長女は、昔から、無理しない子だった。
幼いころ、遊びに夢中になっていても、
疲れてきたら、「私おしまいにするね」とすたすた自分のベッドに行って寝る。
他の子が、寝るのを必死で拒否して遊び続けていたとしても。
無理し過ぎないよう自分をケアするのが見事だった。
もう少し頑張ったらあそこまでいけるかもよと思うことでも、
無理せず、マイペース。
ピアノの先生が目をかけて下さり、
頑張ってコンクールを目指しましょうと言ってくださったこともあった。
周りには、毎日2時間近く練習を続けるお友達もいる。
私もすっかりその気になったものの、
本人はどんどん興味を失っていった。
「それほどのエネルギーをピアノにかけたいと思えない」と。
私の中では、
ああ、もう少し手や時間をかけてやって、
「ちょっと無理する」をサポートし続ければ、
もっと色々なことができた/できるのかもなあという気持ちもある。
自分から頂上の花を摘みに行くというよりは、
登る途中の花で十分楽しくハッピーでいられる彼女。
それでも、頂上の花もきれいよ、見に行ってみようよと言い続けるなら、
行ってみようかなあと登り始めたりもする。
頂に登った達成感を、味合わせてもやりたい。
私の中には同時に、
多分、どうなったとしても、
この子はハッピーでいられるのじゃないかなという気持ちもある。
そしてそれこそが、何よりも大切なことなのかもしれないなと。
人と交わるのが好きなので、将来は子供や人と交わることをしたいと言う。
これまでも人に対する物怖じのなさには、はっとさせられてきた。
こちらに越してきてからも、彼女を通して、私も近所の方々と知り合ったのだった。
そして、子供を産んで、世話をしたいと言う。
それが可能となるような、
途中職を離れたとしても、いくつになってもどこに行っても、
確実に職を得られるスキルを身に着ける予定のよう。
何だか力が抜けてしまう。
多分、私自身、若い時分、そんなこと一ミリたりとも考えることがなかったからだろう。
野望に溢れ、結婚も一生せず、でも子供は一人ぐらい産んでみたいなぐらいに思っていた。
彼女を見ていると、
確かに、それ以上一体何が必要なのだろう、と自分に問いたくなる。
世界を変える発見、社会システムを変革する発想、次世代に残る貢献、
世の中の役に立つこと?
世の中の役に立たない仕事なんてありはしない(悪徳商法などでない限り)。
身に着けたスキルを用い、日々、少しでも周りの人々を笑顔にできる、
安心感に溢れ、持てる力を発揮する子供を育てること、
それは人目に触れることはないだろうけれど、大切な社会貢献。
熱く燃え盛るパッションというより、
ほんのりと、それでも確実に燃え続ける炎。
まあそうは言っても、人生というのは、どうなるか分からないもの。
「結婚なんて」と言っていた私も、今こうして五人に囲まれ、
「家族のマネージャー」を中心に据えつつ、
できることにできる範囲で少しずつ取り組んでいて。
彼女も、14歳の頭が思い描いていることとは全く違う道を進むこともあるだろう。
花は、今この足下にも、咲いている。
長女と接していると、そう気づかされたりする。