ひねもすのたりにて

阿蘇に過ごす日々は良きかな。
旅の空の下にて過ごす日々もまた良きかな。

義母(はは)の死

2022年01月14日 | 日記(?)
正月初め妻の母、私にとっては義母が亡くなった。
90余歳の生涯だった。
義母(はは)にとっては、娘の婿ということもあるかもしれないが、
私にはとても優しい人だった。
一昨年の6月に連れ合いである義父が亡くなってから、生きる張りが次第に衰えていく感じがし、
その後介護施設に入所してからは、コロナ禍の影響もあって、直接に家族と会うこともできず、
窓越しに会う義母は段々と痩せて、体力の衰えが心配になるほどだった。
昨年11月に介護施設から病院に移されるくらいに容体が悪くなって、
医者からは、今年いっぱい保つかどうかといった話もあった。
それが、12月22日に妻が面会に行ったときは、大きな声で笑ったりしたのよ、という妻の笑顔も見られた。
医者も奇跡的ですよと言っていたとか。
ということもあって暮れの29日にいったん退院して介護施設に帰ることになった。
その日は私も同行して退院する義母の顔を見に行った。
一週間前に、大きな声で笑ったという義母の様子はそこにはなく、
意識はしっかりしているが、声は小さく辛そうな様子だった。
私の頭にふと、命が燃え尽きる前に一瞬明るく燃えるろうそくの灯の例えが浮かんだが、
縁起でも無いと誰にもそのことを告げなかった。
しかし私のその危惧は不幸にも当たってしまい、義母は一週間後に灯が消えるようにひっそりと息を引き取った。
自宅に帰った義母は体重30キロそこそこで驚くほど軽かった。

葬儀に使う写真を選んでいるときに、義母の家の前で義母と私が二人で写っている写真が見つかった。
二人とも屈託のない笑顔で写っていて、20年以上前の写真だろうか、
自分がこんなに屈託のない表情をすることがあるのだ。
お義母(かあ)さんは本当に優しかったからなぁ、と写真を見ながら改めて思った。

義母を葬儀用の着物に着替えさせるために部屋のタンスを探していた妻が、
「見てごらん、このタンスの引き出しが壊れかけとるとよ」
と、観音開きの蝶番が一つ外れかけたタンスの一部を私に指して、
「こんなに辛抱せんでもねぇ。自分のことには全然お金を使おうとはせんかったもんね」
義母は子どものため、家族のためにその一生を捧げた人だった。
子どもからはもちろん、孫やひ孫、その配偶者とその家族からも慕われた人だった。

私は、今まで多くの葬儀に参列し、人間死んだら終いという思いから抜けられなかった。
しかし今回義母を亡くしてはじめて、その思いが覆る気がした。
葬儀で私をはじめ、会葬者の誰もが亡き義母に思いを馳せ、真摯にその逝去を悼んでいる様子を見ると、
死んだら終いなんかではないんだ、ずっと人の心に残っていくんだと。
そういう人生を送ることが大事なのだと、義母への思いを新たにした。

いつか遠くない日に、自分も人生の終焉を迎えるだろう。
そちらに行ったら、
「な~んな、あた(あなた)も来たな」
と、昔のように迎えてくださいね、お義母(かあ)さん。
取り敢えずは、さようなら(see you again)で。
そうそう、先に見つけたお義母(かあ)さんと二人の写真は私がいただいて帰ります。
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