きーすへりん「ぐ」→「ぐ」っどふぇろーず(グッドフェローズ)
連載115回目にして、いよいよ真打が登場!!
本コラムのなかでは、おそらく『タクシードライバー』(76)の次に語られることの多い『グッドフェローズ』とは、わが神マーティン・スコセッシが90年に放ったギャング映画のこと。
何度か書いてきたことだが、現時点における「自分が最も繰り返し鑑賞している映画」である。
50回以上も観ていると、ほぼすべてのショットを覚えている。
それでもまだ観足りない気がするので、あと50回は観てから死にたい。
たぶん自分に制限をかけないと「延々と」論じてしまうだろう、だからふだんの「1800字以内にまとめる」というルールを課して展開することにしよう。
(1)『ゴッドファーザー』へのアンチ
かつてフランシス・フォード・コッポラとウディ・アレン、スコセッシの3人は「ニューヨーク派の三巨匠」と呼ばれていた。
(かつて―をつけたのは、現在のコッポラが映画制作の第一線から退いている、現在のアレン映画が「必ずしも」ニューヨークを舞台としていない・・・ことによる)
コッポラの友人であるスコセッシは、『ゴッドファーザー』のシリーズ(72~90)を「映画として」認めつつ、「ギャングたちの真実を描いていない」と批判してきた。
仁義を重んじたり、忠誠を誓ったり・・・そんなことはない。
くだらない諍いによって無駄な血が沢山流れ、大事にしているはずのファミリーでさえ軽んじられる傾向にあった―といえるのは、スコセッシが暮らしたリトル・イタリーには、そんな「小悪党」のようなギャングたちが近所に沢山居たから。
だから、『グッドフェローズ』は『ゴッドファーザー』へのアンチとして誕生した。
『ゴッドファーザー』が純然たるフィクションであるのに対し、『グッドフェローズ』は実録風のフィクション映画なのだ。
(2)新しい映画表現
この映画には、映画作家たちが「禁じ手」としてきた表現方法がいくつも出てくる。
(a)ナレーションの多用
情報量が多過ぎて、とてもじゃないが、1度きりの鑑賞ではすべてを把握し切れない。
さらにとんでもないことに、さっきまでキャラクターAがナレーションしていたのに、次のシーンではBがナレーションしているという「ルール無視」のテクニックまで。
こんな手法、初めて観た!!
(b)途切れないサウンドトラック
そのため、サウンドトラックCDにはすべての曲を収め切れないのであった。
残念!!
(c)主人公が観客に話しかける
この映画が元祖というわけではないが、「ぬけぬけと」やってしまっているという点で、最も鮮烈な印象を残す。
映画を知り尽くした映画小僧でもあるスコセッシが、敢えて取り込んだスタイルは、「映画の世界にラップを持ち込んだ」(=RHYMESTERの宇多丸)と評され、後年、様々な亜流が生まれることになった。
(3)タイトルの意味
主人公の妻は「夫は、ブルーカラーだ」という。
せっせと稼ぎ(盗み)、湯水のように金を使う。
そんな日常の繰り返しであり、「ドン、コルレオーネ」とかいって、手にキスをするようなことはしない。
しないが、形式的ではあるものの「仲間を大切にする」ということにはなっている。
ギャングたちは「こいつはいいヤツだ、仲間だ」と認めた場合、その男のことを「ワイズガイ、グッドフェローズだ」と評する。
この映画は、大人たちに「このガキは仲間だ」と認められた男が、自分が生き残るためには兄貴や親分さえ売ってしまう姿を描き、「ギャングたちなんて、所詮そんなもの」といってのける。
エンディングで流れる曲は、シド・ビシャスの『マイ・ウェイ』。
スコセッシ自身がいうように「露骨な選曲」かもしれないが、これ以外に流す曲、思い浮かばないのだよねぇ。。。
って、あぁ、1900文字になっちゃった!!
※いちばん好きなシーンかも
あすのしりとりは・・・
ぐっどふぇろー「ず」→「ず」っとすきだった。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(116)』
連載115回目にして、いよいよ真打が登場!!
本コラムのなかでは、おそらく『タクシードライバー』(76)の次に語られることの多い『グッドフェローズ』とは、わが神マーティン・スコセッシが90年に放ったギャング映画のこと。
何度か書いてきたことだが、現時点における「自分が最も繰り返し鑑賞している映画」である。
50回以上も観ていると、ほぼすべてのショットを覚えている。
それでもまだ観足りない気がするので、あと50回は観てから死にたい。
たぶん自分に制限をかけないと「延々と」論じてしまうだろう、だからふだんの「1800字以内にまとめる」というルールを課して展開することにしよう。
(1)『ゴッドファーザー』へのアンチ
かつてフランシス・フォード・コッポラとウディ・アレン、スコセッシの3人は「ニューヨーク派の三巨匠」と呼ばれていた。
(かつて―をつけたのは、現在のコッポラが映画制作の第一線から退いている、現在のアレン映画が「必ずしも」ニューヨークを舞台としていない・・・ことによる)
コッポラの友人であるスコセッシは、『ゴッドファーザー』のシリーズ(72~90)を「映画として」認めつつ、「ギャングたちの真実を描いていない」と批判してきた。
仁義を重んじたり、忠誠を誓ったり・・・そんなことはない。
くだらない諍いによって無駄な血が沢山流れ、大事にしているはずのファミリーでさえ軽んじられる傾向にあった―といえるのは、スコセッシが暮らしたリトル・イタリーには、そんな「小悪党」のようなギャングたちが近所に沢山居たから。
だから、『グッドフェローズ』は『ゴッドファーザー』へのアンチとして誕生した。
『ゴッドファーザー』が純然たるフィクションであるのに対し、『グッドフェローズ』は実録風のフィクション映画なのだ。
(2)新しい映画表現
この映画には、映画作家たちが「禁じ手」としてきた表現方法がいくつも出てくる。
(a)ナレーションの多用
情報量が多過ぎて、とてもじゃないが、1度きりの鑑賞ではすべてを把握し切れない。
さらにとんでもないことに、さっきまでキャラクターAがナレーションしていたのに、次のシーンではBがナレーションしているという「ルール無視」のテクニックまで。
こんな手法、初めて観た!!
(b)途切れないサウンドトラック
そのため、サウンドトラックCDにはすべての曲を収め切れないのであった。
残念!!
(c)主人公が観客に話しかける
この映画が元祖というわけではないが、「ぬけぬけと」やってしまっているという点で、最も鮮烈な印象を残す。
映画を知り尽くした映画小僧でもあるスコセッシが、敢えて取り込んだスタイルは、「映画の世界にラップを持ち込んだ」(=RHYMESTERの宇多丸)と評され、後年、様々な亜流が生まれることになった。
(3)タイトルの意味
主人公の妻は「夫は、ブルーカラーだ」という。
せっせと稼ぎ(盗み)、湯水のように金を使う。
そんな日常の繰り返しであり、「ドン、コルレオーネ」とかいって、手にキスをするようなことはしない。
しないが、形式的ではあるものの「仲間を大切にする」ということにはなっている。
ギャングたちは「こいつはいいヤツだ、仲間だ」と認めた場合、その男のことを「ワイズガイ、グッドフェローズだ」と評する。
この映画は、大人たちに「このガキは仲間だ」と認められた男が、自分が生き残るためには兄貴や親分さえ売ってしまう姿を描き、「ギャングたちなんて、所詮そんなもの」といってのける。
エンディングで流れる曲は、シド・ビシャスの『マイ・ウェイ』。
スコセッシ自身がいうように「露骨な選曲」かもしれないが、これ以外に流す曲、思い浮かばないのだよねぇ。。。
って、あぁ、1900文字になっちゃった!!
※いちばん好きなシーンかも
あすのしりとりは・・・
ぐっどふぇろー「ず」→「ず」っとすきだった。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(116)』
好きな映画でも5度観ることがあるだろうかー
間をおいてもー
そう考えると
まっき~様の「映画愛」はすごいなーと思います
凄いですね・・・・・・
私は好きな映画でも3回が限度かな?
3度見ても場面がはじめてみる気がします。