おじさん山伏です

修験道の修行から見た心の散歩です。
アイヌのアシリ・レラさんからの命名です。
「キムン・マタギ」になりました。

久し振りの東慶寺のお参り。参堂の梅は満開。

2021-02-28 | 日記

寒さがぶり返すとの予報で

下着は2重に、ホッカイロをお尻に貼って出掛けました。

 

 

参道の両側は、梅の花につつまれていました。

入り口の近くの木瓜も満開、

庫裏のの後ろのモクレンの花も満開。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありがとございました。

明日に続きます。

実は、左足の膝が、軟骨が出て痛みが続いています。

でもひよっと築いたら足の筋肉が細くなっていました。

ころは遺憾、不安ながら鎌倉に出掛けました。

でも何とか北鎌倉から長谷まで歩くことができました。

夜は、お風呂に入り足をマッサ-ジ。

負けてはいられません。

でも円覚寺仏殿でお経を唱えていると

いつもの自分に戻ってきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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長谷寺のお参りの続きです。**ムシカリ**

2021-02-27 | 日記

佐藤 義英さんの「雲水日記」から参堂です。

いつも円覚寺で雲水さんを見かけますが、

庭やや山肌を整備している姿をみますが、

毎日はどんな生活をされているのかを知ることができます。

今日は、一月ぶりに円覚寺や東慶寺にお参りします。

何とか膝は痛いのですが、ゆっくりと歩いてお花を楽しんできます。

参堂(さんどう)

翌日の朝食後、いよいよ禅堂に移された。庫裡から廊下

伝いの奥まったところに建つ別棟で、中は一面の敷瓦、

正面の厨子に文殊菩薩(聖僧)が祀られ、両側が一段高くなって

畳敷き。そしてそこには、先輩たちが全員ズラリと塑像

のように坐っている。

 案内の侍者(聖僧に仕え禅堂の世話をする役)の指示に従っ

て、白足袋、袈裟を着け、全身を緊張の固まりにして、まず、

聖僧さまに線香を供え坐具を展げて三拝し、修行無事を祈る。

つぎに直日(じきじつ)という。禅堂取り締まりの前に行き、

「今後の教導をよろしく」という意味の低頭。そうして旅

荷の置かれた自席に導かれてまさに着座しようとしたその

時に、「新到、参堂!」と侍者が大声に呼ばわった。すると、

突几(突兀とっこつ)と坐っている先輩たちは

うやうやしくいっせいに低頭したものである。

これで仲間入りだ。愚にもつかぬ履歴な

どは一言半句の紹介もない。まさに簡潔にして厳粛、こん

なすがすがしい入学式や入社式が他にあるだろうか。

長谷寺のお参り

 

 

 

 

 

 

河津桜が咲き始めました。

 

梅は満開です。

 

木瓜は長く咲いていますね。

 

 

 

 

 

ありがとうございました。

YouTubeで永平寺の雲水さん達の生活をみていると

雲水日記が大変に参考になります。

 

YouTubeで司馬遼太郎さんの「街道をゆく 南蛮の道」を見ていて

今回の米国の大統領選挙でロ-マカトリックが

何らかの形で係わっていたという話があります。

南蛮の道で司馬さんは、フランシスコ・ザビエルの村を訪ねています。

バスク人の村の様子を見ているとそのギャップに心を痛めます。

バスクの年老いた神父さんは、教会を静かに守っていることが

ひしひしと伝わってきます。

司馬さんのモンゴルの話でも、欲望がなく

大自然の中に暮らす遊牧民の姿から米国の資本主義の権化が

如何に人間を間違った方向に進めているか感じさせます。

 

 

 

 

 

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長谷寺のお参り その2**ひな草**

2021-02-26 | 日記

故鈴木大拙老師の一日一言から

「ここに生まれ出た意味」

 自分は日本人に生まれようと思って生まれたわけでなし、

 明治何年に生まれようとして生まれたわけでもない。

 ただ、ここに生まれ出たのには何か意味があるのじゃないか。

 その意味とは何かというと、

 自分がこうしなければならぬと思うものをやることだと思う。

 わしは日本の使命はどういうものかとわからんけれども、

 自分としては、こうすべきだと思うことを、

 成績があがろうとがあがるまいが

 努力するよりしかたがない。

長谷寺のお参りの続きです。

今日は、午前中に中村橋商店街に買い物に出掛けました。

杖を付きながらゆっくりと歩いて出掛けました。

少し膝が痛いのですが何とか歩けました。

荷物は、リュックに入れて。

 

 

梅が満開です。27日は何の花がさいているのか楽しみです。

蝋梅と違って黄梅なのですね。

 

左端の大きな屋根は、材木座の光明寺です。

 

 

 

 

ありがとうございました。

雨宮ゆかさんの花ごよみから

「ひな草」

 ひな草、という名の青い花。

 シャツのボタンより小さな花は、

 出始めの蕗の葉を添えて、

 ガラスの器に。

 曇りのガラスは、

 寒い日に使いたくなる器。

ヒナソウ

 

 

 

 

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長谷寺にお参り 梅の花が満開です。

2021-02-25 | 日記

江島神社のお参りを済まして洲鼻通りをから江ノ電。

故鈴木大拙老師の一日一言から

「苦しめば苦しむほど」②

 すべて偉大な芸術家、偉大な宗教的指導者、偉大な社会改革者たちは、

 峻烈この上ない戦いから生まれた。

 かれらはその戦いを

 勇敢に、そしてきわめてしばしば、

 血と涙とをもって、戦い抜いたのである。

 悲しみのパンを口にすることなくしては、

 あなたは真実の人生を味わうことはできない。

 

タブの木さんこんにちは。

 

 

 

 

 

 

 

故杉本秀太郎先生の花ごよみ春から

「レンギョウ 連翹」

連𧄍(レンギョウ)には、いたちぐさ、いたちはぜの別名がある、あるいはあったらしい。平安時代の歌人源 順

(911-983)の『倭名類聚抄』はこの別名をしるすが、いまは耳なれない。改造社『俳諧歳時記』

春の巻、「季題解説」を左に引用する。筆者は虚子に協力した『ホトトギス』同人のだれかである。

 

ひひらぎ科、支那の原産で、我国に栽培する観賞用落葉小木本である。枝条は長くのびて蔓のように撓み垂れ、

これが地に著けば根を出して著く。

関東地方では撓めて垣に結つてあるのを見かけることが多い。

葉は対生し屡々三小葉に分かれてゐる。春、他の花に先立って

木のやうな枝々に、一面美しい黄色の花が咲くと

他の花にさきだつて、葉の未だ少しも現はれぬ枯

もう春だなといふ感じが深い。

くからでもはっきり連麹だと知れる程である。美事に咲くとあたりが明るいやうに

さへ感じられるほどである。

花が散った頃、葉が出て来、ぐんぐんと柔かに枝をのばす。

漢字連麹は、枝に花の沢山っいた影が、ちやうど鳥が羽を拡げたやうになるのを形容して、

かう名づけたものであるととのことである。(後略)

 

 

 

 

 

 

 

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江島神社の裏道で戻ります。

2021-02-24 | 日記

奥津宮まで行かないで下道を「戻りました。

裏道は静かで雰囲気のある道です。

 

 

 

 

石段の下に戻ります。

 

ありがとうございました。

膝の話。

2/23日膝の痛みが大分薄れてきました。

昨日までは足尾伸ばすと膝が痛かった。

一日、貼り薬でなく痛み止めのスティックの塗り薬を

朝塗りました。

何とか今週土曜日に円覚寺にお参りしたいと思っています。

 

 

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江島神社のお参り その4

2021-02-23 | 日記

故鈴木大拙老師の「一日一言」から

「苦しめば苦しむほど ①」から

 人生は、どう論じようとも、結局苦しい闘争である。

 だが、苦しめば苦しむほど、

 あなたの人格は深くなり、そして、人格の深まりとともに、

 あなたはより深く人生の秘密を読みとるようになる。

足の痛みは、大分少なくなりました。

自転車で漕いだとき上部にくろと膝が痛かったが

痛みが薄らいだようだ。

今週末には、何とか鎌倉にゆけそうだ。

でも長時間の歩きは無理だ。

最後に杉本秀太郎先生の花ごよみ。

江ノ島の続きです。

 

 

不動明王にお参り。

 

 

 

 

 

 

 

 

下道で戻ります。

ありがとうございました。

故杉本秀太郎先生の花ごよみ 春から

アマドロです。

アマドロ

 まったく日の当たらない板塀の北側に、あまどころがびっしりはびこり、

しけてどうにもならなくなった。

引き抜いて山積みにしておいたら、

漢方薬に凝っている人がたまたま来て、

勿体ないと言いながら全部持って帰ってくれた。

 あまどころの根茎は横へ横へと伸びすすむが、

脆くてポキポキと折れる。

生姜の根に似ていて白っぽい

この根茎は多量の澱粉を含んでいて、滋養強壮の効があるという。

 すっかり始末をつけてみると、急に惜しくなった。

晩春初夏、あまどころは白い釣鐘型の花を茎につらねている。

浅みどりの葉は、夏が更けても色が濃くならず、涼しげに見えたものだ。

根がどこかに一本くらい以残っているだろう。

丈夫な草だから、またふえるだろう。

 あまどろという名は、根が野老(ところ)(これは「冬」の章で取り上げる。)に似ていて、

しかも甘いということらしい。仲間に鳴子百合、鰐口草、稚児百合などがある。

宝ちゃく草というのもある。

いずれも花の格好から付いた名前である。

 人はこれまで、あまどころを詩歌に

うたいこめる労をいとってきた。

見るべき例句もない。

 

 

 

 

 

 

 

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ちょっとショッキングな本を読みました

2021-02-22 | 読書感想

いつもの故杉本秀太郎先生の花ごよみ「春 蕗の薹」を

読んでいて、米国の大統領選挙の話のなかで

梅さんの息子の話と繋がるものがありました。

故杉本秀太郎先生の花ごよみの蕗の薹から。

蕗の薹(フキノトウ)

 若菜、春の七草はそれとして、われわれの食卓にいかにも春らしい香気を添えるものなら、

蕗の蔓にまさるものはない。

澄ましのお椀にうかぶ黄みどりの小片から湯気とともに湧き立ち、

春待つ心に染みとおる香り。

それは不粋なローマ人が回春のために用いたという処女の生き血の風呂よりも、

われわれには効き目のある回春の秘香かも知れない。

斎藤茂吉の次の一首は、そういう機微に触れていると私には思われる。『寒雲』所収。

  

  まぼろしに現(うつつ)まじはり蕗の蔓萌ゆべくなりぬ狭き庭のうへ

 

 お椀にうかぶ蕗の蔡を歯のあいだに捕えてみると、ほのかなにがい味がある。あのにがみは、

甘みでも辛みでもないが、時として甘みにやや近づき、時として辛みにやや近づく昧を含んでいる。

もう少しにがければ野暮になり、下品になるのに、あのにがみはよく節度を心得ていて、

小気味に、上品ににがい。

 蕗の薹の長けたのを「蕗の姑(しゅうとめ)という。

嫁に小言ばかりが多い姑は、にがみが多すぎて野暮な、

いやみな蕗の薹である。

副島 隆彦さんの本を2冊ほど読みました。

副島さんの学問道場の重たい掲示板のなかに

「すでに最高裁裁判所の判事たちも腐敗していた。とりわけ、J.R 長官は、

 エプスタイン島の大量の幼児殺害、生け贄の儀式、たくさんの赤ちゃん殺しの

 罪に問われるべき人間である。」と書かれています。

大統領の息子のパソコンに見たらへどが出そうなファイルが沢山あるとういう。

日本で9歳以下の自動の行方不明者は、令和元年で1253人です。

米国では沢山の子供達が不明になっているそうです。

今回の米国の大統領選挙でいろいろなことが明確になりつつあります。

ワクチンの副作用の動画があります。(黄金の金玉を知らないか にあります。)

 (でもすぐに取り消されるかも知れません?)

  

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サムエル・コ-キング苑のつづきです。**タンポポ**

2021-02-21 | 日記

故鈴木大拙老師の「一日一言」から

「人を動かす力」

 至人というのは、そのひとすべての行動が

 人格から出るときに、しかいわれるのである。

 凡人でもある機会にひょうと人格的行動する

 こともある。

 その瞬間だけその人は、少時の

 至人性を帯びてくる。

サムエル・コ-キング苑のつづきです。

椿が少し咲き出しました。

 

 

 

 

 

 

 

地下室の温室です。

 

 

 

 

 

ありがとうございました。

故杉本秀太郎先生の花ごよみ「春」から蒲公英(タンポポ)

 ある年のこと、まだ幼かった娘たちを連れて、御室の仁和寺にいった。

 「花は低うても御室の桜」と昔から言うのは、「女は愛嬌、男は度胸」という

 俚言の上半分を言い替えたようなものなのだが、

 仁和寺境内の桜はすべて背丈が低く、

 しかも花の色がほんのりとした紅色の八重桜

 なのを知っていないと、「花(鼻)は低うても」とうい冗談が通じない。

 御室の桜は花どきが遅く、

 例年四月二十日前後が見頃になる。

 緋の毛凱を敷いた花の下は、飲めや歌えや、踊れ踊れの乱痴気さわぎ。

 西洋なら、フランドルの農民たちの春祭ケルメスに、

 かつて同じような情景が見られたのは、

  夕-ベンスの絵から想像がつく。

 どことなく剛直で、軸がたくましい。

 花びらも寸づまりで膨なところがない。

 これは西洋たんぽぽなのだ。

 花の襟もと、とでもいえばいいのか、

 うてなの裏を返したところに、くせのあるあごひげが生えていた。

 である。図柄に文字を配していう・

精神の産物というものは、吹く風あらばいかなる風にも敏感に応じて綿毛を

とばすたんぽぽに喩えることができる。私はいまも時どき、

学生時代に買ったぼろぼろの『プチニフぐIス辞典』を引く。

私のなかに、

私の土壌に、この古ぼけた、しかし引きやすい辞書からとんできて

芽吹いたたんぽぽの数を、私はかぞえたこともない。

花どきはいつのことか。

もう花どきはすぎたのではないか。

「ノン」と私が答えても、人よ、笑いうな。

**********

杉本先生の文章を読んでいて材木座の光明寺の桜を思い出します。

仁和寺の桜は見たことはありませんが、光明寺の桜と

同じなのかなあと思い出して心が温まります。

 

 

 

 

 

 

 

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サムエル・コ-キング苑のチュ-リップは満開。**カタクリ**

2021-02-20 | 日記

故鈴木大拙老師の「一日一言」から

「無明に気が付く」

 吾々が今日自己の周囲のあらゆる面で目撃している、

 この殆ど絶望ともいうべき事態から、

 如何にしたら立ち上がることが出来るか、

 最も簡単な方法は、

 吾々が自己の無明に気がつくと共に、

 それによって業の足枷を打ち破ることである。

江ノ島サムエル・コ-キング苑のチュ-リップは満開。

椿もちらほら咲き始めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありがとうございました。

故杉本秀太郎先生の花ごよみ「春」から

「片栗」

人の欲しがる花が群生している場所は、知っていてもみだりに人に教えぬがよい。

根こそぎ大量に、そういう花を掘り起こして持ち去り、

小鉢に植えて法外の値で売りひさぐ悪人がはびこっている。

京都近傍を例にとれば、船井郡胡麻の鷺草、貴船の貴船菊(秋明菊)、

大悲山の姫射干は、いずれも人の手にかかって絶滅した。

 このあいだ、友人とタクシーのなかで花のことをあれこれ話題にしていると、

運転手が(個人タクシーだったが)こんなことを言った。

京都の某方面に、片栗の花が一面に咲く林があり、

毎年その花を見にゆくお方を乗せるのですが、

場所は絶対に秘密、人には申せません。

 どうかその秘密は、いつまでも守ってもらいたい。

早春の花のうち、私は片栗の花が殊に好きだ。

いたいたしいほど可憐で、やさしい風情。

片栗はギフチョウの吸蜜植物なれば、

 

はつ春の蝶舞ひゆく森かげに咲けるかたくりの花   高橋達明

 

 

 

 

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江島神社(中津宮)のお参り **ウンリュウバイ**

2021-02-19 | 日記

故鈴木大拙老師の「一日一言」から

「愧を知る②」から

 愧(はじ)を知るという句は随分強いが、

 倫理的には責任を負うということである。

 責任は軽く、知かいは重いといえば、

 そうもいわれるが、

 この重いと感ぜられるところに、

 知かいには責任以上のものが

 ふくまれて居るとみられる。

江島神社 中津宮のお参りです。

江戸時代の歌舞伎俳優がお参りしたようです。

 

稲村ヶ崎がよく見えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コ-キング苑の入り口。

ありがとうございました。

雨宮りかさんの花ごよみから

「雲龍梅」

 雲に乗る龍のようだから、雲龍梅。

 この個性的な枝の動きがいきるように、

 あわせるる花も器も選ぶ。

 枝は宙に浮くように、

 根元の花で地に繋ぎ止めて。

2/17日 ブログで面白い記事を見つけました。

10年前ほどに副島隆彦さんの本が面白くて何冊か読みました。

ふとブログで「副島隆彦学問道場」で米国の大統領選挙についての記事です。

幾つか面白い記事があります。

いまだにBさんは大統領として対応しきれていないとか。

http://www.snsi.jp/tops/kouhou

今回の騒動にロ-マカトリックが係わっていたとか・・・

「アメリカの争乱に動揺しながらも

 中国の世界支配は進む」(副島隆彦著)を

注文しました。

 

 

 

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江島神社のお参り その4 **バイカオウレン**

2021-02-18 | 日記

雲水日記 佐藤義英著から

「旦過(たんか)」から

この部屋は日ごろ空き部屋らしく変にカビ臭い。

「夕刻来たり、翌朝(旦)過ぎ去る」というのが

この旦過寮の意味だろう。

何やら規則めいた額が頭上に掲げられているが

文字も意味もわからぬ。

 薄暗い灯影で感慨に耽っていると、

雲水が「茶礼!」といって赤膳に番茶と饅頭一つ、

それと投宿帖をのせて入ってきた。

八時ごろのこと。

茶を飲みはしてから雲水が持って来た堤灯(手行灯)の

明かりでかろうじて本籍、受業寺。

姓名などを記帳した。

 しばらくして、今度は一枚きりの蒲団が運びこまれ、

「今度木板が聞こえたら寝なさい」といわれた。

しかし、ねずみのはげしい跳梁とこれから先の不安とで、

これではとてもまんじりともできそうにない。

 翌朝、朝食がすんだ後に、番茶を一杯振舞われてから、

「どうぞご随意に出発を」と追い出された。

旅装をととのえて玄関での坐り込み、

前日同様の苦行をまた終日続けねばならぬ。

 

雲水の様子が手に取るように分かります。

面白いですね。

江島神社のお参りの続きです。

 

 

 

 

猿田彦大神に昔からどこかひかれるところありまます。

 

 

河津桜が蕾が膨らんでいます。

ありがとうございました。

雨宮りかさんの花ごよみから

「バイカオウレン」

 歴上春とはいえ、庭に霜柱がざくざくと立つ。

 すっかり霜で荒れた上に埋もれないように、

 まっ白な梅花黄連の花がいくつも開く。

 けなげに、でもたくましく。

 

 

 

 

 

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江島神社お参りその3**オウバイ**

2021-02-17 | 日記

故鈴木大拙老師の「一日一言」から

「愧(はじ)を知る」

 動物にはもとより霊性的自覚は不可能である。

 天人--もしありとすると、彼等--は

 霊性そのままで生き居る。

 一極に動物的本能があり、他の一極に

 霊性的本能ともいうべきものがあり、

 人間は、その中間地帯の存在である。

 人間は霊性的本能を絶えず動物的本能の上に

 働きかけて居るが、霊性的自覚のまだない

 人々には、これに対する意識がない。

 愧を知るときに初めて霊性の

 働きかけの一面に気がつく。

江島神社の続きです。

 

有名な弁財天です。昔、江戸から大山阿夫利神社にお参りし

返りに江ノ島の弁天さまにお参りしたそうです。

 

江島神社の御朱印はここで行っています。

 

 

 

弁天橋が一望です。

 

 

 

 

 

ありがとうございました。

河津桜が鎌倉のお寺で咲き始めました。

雨宮りかさんの花ごよみから

「オウバイ」

 心はずむ名前の持ち主。

 黄梅の別名は「迎春花」。

 次々開く花の一つ一つから、

 ハルガキタヨ-、と呼びかけられているよう。

 そのくらい、にぎやかな花。

長谷寺の本堂にゆく石段の際にさいていました。

蝋梅には種類がありそうです。

足のリハビリ2/15

 朝、布団のなかで足を伸ばせるようになりました。

 以前は、痛くて伸ばせませんでした。

 椅子に座ったり立ったりを20回。

 昨日は、弘明寺商店街まで歩いて往復。

 膝は痛いけど何とか歩けました。

 商店街の買い物は、自転車です。

 自転車では足を曲げますの膝が痛い。

 でも昨日あたりから痛みが少なくなった。

 何とか、今週末に鎌倉にと思っています。

 

 

 

 

 

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江島神社その3 **ミスミソウ**

2021-02-16 | 日記

今日から 佐藤 義英さんの「雲水日記」から

雲水さの入門篇と日課抄と参禅録と歳時記が絵入りで

解説がされています。

なかなか素晴らしい本です。

円覚寺の売店で2年前に購入。

入門編では、

 初行脚、掛錫(かしゃく)、庭詰、投宿、旦過

 旦過詰、知客(ちか)参堂、安単、相見(しょうけん)

からなります。文字からイメ-ジが涌いてきませんね。

もはや躊躇はならぬ。最初の関門に挑む。薄暗い玄関の

低い式台へ旅装のままで低頭し、無我夢中で「タノミマ

ショー」とどなってみる。と、寂寞のどこからか「ドーレ」

と重々しい応答。まもなく現われた一雲水に住所姓名を告

げ、願書、履歴書、誓約書を入れた封筒を差し出して掛搭

を頼みこむ。取りつぎはいったん奥へ伺いに消えたが再び

現われ、「当道場はただいま満員でゆとりがない故お引き

取りください」と断わると、すげなく奥へ入ってしまって

それかぎり。さあ、これからがたいへんだ。

 「たとえ玄関払いを喰らっても用便以外は動ぜず坐りこ

め。かりに他の道場へ廻ったところで、同じ口上で追っ払

われるだけだぞ」とさんざん忠告されてきた。予定の行動

に移らねばならぬ。時に八時過ぎか。長い身体を二つに曲

げて低頭を始めたが、はやくも腰は痛み出し、額をのせた

手の指は感覚を失って始末がわるい。古来、先輩たちのこ

とごとくが堪えて突破してきた関門だと合点しながら頑張

るが、なるひど、聞きしにまさる苦行だ。

江島神社のお参り

最初に石段を登ります。

 

 

 

 

 

籩津宮のお参り。

茅の輪は、江島神社では1年中です。

大山阿夫利神社や横浜お伊勢さんは、6月と12月だけです。

ありがとうございました。

雨宮ゆかさんの花ごよみから

「ミスミソウ」

 木の下でひそやかに咲く、三角草。

 いっこうに増えないわりに。

 毎年花をきちんとつける。

 また来年も咲いて欲しいから、

 根ごと掘り起こして生ける。

 一日眺めて、また植えようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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江島神社その2 **シンピジウム**

2021-02-15 | 日記

故鈴木大拙老師の「一日一言」から

「愛と力 2」

 力はつねに尊大で、独断的で、排他的である。

 それに反して、愛はおのれを低うし、一切を包括する。

 力は破壊を意味し、自己をさえあえてする。

 愛の創造性とはまったく反対である。

 愛は、死に、そしてふたたび生きる。

 しかるに力は殺し、そして殺される。

江ノ島の参道を歩く。

富士山がよく見えていた。

最近、富士山に雪が積もらないと心配していた。

でも例年より雪が少ないみたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつものおまんじゅうを頂きました。

 

 

たこせんべい屋さん。

最近参詣客が少ないので並んで待っている人が少ない。

ありがとうございました。

雨宮ゆかさんの「花ごよみ」から

「シンビジウム」

 2月は蘭の花咲く月。

 外の気温は低くとも、

 部屋のなかは日差しが入り、

 窓辺はあたたか。

 温室咲きの蘭がゆったり開く。

 花芽をのぞかせる。

 木五倍子(キブシ)を生ける。

 「シンビジウム」

左足膝が軟骨が出て痛みに悪銭苦闘。

でも昨日から、自分流のリハビリを始めました。

目が醒めたら布団の中で足の運動を20分ほど。

起きてから椅子に座ったり立ったりを50回

足は痛いですが、近くの道を散歩。

買い物は自転車で商店街まで。

今週末に、鎌倉まで行けるようにと。

YouTubeで吉野古道を歩いている姿を見て

僕も、もう一度歩いてみようと心に誓いました。

何か目標を持たないとリハビリを途中で止めてしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2/6日の江島神社のお参り **椿**

2021-02-14 | 日記

故鈴木大拙老師の「一日一言」から

「愛と力 1」

 愛は肯定である。創造的肯定である。

 愛はけっして破壊と絶滅いは赴かない。

 なぜならば、それは力と異なって、

 一切を抱擁して、一切を許すからである。

  愛はその対象の中に入り、それ一つになる。

 しかるに、、力は、その特質として二元的、

 差別的であるから、

 自己に相対するものごとく粉砕し、

 しからずんば、

 征服して奴隷的従属物と化さねばやまぬ。

今日から江島神社のお参りです。

先日お参りしたときの写真がパソコン上でわからなくなり

再度出掛けました。

片瀬江ノ島駅のクラゲ?

 

 

竜宮城に来たみたいだねと老齢のご夫婦の会話。

 

 

 

 

富士山がよく見えました。

 

 

ありがとうございました。

故杉本秀太郎先生の花ごよみ 春から椿です。

春はいたるところで花に出会う。

年ごとに出会うべくして出会う花もあれば、

思いがけないところで、ばったりと出会う花もある。

春は愉快な季節である。

 けれども、たしかに去年はあったのに跡形もなく、

出会うべくして出会えない花もある。

早すぎたり遅すぎたりで、すれ違ってしまう花もある。

去年はその花をいっしょに見た人がもう世を去っていたり、

遠いところに行ったりして、

同じ花だけは咲いているということもある。

春は愁いにも悲しみにも富む季節である。(中略)

花に変りはない。しかし、いかなる花にせよ、

花を見て花と思えば、それはたしかに花なのだが、

花を愛しむわれわれの心はいつでも、

花を愛しむわが心を愛しんでいるのであり、

また、そういう心を宿して生きつづけているわが身をさらに

愛しんでいるのにちがいない。

花はいずれ短いいのちである。

花のいのちにくらべれば、われわれは長いいのちを生きている。

今年の花を見て、去年の花、

あるいはずっと遠い日に見た花を思い出している。

しかしながら、このいのちも、いずれ長かろうはずはない。

鶴は千年、亀は万年、東方朔は九千年、

その長寿にあやかれといわれても無理な注文であることくらいは、

だれでも承知している。

 

目には白い椿が映っている。

白玉椿はつやつやした葉のかげに、

うつ向き加減に咲いている。

赤い椿はまだ一輪も目に映らない。

三月も半ばをすぎないと、赤い山椿は咲き出さない。

赤が咲けば、ビロードのよシな照りのある黒椿も、

紅白が摸りにまじった遅咲きの住助椿も咲き出すだろう。

 今年もまた椿という椿が数限りもなく咲いては落ち、

くずれ朽ちた花びらのために、

根もとの上が見えなくなるとき、

桜はどんな山奥の桜もすでに散り尽して、

もみじの枝に新しい葉が日ごと、

てのひらを広げ、山吹の花が咲きはじめているだろう。

 こうして椿の長い花どきがおわって春がすぎれば、

世は卯の花どきの初夏、いまが花どきの女人たちのうなじ、

腕のまばゆさに目もくらむ季節に、

まためぐり合っていることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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