民の総てが各自道具を手に鯰を打ちのめして
いるという珍らしい構図になっている点である。
その理由は、総ての人々が地震鯰を、打ちのめして
退治する図柄によって、この「鯰絵」を家内安全の。お札”に仕立て
ようとした作者の意図がはっきりと表現されている。
地震を起こした大鯰を、打ちのめしている人を右下から見ると、
庖丁を手にした遺手婆さん、女形、芸人、材本屋、遊女、職人達、長
屋の隠居、仲間、物売り、坊主、おかみさん、掛矢をふりあげた職人
庖丁で鯰の胴体を切る職人達などを画いて、江戸の庶民の総て
が難渋した怨を、この大鯰にぶつけているもので、人相、風態、着物、
職業など江戸時代の風俗の時代考証にも、大いに役立つ図柄である。
また、右上に鯰のおかみさんが子供を背にして助けをもとめているが、
裸の職人がしたり顔で。かんべんならねえ!″と払のけているものを
画きこんでこの鯰絵をしめている。
左上に画かれた東方、西方、南方、北方、中央という文字は梵語の
まじないで、その左の文字を読んでみると‘、「東西南北天井へ こ
のふだをはりおけハ、家のつぶるるうれひ さらになし」と書いて、
この鯰絵を家内安全、地震除けに貼りなさいとした″お札″である
と作者はいっているが、信仰的な根拠があるわけでなく、江戸の庶
民のあらゆる階層の人々が大鯰を打ちのめしているという、単純な
ことでも、科学の未発達の時代に地震は鯰が起こすものと信じていた人々の、
心情に訴えて鯰絵を売らんとしたものである。
阪神淡路大震災のときにボランティアの活躍があり、
始めて行われたとボランティア元年と報道されていました。
安政江戸地震の絵図を見ていると背負って逃げている人たちや
倒壊した家屋の屋根を壊して助け出している絵があります。
実は、安政江戸地震で2日夜に町奉行所において、
公の対策が討議され即決されたといいます。
1.罹災民への炊き出し握り飯を配布する。
2.宿無しになった者の立ちの先として御救小屋を建てる。
3.けが人の救済・手当をする。
4.日用品の確保を諸問屋に命ずる。
5.国々より諸職人を呼び集めるように職人仲間総代に命ずる。
6.売り惜しみ、買い占めを禁ずる。
7.諸物価・職人手間の騰貴を禁ずる。
8.与力・同心をして町中見回り・救助・取り締まりをさせる。
9.町名主中に震災対策の掛りを申しつける。
阪神大震災後に文献を集めいろいろと読みましたが、
このおふれ読んだ時に涙が出そうなほどに感動しました。
江戸時代のことについて書籍を読むといろいろと学ぶこことが多い。
寺子屋で使う教科書(?)は、2代も3代も大事に使っています。
和城伊勢さんの「江戸しぐさ」は、読んでいて今の時代の
恥ずかしさを感じさせてくれます。今度、紹介しますね。
その人のしぐさをみれば、江戸っ子がどうか分かったそうです。
地方出身者は、講などで一生懸命に努力して教養を身に付けたそうです。
明日は、地震で儲けた人たちの絵図を紹介します。