五来 重先生の
「修験道霊山山の歴史と信仰」から。
五来先生は、民族学の面から修験道を研究しました。
民族学の大家と言われる柳田 國男は、
宗教は五来にまかすと言ったと言いいます。
『日本霊異記』は弘仁年間(八一〇1八二四)に書かれたものですが、
じっさいには奈良時代の話はみな年号なり、
その時代の天皇なりを挙げて物語が書かれており、
奈良時代の庶民仏教の唱導に使われたものです。
その中に「南菩薩」永興(ようこう)という人の話が出てきますが、
それによると、
熊野が中央に知られたのは那智からということになります。
この永興という人は、
「南菩薩」と呼ばれたくらい海岸の人々の教化に
つくした庶民仏教者でしたが、
法華経を実践する坊さんだった。
法華経は、修験道と仏教との関係で、
密教よりはじつは関係が深い。
法華経の内容を山の人たちは知らなかったのです。
一般の人も知りません。
その中に書いてあるいくつかの寓話を知っているだけのことです。
その中でいちばんよく知られたのは、
第五巻の「提婆達多品」(だいばたったほん)です。
そこでは女性が穢れ(けがれ)がなくなると成仏をする、
まあ女性の後生というのが書いてあるのですが、
それがなくなればまず男性になります。
変成男子(へんじょうなんし)と言います。
そして禅定に入ると仏になる。
これを龍女成仏(りゅうじょじょうぶつ)と言います。
別のことでまたお話をしたいのは、
じつは浦島太郎の龍宮は
変成男子龍女の成仏から出るのです。
そのことはいろいろと証明できます。
浦島太郎の話は
『日本書紀』雄略天皇の二十二年の条に出てきます。
また『万葉集』や『丹後国風土記』にも出てきますが、
そこでは龍ということは言わない。
龍というのは、
この「提婆達多品」の中に娑掲羅龍宮というのが出てくる。
南の海の中の王国の王さまである。
そういうことで浦島太郎と龍宮の必然的なつながりは、
むしろ法華経から出ているとおもっていいとおもいます。
法華経の話をすると長くなりますからいたしませんが、
この法華経を実践するということは、
罪を滅ぼすこと、
穢れを祓うことです。
それがかなり普遍化した段階が奈良時代で、
法華経をもって滅罪する、
罪を滅ぼすということで、
法華滅罪の寺という名前が起こった因であるというふうに
私はかんがえております。
国分尼寺というのは、法華滅罪の寺です。
山伏は自分の罪を滅ぼすと同時に、
自分の信者たち、
あるいは自分か属している共同社会の人々の
罪を全部背負って自分が苦行し、
ある場合には命を捨てて
罪を滅ぼすのだとかんがえている。
このかんがえ方が、法華経を読むことは
すなわち苦行することであるというふうにかんがえたわけです。
ですから日蓮が迫害にあえばあうほど
法華経を読んでいる、
といったこととおなじです。
苦しみをなめればなめるほど罪が滅びる。
滅罪というのは、
ただ口で滅罪の真言を唱えたり
滅罪の経文を唱えることではなくて、
自分の身を苦しめることです。
この滅罪の論理は、
また別に述べる機会があるとおもいます。
そういうことで永興が苦行していると、
禅師になる一修行者が
小さな法華経を背負ってきたと書いてあります。
山伏は八巻ある法華経を小さな細字の一巻の法華経に作り、
自分の笈の中に入れて持って歩いている。
それを持って一年間、
永興のもとにとどまっていましたが、
あるとき「自分は山の中にはいりますから」と
永興に言って、そこを辞した。
「それでは、お供の道案内をつけましょう」と永興は言って、
干飯を三升持たせ、
二人の山伏をつけて山の中にはいらせた。
ところが途中で山伏はお供の人に、
その三升の干飯を「お前たちに上げるからここで帰れ」と言う。
そのときに怪しいとおもえば怪しいのですけれども、
そう言われたものだから、
お供の人は米をもらって帰ってきてしまう。
それから三年経ちまして、
熊野の山の中で村人がどこからともなく
法華経を読誦する声を聞いた。
これを永興に告げると、
永興は予期していたようにその場所へ行って、
断崖の巌に麻縄の一方を縛り、
他方を足に結んで宙吊りになった白骨の遺骸を見つけた。
その持参の白銅水瓶から
さきの禅師であることを知った。
これで法華経を読誦する者は、
死んでも舌が腐らないという霊験がわかったというのです。
このように山伏にとって最高の行は、
自分の身を捨ててすべての人の穢れを
自分が背負って死んでいくことにあるわけです。
したがって熊野では捨身ばかりでなく、
火定といって焼身もあったのです。
こうして那智山と呼ばれたのは、
いまの那智の瀧ではないということがわかった。
法華経の名前を背負っている那智の山は
「妙法山」といって、
いま有料道路で上まで行かれる山ですが、
海が一面に見渡せる。
海からもまたそこがよく見える場所ですが、
そこが那智の発祥です。
法華経の実践者が那智の修験道を開いたことは、
『本朝法華験記』の話からわかります。
また沙門応照は、
「熊野奈智山の住僧なり、
ひととなり精進にうけて、
さらに懈怠なし。
法華を読誦(どくじゅ)するをその業となし、
仏道を欣求するをその志となして、
山林樹下をすみかとなし、
人間の交雑を楽まず。云々」と言い、
法華経の喜見菩薩焼身燃腎を
恋慕随喜して、
ついに発願して、
「我薬玉菩薩のごとく、この身を焼きて諸の仏に供養せむ」と
言ったという。
これは法華経の実践をしたということですけれども、
いちばん最後のところに、
「
これ則ち日本国最初の焼身なり。
目のあたり見、伝聞する輩、随喜せざるはなし」と書いてある。
この『本朝法華験記』には、
法華経を実践するにあたって
いろいろの奇瑞を顕した人々の伝を年代順に書いており、
第九ぐらいですと、
年号は書いていないけれども、
だいたい平安初期の人であるということがわかる。
奈良時代には永興があり、
平安初期には応照があり、
いずれもその禅師もしくはその人自身が捨身や焼身をする。
那智はそういうところでした。
五来重著作集第六巻
「修験道霊山山の歴史と信仰」から
「提婆達多品」(だいばたったほん)は、下記のブログで全訳がでています。
http://homepage3.nifty.com/chances/aokyoukan/15.htm
『提婆達多品』は、その当時のインド社会の一般認識として、
仏の悟りを得ることなど出来そうにないと思われる最も極端な例を出して、
その者でさえ仏に成れるのだという事実を見せることによって、
誰でもが仏に成れるという「仏性の平等」の真理を説き示そうとしたものです。
この品は、前半の「悪人成仏」の話と、
後半の「女人成仏」の話に分けることができます。
「地球隠れ宮 一万五千年のメッセ-ジ」(春木伸哉 江本勝著)のなかで
天皇陛下の四方拝のことが書かれています。
幣立神宮宮司さんと佐藤昭二さんの対談から。
春木 そうです。お社(やしろ)だけでしょう。
天皇陛下もあそこの大宮司も、お祭りのときは下の砂利の上にむしろを敷いて、
正座して祝詞をあげられると伺っています。
昔のままの姿ですよね。
天皇陛下も、宮中三殿ではお礼の前にむしろを敷いて、
正座してお祈りをなさるそうです。
佐藤 板も何も敷いてないそうですね。
春木 そう理解しています。
佐藤 土の上で石灰を敷いて固めてあるそうですが、そこに座っているそうです。
春木 お正月の四方拝のときは、以前は雨が降っても雪が降っても、
そのままですからね。
朝の四時ぐらいからお祈りが始まると伺っています。
佐藤 どれぐらいなさるんですか。
春木 かなり長いらしいですよ。しかし、昭和天皇様が崩御の一年前ぐらいは、
職員のみなさんが心配するから、
たしか「君たちがそんなに心配するなら」と
テントのところにちょっと行かれたというのを聞きました。
本当のことはうかがいしれません。伝聞ですけど。
佐藤 雨が降ってもずぶぬれで延々と祈り続けていくそうです。
春木 厳しいんですよ。
佐藤 余りにもご高齢でそれをなさるものだから、
侍従長がとにかく心配したそうですね。
春木 ということを聞きましたが、
私たちは具体的には知るよしがないですからね。
それから、四方拝のときに、
旧の宮家とかみなさま皇居に集まられるらしいのです。
向こうに直接行かれないから、ある一室に集まられるそうです。
ある皇室情報筋の人から聞きましたが、
天皇陛下が寒いところにおられるのに、
自分たちがぬくぬくとしてはいけないと、
暖房を切って、
全部窓をあけて立って、
一緒にお祈りをされるそうです。
だから、いい加減なことはなさっていないのです。
佐藤 すごいですよね。
村上和雄先生の祈りと人間のDNAの話は
祈りの大切さを示唆しています。
今日は、少し長くなりました。
最後までお読みいただきありがとうございました。