「小さき花」が来ました。
10年以上前に老子の話を優しく書いておられた加島祥造さんに
憧れて何冊か加島さんの本を読みました。
伊那谷にも行って見たかった。
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右のペ-ジは、別冊太陽からです。
この文章を読んでアマゾンに注文。
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小さき花のまえがきからです。
「米寿の年になって、失っていくものは多い。
ここ数年、耳が遠くなっただけじゃない。
人の名前、電話番号、場所の名前などはどんどん忘れる。
年のせいかって?・ もちろんそうだ。
でも、思うんだよ、頭の中から消えていくものは、
消えてもいいものなんだ、と。
そのかわり、残っていくものは以前よりもっと生きいきしてくる。
そっちのほうが本物で、大切なんじゃないか。
それに、その残った。脳力・はね、新しい興味や気づき、好奇心や空想力に働く。
そして異性に抱く温かい想いだってあるんだよ。
必要なものだけが残って、いらないものはどんどん消えていく。
この年になってようやくわかったんだけど、
老年になると余計なものが削ぎ落とされて、
本当に大切なもの、必要なものがもっと鮮やかになる。
そんなことに気づき始めたときに、不思議な出会いがあった。
まさに、「人間の本当の姿」を待った人たちだ。
その一人が、この本ができるきっかけにひった金滞翔子だ。
ダウン症の翔子は、はじめから天から落っこちてきた
生きものみたいだったんだよ。
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その不思議な出会いについては「あとがき」で書くとして、
彼女を見ていると気づかされることが多いんだ。
翔子はいつも愛に満ちている。
いつも温もりにあふれている。
彼女は書家である母・泰子と共に書に生きているが、
もちろん金の勘定はまったくゼロだ。
そもそもそういうことに動く脳は、幸か不幸か持ち合わせていない。
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だから、愛とか美とか、根幹にかかわることに敏感で、
後は何も求めていない。
翔子そのものも、恐ろしいパワーを秘めたその書も、
人の目を求めていない。
命のままに生きて書いているんだ。その美しさ、
その力強さは、私たちに真似できない「本物」だ。
人の目を求めない小さき花たちは、この伊那谷の山々でも美しい。
花も人も同じだよ。
花のサイズのことを言ってるんじやない。
声をあげずに、何も求めずに、一心に命を咲かせている花たちのことを言っているんだ。
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あとがきで今僕が考えていることが書かれています。
人間の脳は、たかだか10%しか使われていないという。
何万年の間に経験したいろいろなことが脳にしまわれていると思う。
先日も白川の祝殿で祝詞を奏上していて
言葉の重みを体感で味わいました。
古事記は、叙情詩としての言葉から伝えようとしたものがあると言われています。
あとがきから
「ただ、私は思うのです。
人間の脳には「根幹脳≒情動脳」、そして「知性脳」があり、
最初のふたつが生物として、人間としての一番の基礎で、
「知性脳」は言語や計算も含め、人類があとから発達させてきた部分だそうです。
ここが絶えず過剰な刺激を受けることで不当にのさばり、
人の競争心と所有欲を煽り、人間社会をこんなに、
バランスのかたよったものにしてしまったのです。
老子は、この「知性脳」を捨ておき、
「根幹脳」と「情動脳」を活かせとずっと言い続けてきました。
原型としての人間のよさを取り戻せと切実に説いています。
玄や翔子は生まれたときから、
この厄介な「知性脳」にあまり邪魔されずに生きてきたため、
老子のメッセージ タオの心がまっすぐに届くのかもしれません。
彼らはそんな、面倒で、ときには汚い知的活動に邪魔されない身を
持って生まれたということでそれは障がいではなく、
特別な資質を備えた人と言えるのではないかと思うのです。
玄、が『タオ ヒア・ナウ』をウルトラマンと同じレベルで愛し、
私を友人と思い、翔子が言葉もなく私を抱きしめ、
また私が彼らにこんなにも惹かれるのも、
私が次第に余計なもの、いらない情報を消している身であるからかもしれないと思う。
だから、通じるものがある。
私は、玄や翔子―人間の根元の美しさを持つ人たち――に
近づいているからとも言えるかもしれません。
というわけで、自分の“ぼけ”は気にならないということにさせてください。
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ありがとうございました。
最初に金澤翔子さんの書を円覚寺で見たとき
涙が止まりませんでした。
加島先生の本を読んでその意味を知りました。
今日も「いろはにほへとⅠ」から
最近では、曲がっているキュウリを「訳ありキュウリ」と
呼んででいるそうですが、私から言わせれば、
まっすぐできれいで、つやつやで全く虫がつかないキュウリの方が、
「訳あり」であります。ゆがんで、虫が食ったきゅうりの方が
よっぽど自然のキュウリであります。」と