昨日の続きになります。
四辻藍美さんのアイヌの刺繍展のことです。
梅原猛先生の「日本の深層」になるほどと思う文章に出会いました。
以下 別章1 会津魂の深層 からです。少し長くなりますが。
「 美意識と倫理のちがい
このように考えると、あの力動的な文様にみちた縄文土器と、静止的な、ほとんど文様
のない弥生土器とは、その世界観に大きなちがいがあることがわかるのである。それは、
単に美意識のちがいだけではないのであるが、いまでも、関西人と東北人は、その美意識
に大きなちがいがある。たとえば、あのねぶた祭り、それは、まさに縄文のダイナミック
な美意識のあらわれであるが、同じ魂送りの行事を弥生人の都、京都では、大文字送りと
いう形で行なうのである。都びとは、夜空にかかる大の字を静かに観照することを、霊に
憑かれて熱狂的に踊りまくることより、はるかに文化的なことと考えたのである。
もうひとつ、私は、弥生人と縄文人の倫理のちがいがあると思う。それは嘘の効用にか
んしてである。
縄文人は、最近までのアイヌと同じく、人間に、霊がついていることを信じていたと思
う。人間には憑き神がいる。アイヌでは女には三つ、男ではそれ以上、憑き神がいるとい
うのである。ところが、この憑き神を信じることが、嘘をいわないという倫理とつながっ
ているらしいのである。
私は、京都でアイヌ文化研究家藤村久和氏と会ったとき、彼は、「私か今日、先生と会
うということは、すでに前からきまっていたのである。私の憑き神と先生の憑き神が相談
して、何時何時、どこで会うことを決めたので、今日、このように会うことができたので
す」と語った。
どうやら藤村氏の中には、すっかりアイヌの憑き神が宿っているらしいが、あるいは私
の中にも網文人の神がひそんでいて、知らないうちに藤村氏の憑き神に、電話をかけ、京
都で会うように手配したのかもしれない。
自分の中に存在し、一切の自分の行為を知り、自分を守る憑き神を信じていたら、そう
やすやす嘘はつけない。なぜなら、その憑き神は、自分の知らないうちに、他人の憑き神
に真実を知らせるかもしれないからである。
言霊の信仰もおそらく、そのことと関係があろう。言霊信仰はアイヌにもたいへん強い
が、古代日本にもたいへん強かった。言霊は、けっして書かれた文字にあるのではない。
それは、口に出して言い表わした言葉にあるのである。いったん言葉が言い出されたから
には、その言葉を守らねばならない。それでないと言霊に罰せられる。
これが古代日本人とアイヌのもっとも中心的な信条であり、倫理であり、このような信
条、倫理が守れない人間は、一人前の人間として扱われない。
こういう倫理はアイヌ社会にもっとも強く残っているが、これは古代日本人の倫理でも
あり、現代日本人にもそういう倫理の残存がある。
しかし、このような倫理は、アイヌに強く残る縄文人の倫理であっても、弥生人はそれ
と別の倫理をもっていたと思う。いってみれば、彼らは必ずしも全面的に言霊を信じてい
なかったようである。
たとえば、『記紀』にあらわれた神武天皇や日本武尊の話、そして彼等が、まつろわぬ
蝦夷までをも平げたのは、ひとつには武力によるが、それ以上、脆計によるのである。そ
してまたアイヌ側には、倭人にだまされた多くの話が残っている。
縄文人と弥生人の嘘についての倫理的判断はちがっていたと思われる。縄文人にとって、
嘘は悪どころか、本来、それは不可能なものである。しかし、弥生人はもはや、そんな憑
き神を信じない。そこでは、嘘も方便なのである。むしろ結果がよかったら、嘘は許され
るというより、奨励すべきものであり、嘘をつかないのは、馬鹿ということになる。」と。
この文章を読んでいて、その日は箱根勤行の予定でした。
でも何となく北鎌倉に足を向けてしまいまいした。
その結果は、四辻さんとの出会いでした。
梅原先生ではないですが、僕と四辻さんの憑神が話会ったのかも知れませんね。
最近、いろいろな人や新しい場に巡り会うことが多くなりました。
そう考えると楽しくなりますね。
心理学的には、シンクロニティとか言いますが、
僕に取って何かピント来ないものがありましたが、梅原先生の憑き神の話は合点が行きました。
ロゴストロンでいろいろな願望が叶えられていますが、心を純粋にすれがロゴストロンが無くても
願望は叶うのではないかと感じています。
それが、梅原先生の言われる「言霊」なのかもしれません。
先日のロゴスタデイ研究会で蔦森かおりさんから「あなたは純乙女です」と
それは、憑き神が身近に感ぜられることなのかも鴨知れません。
もうひとつ梅原先生の文章から。
「日本では、まさに、鏡は、権力そのもののシンボルであったことは、記紀神話に語られる
とおりであろう。
この理由が長いあいだ、私にはわからなかったが、ある日、ジョンーバチェラーを読ん
でいたときに、この理由がわかった。アイヌはもっとも鏡を恐れるのである。なぜなら、
鏡は、自分を映す。そして、姿を映されたら、その像に、人は自由に呪術をほどこすこと
ができるのである。それゆえ、鏡は、写真と共にアイヌにはまったく悪魔的な道具なので
ある。ヨーロッパ人が、何気なくアイヌの写真を撮って渡したところ、それがアイヌの猛
烈な怒りを買い、生命の安全をおびやかされそうになった話が報告されている。
人間とそっくりな像をつくることは、アイヌにとってまったく恐ろしいことなのである。
縄文時代の土偶の中で、猪や熊にはそっくりなものがあるが、人間の土偶は極端にデフォ
ルメされているのは、そういうことと関係があろう。もともと、人間の土偶といわれてい
るものも、生きている人間の土偶ではあるまい。それはおそらく、もともと神であり、あ
るいは神となった人間の土偶であるにちがいない。
北九州の一角に上陸した弥生人が、土着の縄文人を征服するには、新しい呪術が必要で
あったであろうが、それは古い呪術に勝利する呪術でなければならなかった。おそらく、
技術的合理主義と結びつく、呪術の体系、その頂点に鏡があったのであろう。新しい技術
的合理主義のシンボルである青銅によって作られた土着の縄文人の呪術具としての呪術体
系を根本的に崩壊させた鏡こそは、そういうものとして、もっとも有効であったのであろう。」と。
この文章を読んで、遮光器土偶や土偶が壊されて埋められていることなどの意味を知りました。
ありがとうございました。
もっと勉強しなければと感じています。
四辻さんの刺繍からもっと大きな意味を感ずるように自分を清めなければと思っています。