ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその265-文学考

2017年11月15日 | 
現在の日本において、文学に贈られる代表的な賞として「芥川賞」「直木賞」の二つが挙げられる。
一般的に言われるのは「芥川賞」が純文学を対象に「直木賞」が大衆文学を対象に、それぞれの賞が授与されている。
では、この「純文学」と「大衆文学」とはなにが違うのだろうか。どこにその違いを見いだせるのか。
話は逸れるが、例えば「映画」を例に取ると、その根本とは、素晴らしいカットの連続である。決して台詞まわしなどではない。
同様に「音楽」の場合は、その根本とは、音そのものである。決してメロディーの流れだけではない。
上記から「文学」を導けば、その根本とは「文字の連立から形成される文章」である。決してストーリー性ではない。
文学でも、映画でも、音楽でも全てストーリーを持っている。しかし、そこに騙されてはいけない。
ストーリー性とは、ストーリーテラーが表す、現在・過去の状況から、読者に未来を予想させ、その答え合わせをするものであり、芸術性を問う対象とはならない。
では、ストーリーを取り払うと文学は成り立つのだろうか。
全くの「文字の連立から形成される文章」だけでは無理であろう。大まかな流れだけは必要である。
ストーリーは、より大きな川幅さえあれば良い。あとはどれだけ「文章」がうねり、独立するかだ。
以前このブログで紹介した笙野頼子の「タイムスリップコンビナート」やこれも以前ブログで紹介した山下澄人の「しんせかい」等は「文章が独立し、芸術性を持った作品」と言えるだろう。
今回は唐突な内容となってしまったが、自分なりの芸術論を投稿させていただいた。
勿論これは私自身の理論であり、本ブログを拝読いただいている皆様も、ご自身の理論をお持ちであろう。
ただ一つだけ言わせていただけるなら、作品は選ぶこと。どんな作品でもいいから、かたっぱしに体験されるのはやめた方が良いだろう。時間の無駄であり、折角の感性を鈍らせることにもなろうから......

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