きっ「く」→「く」りんといーすとうっど(クリント・イーストウッド)
「―チャールトン・ヘストンが登場予定なんだが、なぜか来ない。
そこで、三行以上の台詞をいったことがない自分が、代役ということで、ここに上がっている」
クリント・イーストウッド、ユーモラスにオスカーのプレゼンター代役を(途中まで)こなす
※1分10秒あたりから
…………………………………………
そんな自虐ユーモアが「当時」「世界一」似合っていたアクション俳優が、まさか映画界で最重要とされる映画監督になるなんて、
本人はもちろん、
このひとを育てたドン・シーゲル、セルジオ・レオーネ、
そして映画ファンさえ想像しなかったこと。
ほんとうは『映画監督別10傑』シリーズで取り上げたかったひとなので、きょうは少し長めになるでしょう。
(その代わり、あすはサボり気味のコラムにしよう笑)
87歳の巨匠は、ウディ・アレンのように精力的に映画を撮りつづける。
撮りたい題材が溢れ出てきて尽きず、受け手もそれをすべて受け入れるつもりでいるので、これはもう神様、イースト爺には永遠の命を与えてもいいんじゃないでしょうかね。
個人的に、語りたいことはふたつ。
まずは映画とは無関係なことで・・・
このひとには、「ハイムリッヒ・マニューバー」ということばを広めた功績がある。
人命救助のひとつで、
(1)背後から両腕を腹部に回し、
(2)片腕は拳を作り、もういっぽうの掌をその拳に重ね、
(3)胸骨と臍の間を上向きに強く圧迫する
※ブログ『たけぱみゅりんの木と森たち』より
イースト爺はこれで、喉にチーズを詰まらせた男性を救った。
信じられないだろ、
80代のじっちゃんが、50代を救うんだぜ!!
そしてもうひとつが、自分にとって・映画小僧にとっての、最重要項目。
「観客より、大事なもの・ことがある」
かつてイースト爺は、そんなようなことを語ったとされている。
監督としてのフィルモグラフィを眺めると、なんとなく頷けないかい?
そのことを踏まえ、まずは映画監督としての個人的3傑から。
(1)『許されざる者』(92)
ひとをバンバン撃つキャラクターを演じてきた男が後年、ひとがひとを殺すことの是非と難しさを描いてみせる。
自己否定と捉えかねぬ映画を、堂々と放った。
(2)『ミスティック・リバー』(2003)
後味の「すこぶる悪い」、ほとんど悪夢のような物語。
しかし、どこかの国で実際に起こっていること―と、なんとなく想像させる怖さがある。
この映画を観た知り合いの女の子が、「なぜ映画を観て、こんなにイヤな気分にさせられなければいけないのか」といった。
そのときの議論で出てきたのが、「観客より、大事なもの・ことがある」。
このくらいのひとが発してくれると、作家主義の映画を貫こうとする後輩たちは、たいへんに勇気づけられるのではないだろうか。
(3)『恐怖のメロディ』(71)
記念すべき、監督第1作。
本人はいうことはないと思うので代弁? してしまうが、正直、「監督としていけるぞ」という感触があったと思う。
そのくらい、よく出来た映画。
次に、映画俳優としての個人的3傑を。
(1)『アルカトラズからの脱出』(79)
脱獄モノの決定版だと思う。
菊の花や爪切り、スプーンなどの小道具も素晴らしかった。
(2)『ダーティハリー』(71)
イーストウッドのイメージは、これで固まった。
ばかりか、70年代刑事映画の方向性まで決定づけた。
(3)『ザ・シークレット・サービス』(93)
おじさんが、ひたすら頑張る映画。
そりゃ、レネ・ルッソだって惚れるよ。
最後に。
個人的に、唯一「ノレなかった」監督作品を。
それが、『マディソン郡の橋』(95)。
「よろめきモノ」は割と好きなのだが、この手のジャンルにしては弱かったように思う。
生ける伝説のようなひとなので、こういう作品がひとつあると逆にホッとする・・・といったら、ちょいと性格悪いかな苦笑
結論。
「観客より、大事なもの・ことがある」ということばの印象が強く、一見「作家主義」の監督のようにも見られるが、その実、手がけた作品は多岐にわたり、「職人監督」のようにも見える―そんな、ユニークな爺なのでした。
※最新作、もうすぐ公開
次回のしりとりは・・・
くりんといーすとうっ「ど」→「ど」らむ。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『自分が自分が病』
「―チャールトン・ヘストンが登場予定なんだが、なぜか来ない。
そこで、三行以上の台詞をいったことがない自分が、代役ということで、ここに上がっている」
クリント・イーストウッド、ユーモラスにオスカーのプレゼンター代役を(途中まで)こなす
※1分10秒あたりから
…………………………………………
そんな自虐ユーモアが「当時」「世界一」似合っていたアクション俳優が、まさか映画界で最重要とされる映画監督になるなんて、
本人はもちろん、
このひとを育てたドン・シーゲル、セルジオ・レオーネ、
そして映画ファンさえ想像しなかったこと。
ほんとうは『映画監督別10傑』シリーズで取り上げたかったひとなので、きょうは少し長めになるでしょう。
(その代わり、あすはサボり気味のコラムにしよう笑)
87歳の巨匠は、ウディ・アレンのように精力的に映画を撮りつづける。
撮りたい題材が溢れ出てきて尽きず、受け手もそれをすべて受け入れるつもりでいるので、これはもう神様、イースト爺には永遠の命を与えてもいいんじゃないでしょうかね。
個人的に、語りたいことはふたつ。
まずは映画とは無関係なことで・・・
このひとには、「ハイムリッヒ・マニューバー」ということばを広めた功績がある。
人命救助のひとつで、
(1)背後から両腕を腹部に回し、
(2)片腕は拳を作り、もういっぽうの掌をその拳に重ね、
(3)胸骨と臍の間を上向きに強く圧迫する
※ブログ『たけぱみゅりんの木と森たち』より
イースト爺はこれで、喉にチーズを詰まらせた男性を救った。
信じられないだろ、
80代のじっちゃんが、50代を救うんだぜ!!
そしてもうひとつが、自分にとって・映画小僧にとっての、最重要項目。
「観客より、大事なもの・ことがある」
かつてイースト爺は、そんなようなことを語ったとされている。
監督としてのフィルモグラフィを眺めると、なんとなく頷けないかい?
そのことを踏まえ、まずは映画監督としての個人的3傑から。
(1)『許されざる者』(92)
ひとをバンバン撃つキャラクターを演じてきた男が後年、ひとがひとを殺すことの是非と難しさを描いてみせる。
自己否定と捉えかねぬ映画を、堂々と放った。
(2)『ミスティック・リバー』(2003)
後味の「すこぶる悪い」、ほとんど悪夢のような物語。
しかし、どこかの国で実際に起こっていること―と、なんとなく想像させる怖さがある。
この映画を観た知り合いの女の子が、「なぜ映画を観て、こんなにイヤな気分にさせられなければいけないのか」といった。
そのときの議論で出てきたのが、「観客より、大事なもの・ことがある」。
このくらいのひとが発してくれると、作家主義の映画を貫こうとする後輩たちは、たいへんに勇気づけられるのではないだろうか。
(3)『恐怖のメロディ』(71)
記念すべき、監督第1作。
本人はいうことはないと思うので代弁? してしまうが、正直、「監督としていけるぞ」という感触があったと思う。
そのくらい、よく出来た映画。
次に、映画俳優としての個人的3傑を。
(1)『アルカトラズからの脱出』(79)
脱獄モノの決定版だと思う。
菊の花や爪切り、スプーンなどの小道具も素晴らしかった。
(2)『ダーティハリー』(71)
イーストウッドのイメージは、これで固まった。
ばかりか、70年代刑事映画の方向性まで決定づけた。
(3)『ザ・シークレット・サービス』(93)
おじさんが、ひたすら頑張る映画。
そりゃ、レネ・ルッソだって惚れるよ。
最後に。
個人的に、唯一「ノレなかった」監督作品を。
それが、『マディソン郡の橋』(95)。
「よろめきモノ」は割と好きなのだが、この手のジャンルにしては弱かったように思う。
生ける伝説のようなひとなので、こういう作品がひとつあると逆にホッとする・・・といったら、ちょいと性格悪いかな苦笑
結論。
「観客より、大事なもの・ことがある」ということばの印象が強く、一見「作家主義」の監督のようにも見られるが、その実、手がけた作品は多岐にわたり、「職人監督」のようにも見える―そんな、ユニークな爺なのでした。
※最新作、もうすぐ公開
次回のしりとりは・・・
くりんといーすとうっ「ど」→「ど」らむ。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『自分が自分が病』