世界変動展望

私の日々思うことを書いたブログです。

関ヶ原の合戦でどうすれば西軍が勝てたか?

2016-04-11 00:00:00 | 歴史

関ヶ原の合戦でどうすれば西軍が勝てたか。関ヶ原の布陣をみると、どう見ても西軍有利。という事は裏切りと日和見を抑えれば勝てたはずだ。西軍は東軍の調略を阻む事に失敗したのが敗因だった。西軍が裏切りと日和見を抑えていれば勝ったと思う。


マリーアントワネットとフェルセンの不倫

2015-05-23 17:35:28 | 歴史

現在NHKBSプレミアムでベルサイユのばらを放送中。私はなかなか面白い作品だと思います。宝塚歌劇団では最大のヒット作で1974年の初演から現在まで再演が続いている。劇中にフランス王妃マリーアントワネットとスウェーデンの貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンが登場するが、彼らは実在の人物で史実でも愛人同士だった。マリーアントワネットはオーストリアの皇女でハプスブルク家の人物、しかもフランス王妃。そんな人物とよく不倫できたと思う。日本でも豊臣秀吉の側室の淀殿大野治長との密通の噂や豊臣秀頼は二人の子という俗説がある。

高貴な人の部屋等は警戒厳重だろうし、不倫をしたらお手打ちになると思うので、普通は不倫できないと思うが、フランスではそういう事ができたのか。フェルセンがスウェーデンの貴族でもフランス王妃は高嶺の花だと思う。フェルセンはどんな手を使ったのか。

高嶺の花というとベルサイユのばらに出てくるアンドレにとってオスカルは高嶺の花だろう。オスカルは貴族、アンドレは従者、当時の身分違いは決して結ばれぬ運命といえる。アンドレは虚仮の一念でオスカルに対してかんばるが、最後は報われた。

アンドレにとって高嶺の花の攻略法は虚仮の一念だった[1]。フェルセンにとっての高嶺の花の攻略法は何だったのだろう?

参考
[1]虚仮の一念岩をも通す:愚か者でも一途に続けていれば岩をも通すような大きな事が成し遂げられるという事。


騙すことは重要か? - 徳川家康の天下取り

2014-06-30 20:33:00 | 歴史

徳川家康は天下をとったが、そのやり方は汚かったと思う。天下分け目の合戦で有名な関ヶ原の戦いは小早川秀秋の裏切りで東軍優勢となり勝利した。家康は事前に西軍の武将と通じて寝返るように戦略を立てていた。西軍の石田三成らは正攻法で軍の陣形などを有利に配置することで勝利を目指したが、家康の裏切り戦略による騙し討ちが致命傷となってしまった。

それだけでなく、豊臣家を滅ぼすために財力を落とすことを考え、捏造した名目で工事を押し付け財産を浪費させたり、方広寺の鐘の「君臣豊楽、国家安康」の文字が家康を胴切りにするものと難くせをつけ、豊臣家を滅ぼすための戦の口実を作った。それが大阪の陣で、冬の陣で1か月以上かかっても大阪城が陥落せず苦しいと思った家康は豊臣側と一旦和睦する作戦に出て、条件がなんと「大阪城の内堀は埋めないが外堀を埋めること」。無論これは大阪城を攻め落とすための家康の嘘で、豊臣側は騙されたのか仕方なく条件をのんだのかわからないが和睦が成立し、外堀を埋めるのにあわせて内堀も埋められてしまった。天下の名城大阪城も外堀、内堀を埋められたら一たまりもなかった。秀頼と淀君は自害、秀頼の息子も徳川方が処刑。唯一秀頼の娘だけが生き残ったが、子供なく死亡し豊臣家は滅亡した。家康は高齢でいつ死んでもおかしくなかったから、籠城を続けていればよかったかもしれない。大坂夏の陣は1615年、家康は翌年に亡くなった。

こうしてみると家康の天下取りは詐欺の連続だ。現在も日本の研究界では理研上層部が規則を無視してSTAP論文の疑義を不調査とし隠蔽を平気で行った。ノーベル受賞者の野依良治理事長が「調査には定義がいろいろある」と言って、筋の通らない理屈で強引に不調査を押し通そうした様は家康の難くせと似たようなものかもしれない。理研上層部に限ったことでなく大阪大学、東北大学、国立環境研究所、京都府立医科大学なども同様で規則をあからさまに無視したり、筋の通らない理屈で規則が骨抜きになっている。研究機関にとって規則は紙切れにすぎない。北朝鮮の外交約束と同じで全然信用できない。

世の中狐みたいなやつの方がうまくいくのかもしれないが、真面目にやっている人がバカを見ない社会になってほしいと私は思う。

 


同じ人がずーっと好き!永遠の愛、その真相について

2013-03-03 00:09:52 | 歴史

同じ人がずーっと好き!

「僕は誓うよ。50年後の君を今と変らず愛している!」

そんなきざなセリフを純愛ドラマで聞いた事がある人もいるでしょう。そんな永遠の愛は現実にあるのでしょうか?

私が見た文献では、恋愛感情はせいぜい4年程度しか続かないらしく、熱愛で結婚しても時がくれば愛はさめます。それが一般のはず!しかし、歴史上の人物で永遠の愛を持ち続けた人はきっといたと思います。今回紹介するのは、その可能性のあった豊臣秀吉とお市の方です。

この2人の紹介は無用でしょう。秀吉は関白・太政大臣になった天下人、お市の方は織田信長の妹で、たいへん美しかったといわれる人物です。一説には秀吉はお市をずっと好きで、淀殿を娶ったのは浅井三姉妹(お市の娘たち)の中で淀殿が最もお市の容貌を受け継いでいたからと言われています。この説からは秀吉にとってお市は永遠の人だったといえます。

しかし、お市にとって秀吉は猿ですから、非常に嫌っていたようです。最初の嫁ぎ先の浅井氏を滅ぼしたのは秀吉だし、浅井長政の長男・万福丸らの処刑、思い出の地・小谷城を壊して秀吉が自分の領土としたといった事から恨みもあったのでしょう。「秀吉の側室になれ」なんて話になったら、「絶対にいや!」といって強く拒絶したでしょう。この時代は政略結婚が当たり前で、本人の意思は関係なかったかもしれませんが、お市ならたぶんそういっていたでしょう。信長亡き後織田家を再興するため、織田家筆頭家老だった柴田勝家と政略結婚したものの、織田家の後継者を決める賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れ、越前北ノ庄で勝家とともに自刃しました。

知ってのとおり北ノ庄城が落城した時浅井三姉妹は助けられました。この時秀吉はお市も助けるつもりだったのでしょう。たぶん、お市も城から出すように柴田側に伝えていたはずです。しかし、お市は助かっても秀吉の側室にされるのがわかっていたのでしょう。自刃した理由の一つは秀吉の側室になるのが嫌だったからというのもあったと思います。

「猿の側室になるくらいなら死んだ方がましよ!」

徹底的に嫌われてしまった秀吉。永遠の愛も届かなかったようです。秀吉は攻め滅ぼした相手の女を側室にしていましたから、お市も助かっていたら側室にされていたでしょうね。

秀吉は17歳から信長に仕え、北ノ庄城を落としたのが46歳なので、いつからお市を好きだったのかわかりませんが、仮に仕官した頃からだったとすると約30年です。淀殿を娶ったのがお市の影響だとすると、その愛はお市の死後も続いたのでしょうから、もっと長い期間だったということになります。

一人の女性を30年以上愛し続ける・・・。すごいなー。(笑)

秀吉にとってお市はまさに永遠の人だったんですね。

上で述べたように一般には愛情は4年程度しか続かないのですから、これはたいへんな長さです。秀吉とお市はずっと会っていたわけではなく、少なくともお市が浅井氏や柴田氏に嫁いでいた時は長い間ずっと会っていなかったはずです。お市が織田家にいた時も、頻繁に会っていたのでしょうか?

「長い間会ってもいなかったのに、なぜ長い間愛し続けられるの?信じられない、どんなに考えてもそれが理解できない。」

そう思う人はいるかもしれませんね。なぜ長い間会ってもいなかった一人の女性をこれほど長く愛し続けられるのでしょうか?

秀吉の妄想?いや、長い間会っていなかったとしても、お市が浅井氏から戻ってきた時や柴田氏に嫁ぐ前に秀吉はお市に会っていたはずです。妄想ならそれで覚めるはず!秀吉にとってお市への愛は決して妄想ではないのです。

ではなぜ?

ユリアを愛するラオウと同じなのでしょうか?(笑)

「永かった・・・あの日あの時お前がおれの心に焼き付いてから・・・」

この世で最も愛深き漢ラオウらしい純愛。ラオウのユリアに対する愛情は非常に激しく強いです。あんな感じでしょうか?確かにあのような愛情なら何年たっても続きそうですね・・・。

といってもこれはやはり漫画です。同じ覇王でも秀吉とラオウでは違います。

お市に対する秀吉の愛情がなぜ長年続いたのか?真相は私もわかりません。だから、以下のことは私の推測です。

お市に対する秀吉の想いは愛情というより、ただの色欲だったのではないでしょうか?秀吉は無類の女好きで気に入った女は手当たり次第という感じで、側室は20人以上、伊達政宗の側室だった藤女は秀吉の毒牙にかかってしまいました。また、高貴な女性を側室にしたことを考えると、秀吉は明らかにブランド志向。信長の妹というブランドを持ち、絶世の美女といわれたお市に天下人だった秀吉が手を出さないはずがありません。淀殿を娶った理由に信長の姪というブランド志向が絶対にあったはずです。

それが永遠の愛の真相だったのではないでしょうか?

色欲が愛情かと言われると、人によっては愛情という人もいるかもしれません。しかし、それを愛情というなら、現代のおじさんがソープランドで女性相手に情交をかわすのも愛情ということになります。やはり、そういうのは愛情ではないでしょう。(思えば建前上ソープランドは店が部屋を貸しているだけで、勝手に男女が愛情を持ってしまって、あーんな行動になったのだ!というのが合法理由ですが。)少なくとも色欲はプラトニックではないです。

男は何歳になっても色欲が衰えない人がいるんでしょう。少なくとも恋愛感情よりは長続きします。秀吉がお市を30年以上も想い続けたのは、愛情ではなく無類の色欲ゆえだったと考えると、あり得る話だと思います。

しかし、現実の歴史ではこのような色欲ではなく、長い間会っていなくても、長い間プラトニックにずっと一人を愛し続けた人がいたでしょう。そういうことは十分にあり得ることです。無論、そういう純愛があってもいいと思います。

なぜ、会っていなくても一人の人を長い間ずーっと愛し続けられるのか?

それは私はわかりません。しかし、私は大切なのはなぜかという理由を突き止めることではなく、愛情を考えた上で幸福な関係を築くように努力することだと思います。私の想像にすぎませんが、こういう愛情は本人もなぜなのか理由はわかっていないと思います。愛情とはたまにそういう性質もあるのでしょう。だから、理由を考えても仕方ないでしょう。

それより大切なのはこれからです。愛し、愛されているなら、それを受け止めた上で幸福な関係を築くように努力することの方がずっと大切だし、それで十分ではないでしょうか。

人は過去ではなく明日にむかって生きていくのですから。


相思相愛の将軍と御台所の手紙

2013-03-03 00:05:55 | 歴史

周知の通り、第14代将軍徳川家茂と皇女和宮は公武合体政策のために政略結婚した。この時代はこれが当たり前だったかもしれない。しかし、家茂と和宮の夫婦仲は良かった。歴代将軍家で最も夫婦仲が良かったのは家茂と和宮だろう。

いろいろな文献によれば、家茂は大奥の和宮をよく訪れて気づかったという。大奥では公家と武家の対立があり、慣れない大奥での生活は大変だったのだろう。そういう気づかいを和宮は嬉しく思っていたと思う。家茂は金魚とか贈り物を贈ったという。そういう家茂の気持ちが嬉しかったので、和宮は家茂を愛するようになった。家茂と和宮は政略結婚でありながら相思相愛だった。

2人の新婚生活は2年程度だったと思う。家茂が長州を征伐するために江戸から京都に向かって2人は離れ離れになるが、お互いによく手紙を交換していた。その時の2人の文章を見ると、相思相愛だったというのはよくわかる。

和宮が家茂に送った手紙の最後には、

「京では病がはやっていると聞きます。お体に気をつけて、どうか息災でいてください。」

というような趣旨の文章があった。これだけ読むと普通の手紙のように見えるが、残りの部分もあわせて読むと不思議なことにこの部分に和宮の家茂への愛情が感じられて、とてもうまい文章だと思った。さすが和宮!私とは教養が全然違います。

私は友人等に手紙を書くことがたまにありますが、ぜひこういう気持ちがよく伝わる文章を書いてみたいものです。

ドラえもんの道具にはもはん手紙ペンという便利な道具があって、どう書けばよいか模範例を示してくれます。年齢25歳くらいの設定で、のび太がしずかちゃんに書いたラブレターでは

「ああ、しずかさん。君のことを想うと夜も眠れない。好きだ、心の底から愛している!」

というような文章になりました。熱烈な愛情表現ですが、これが模範というのはアニメだからでしょう。(笑)

人の心を打つ感動的な手紙を書いて、大切な人に読んでもらいたいものです。


新島八重は本当に幕末のジャンヌダルクと呼ばれていたのか?

2013-01-20 00:00:01 | 歴史

大河ドラマ「八重の桜」の紹介で主人公の新島八重は会津戦争の若松城籠城戦で男装してスペンサー銃で戦った史実から「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれていると紹介されている。しかし、これは本当なのか?残念ながらは私ははじめて聞いた。

事実はわからないが、誰かわかる人は教えてくれませんか。


日露戦争、日本海海戦勝利について

2011-12-27 00:00:00 | 歴史

坂の上の雲の最終回で日本海海戦が描かれたが、日本の連合艦隊はロシアのバルチック艦隊に対し丁字戦法で勝利した。ドラマで描かれたようにこの海戦は史上稀に見る一方的な勝利で、日本側の損失はかなり軽微だが、ロシア側は壊滅的な大損害だった。

作戦勝ちというのもあるが、バルチック艦隊が長期航路や指揮統率の関係で不都合を抱えていたという敗因もあるだろう。海戦史上でこれほど一方的な勝利は非常に珍しい。知ってのとおり、日本がこの戦いや奉天の会戦で勝利したことでポーツマス条約は日本側に有利に展開。財政的に戦争を続けられなかったので賠償金は譲歩したが、樺太の一部を獲得、日本の朝鮮半島における優越を認めさせるなど、優勢勝ちを果した。

ただ日本国民は財政的に戦争を続けられなかったことを知らなかったようで、賠償金をとれなかったことに怒り、日比谷焼討事件など暴動が起きた。日本の日本海海戦勝利の報道で日本だけでなく世界中が日本を見直した。この後も日本は第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争と戦争まっしぐらで、軍事独裁政権によって弱肉強食の侵略戦争を続けることになる。

「日本は神の国」とか戦争をするのに都合がいいような洗脳教育を続け、日本は負けるはずはないと国民は信じ込まされていたようだが、日本海海戦で一方的な勝利を収めた日本海軍も太平洋戦争では大損害を被り、俗に言う「ミッドウェー海戦」で大敗し、太平洋の主導権をアメリカ側に譲り渡したことで劣性に立たされ、結局敗北した。日本海海戦では作戦勝ちのような印象を受け、海軍は賢いなどと思うかもしれないが、ミッドウェー海戦では暗号を解読され作戦がアメリカ側に伝わってしまうなど、結構まぬけな負け方もしている。

もし日本が太平洋戦争にまで勝利していたら、今頃は軍国主義真っ只中だったろう。軍国主義が終わって私はとても良かったと思っている。


千利休はなぜ切腹したのか?

2011-06-21 01:12:07 | 歴史

千利休は秀吉に命じられて切腹した。その理由は茶道に対する考え方で秀吉と対立したとか政治闘争に巻き込まれたとかいろいろ説があるが、定説はない。切腹前に秀吉の怒りに触れ蟄居を命じられたので、秀吉との仲はかなり悪くなってしまったのだろう。


豊臣秀吉はなぜ征夷大将軍にならず関白になったのか?

2011-03-11 00:00:03 | 歴史

豊臣秀吉はなぜ征夷大将軍にならず関白になったのか[1]?これは昔からの疑問で今でもはっきりと答えがわからない。秀吉は武士だから、トップになるなら征夷大将軍になるのが自然で、彼が将軍にならなかったのは、いくつかの理由でなれなかったとか将軍になる機会に恵まれなかったと考える人は多い。将軍になれなかった又は就任の機会に恵まれなかった理由としては、

(1)将軍は源氏の血をひくものだけが就ける決まりで、秀吉は源氏の血をひくものではないから。
(2)足利義昭が将軍在任中だったから。
(3)将軍になるため足利義昭に養子にしてくれるように頼んだが断られたから。
(4)秀吉の生まれついての身分が低かったから。

などいくつか説がある。しかし、これらはいずれも有力ではないと思う。特に(3)は創作だろう。(1)も根拠が弱い。なぜなら、鎌倉時代の摂家将軍など源氏の血をひかない者でも将軍になった例はいくらでもある[2]。それに特定の血筋でなければ就任できないのは関白も同じで、五摂家の血筋でない秀吉が関白になるのは将軍以上に難しいと思う[3]。(2)も根拠が弱いと思う。義昭の将軍在任は1573年までだから、(2)が理由なら義昭の退任後いくらでも将軍就任の機会があった[4]。秀吉が関白に就任したのは1585年で、このとき将軍職は空位である[1][4]。また(4)も根拠が弱い。生まれついての身分が低くければ将軍になれないというなら、関白は尚更である。

秀吉は関白相論に便乗し、近衛前久の猶子として関白宣下を受けたが、五摂家の血筋でない秀吉が関白になったことは極めて例外的で、当時の秀吉の権力の強さを象徴する出来事といえるだろう[3][5]。秀吉が源氏の血筋でないからとか、身分が低いから将軍になれなかったという説はこのことから考えても根拠としてかなり弱い。例外的に関白になれた秀吉の権力の強さを考えると、おそらく秀吉が望めば将軍になれただろう。

では、なぜ秀吉が将軍ではなく関白になったのかという理由だが、調べてみたところどれも有力なものはなく、判然としない。私の推測だが、秀吉が将軍にならず関白になったことにはたいして理由はなく、関白相論でたまたま関白になっただけではないかと思う。関白や将軍の地位は天下統一の手段であって目的ではない。天下人になれるなら、関白か将軍かは重要な事ではないし、たまたま関白になれ、その地位で十分天下統一できたので将軍は目指さなかったのかもしれない。強いていえば、秀吉は諸大名に天皇に忠誠を誓わせることを大義名分として天下統一をしていたから、将軍より関白の地位の方がやりやすかったのかもしれない。関白は天皇の補佐・代理人だから、天皇に忠誠を誓わせることは諸大名を自分の家臣とすることを意味するので、秀吉の大義名分と関白職は天下統一にずいぶん役立ったのだろう。

以上が私の考察だ。こうして秀吉は関白職を将軍に代わる武家の棟梁の地位とし、豊臣氏の世襲によって受け継がせようとした。そして公家主体であった朝廷の官位に諸大名を組み入れ、公家と武家を統一して支配しようとした。いわゆる武家関白制といわれるものだ。ただ、この制度は長く続かず徳川家が将軍職に就き、関白は従来通り五摂家の持ち回りとなった。

日本の歴史上豊臣家の関白就任は極めて例外的なものだったといえよう。

(作成日:2011-04-24 19:56:38)

参考
[1]豊臣秀吉 デジタル大辞泉
[2]鎌倉幕府の第4代~第9代将軍は源氏の血をひかない公家が将軍職に就いていた。摂家将軍とは第4代藤原頼経とその嫡男の第5代藤原頼嗣の2人の将軍のこと。
[3]関白は藤原北家の流れをくむ五摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司の5家)だけに就任が許された。摂政も同じである。朝廷の官位では関白の方が将軍より上位だから、五摂家の血を持たない秀吉が関白になることは将軍就任と同じかそれ以上に難しかったであろう。(五摂家のリンク先はデジタル大辞泉)
[4]足利義昭 デジタル大辞泉
[5]関白相論:1585年に二条昭実と近衛信輔の間で発生した関白の地位を巡る紛争。この紛争の結果秀吉が関白となった。


豊臣秀頼は石田三成と淀君の子か?

2011-03-11 00:00:02 | 歴史

豊臣秀吉の世継とされた豊臣秀頼は秀吉と淀君(茶々)の子ではなく、石田三成と淀君の子だという話がある。これはドラマなどに出てくる話で、今年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」でも三成と淀君が怪しげな雰囲気になりそうな感じがある。

しかし、秀頼が三成と淀君の子供だという話はまず間違いなく嘘で、事実ではない。そもそもなぜこのような話が出たのかというと、秀頼が秀吉の子供ではないという噂があったことが原因だろう。知ってのとおり秀吉は子供に恵まれず、秀頼の誕生は彼の晩年だった。側室が何人もいてなかなか世継が生まれなかったのに、淀君との間には男児が生まれたので不思議に思った人が多かったのだろう。さらに秀頼は秀吉にあまり似ていなかったらしい。そういう事情があると「秀頼は秀吉の子ではないのでは?」という噂がたっても無理ないかもしれない。

ただ、秀頼は三成の子ではない。淀君が妊娠した時期を考えると三成は朝鮮出兵で忙しかったろうし、淀君との間に子をもうける機会はない。実際に秀頼の父ではないかと噂があったのは、大野治長という人物で淀君とは仲がよかったらしい。そのため噂になったのだろう。

しかし、秀頼の父親が治長であるという証拠はなく、これも噂にすぎない。史実では秀頼は秀吉と淀君の子である。DNA鑑定できればはっきりするのだろうけど。

(作成日:2011-04-24 19:25:53)


伊達政宗

2011-03-11 00:00:01 | 歴史

伊達政宗(1567~1636年)は仙台藩初代藩主で有名な戦国武将だ。政宗というと5歳のときにほうそう(天然痘)にかかったため右目を失ったが、数々の武勲を立て、仙台藩の礎を築いたことで有名だ。また、金の磔柱を持って上洛するなど、かなり派手なことをやったことでも印象に残っている。はでな服装や振る舞いをする伊達、伊達男、伊達女など伊達政宗に由来する言葉は今日でも使われている[1][2][3]。

伊達政宗は畠山、蘆名氏を倒して奥州を平定し、23歳の若さで200万石以上の領地を獲得するなど数々の武勲を立て、江戸時代になってからも62万5600石という大きな知行を持ち、かなりの成功者に見える[4]。

しかし、その生涯は家康に負けず悲劇の連続だった。上のようにほうそうで幼くして右目を失ったこともそうだが、それが原因で実の母である義姫(最上御前)に嫌われ、母の愛を受けずに育った。義姫は弟の小次郎ばかりをかわいがり、家督を継がせるように父輝宗に促していた。伊達家の家督争いもたいへんなものだった。政宗は父輝宗に愛されていたが、その父も敵である畠山義継につかまり、なんと政宗の目の前で殺された。それだけでも十分悲劇だが、何よりも政宗の生涯で最大の悲劇は豊臣秀吉に降伏するため小田原に参上する際に、実の母義姫から毒殺されかかり、弟小次郎をその手にかけてしまったことだろう。

母が政宗を毒殺し、小次郎に家督を継がせようとしたのは、彼女の弟への愛情もあっただろうが、上洛の命令を無視し続けてきた政宗が今更秀吉に降伏しても伊達家は助からないと考えたため、政宗の首を秀吉に差し出すことで伊達家を守ろうとしたのだろう[5]。いかに伊達家を守るためとはいえ、なんと実の母が自ら作った手料理に毒を入れて息子を毒殺しようとしたのだから、この時の政宗の胸中は極めて辛いものだっただろう。織田信長も家督争いのために弟を殺しているが、まさか母から毒殺されかかったのだから、極めてひどい。悲劇の度合いでいえば、家康と政宗ほどひどい人物はいないだろう。後に母とは和解したようだが・・・。そうでないとあまりにも悲しすぎる。

思うに、政宗は新しいものや派手なものに関心があると思う。例えば、キリシタンに関心を持ち、支倉常長をローマに派遣したこと、上の金の磔柱や小田原参上の際の白装束、朝鮮出兵の際に部下の頭に金ぴかの兜を使ったことなど、派手さについてはいくつも例がある[6]。また、政宗は幼いときから賢く、普通の子より半年はやく話ができるようになり、3歳の時には100まで数えることができたという[7]。虎哉宗乙(こさいそういつ)という名師や片倉小十郎影綱といった優れた家臣に恵まれたのは幸いだった。

無論、政宗は天下を狙っていた。おそらく江戸時代に入ってからも天下を狙っていただろう。私は仙台市の仙台城址(築城は1601年)に行ったことがあるが、もうすぐ江戸時代という時に作られたにしては山の上にあり行くのが大変だった。仙台城本丸は川や峡谷が近くにあり、明らかに攻められにくい場所にある。二の丸は平地にあったらしいが、その築城は政宗の死後すぐで、おそらく政宗以外の者は世が安定したため戦よりも交通の利便性を考えた城にしたかったのだろうが、政宗の野望のため彼に反対され、平城を作れなかったのだろう。

政宗の戦いは徹底していて、相手が降伏しても女、子供すら皆殺しにした[7]。政宗のこうした考え方は敵をふるえあがらせたという[7]。政宗としては敵が降伏してこれを許すと相手からなめられ裏切りに繋がるので、天下をとるため心を鬼にしたのだろう[7]。例えば敵を許したがために、ひどい目にあった例として源頼朝による平家滅亡がある。平家が天下をとったとき、子供だった頼朝を生かしたがために平家は滅亡となった。戦いとは非情なもので、相手の息の根は止められるときに止めておくのが当時の鉄則だったのかもしれない。

仙台市は東北地方の中心都市として発展しているが、それは当然のことながら伊達政宗が仙台市の礎を築いたからだ。仙台市の人にとって伊達政宗は故郷の英雄であろう。それは名古屋市の人にとって織田信長が英雄なのと同じことだ。その他、大河ドラマ「独眼流政宗」(1987年)の平均視聴率39.7%は歴代大河ドラマで最高であり、最大のヒット作である[8][9][10]。

伊達政宗は私の好きな戦国武将の一人だが、その生涯は波乱に満ちたものといえよう。

(作成日 2011-04-23 20:19:28)

参考
[1]伊達:1 意気や侠気(きょうき)をひけらかすこと。また、そのさま。
2 人目を引くはでな服装や振る舞いをすること。見えを張ること。また、そのさま。
3 好みがしゃれていること。考え方がさばけていること。また、そのさま。粋(いき)。「―に着こなす」

[補説]人目につくようにする意の「立つ」の連用形「立て」からとも、伊達政宗の家来がはでな服装であったからともいう。

デジタル大辞泉より

[2]伊達男:人目を引く、しゃれた身なりの男。また、侠気(きょうき)のある男。侠客。男だて。 デジタル大辞泉より
[3]伊達女:格好のよさで人目を引く女。いきな女。 デジタル大辞泉より
[4]仙台藩の62万5600石という石高は加賀(102万5千石)、薩摩(77万石)に次ぐ全国3位。この3つの藩は御三家筆頭の尾張徳川家(61万9千石)より石高が高く、外様雄藩といわれた。関ヶ原の戦いの時、徳川家康は政宗が東軍に味方することが必要と考え、「100万石のお墨付き」を与えたが、後に政宗が和賀忠親に一揆を煽動させていた策略が発覚し反故にされた。
[5]上洛せよという秀吉の命令は要するに秀吉の家来になれということ。当時関白秀吉は諸大名に天皇への忠誠を誓わせることを大義名分にして全国の統一を進めていた。関白は天皇の補佐・代理人であるから、諸大名が天皇に従うことは事実上秀吉の家臣になることを意味する。秀吉が征夷大将軍ではなく関白になったのは、このことと関係があったのかもしれない。秀吉のこういう統一の仕方は彼の主君織田信長が将軍足利義昭を奉じて京に入ったことなど、信長の統一の仕方と共通するものがあり、秀吉はおそらく信長にならったのだろう。
[6]政宗は秀吉の命による朝鮮出兵のとき、部下に金ぴかの兜をかぶらせたという。かなり派手で目立つため恥ずかしいが、政宗はその恥ずかしさのため秀吉は部下を先陣に使わないだろうと判断したため、このようにした。先陣は通常名誉なことだが、命を落とす危険も大きく、大事な部下を失いたくないという政宗の配慮による兜だった。
[7]伊達政宗、学研まんが人物日本史 1987年
[8]大河ドラマ「独眼流政宗」の最高視聴率は47.8%で歴代3位。ここ10年で最大のヒットといわれた「篤姫」(2008年)の平均視聴率は24.5%、最高視聴率は29.2%である。ある報道で篤姫のヒットを「空前のヒット」などと大げさに表現していたが大嘘であり、時代が違うとはいえ篤姫の人気は独眼流政宗の人気の足元にも及ばない[9][10]。
[9]世界変動展望:"篤姫は空前の人気ではない" 世界変動展望 2008.12.29
[10]世界変動展望:"宮崎あおいの出演ドラマの評価は過剰である" 世界変動展望 2009.1.19


戦前までの女性の地位について

2011-03-11 00:00:00 | 歴史

残念ながら戦前までの女性の地位は男性より低く、男尊女卑は当たり前だった。時代劇を見ると、女子が政略結婚等に利用される様をおかしいと思い、結婚を決めた殿様や重臣たちを非難する気持ちを覚える人がいる。しかし、それは私たちが現代の社会通念のもとに見ているからであって、当時としては政略結婚等は当たり前だった。むしろ近代のように両性の基本的合意で婚姻が決まっていることの方が、歴史の長さからいって珍しいことだ。

江戸時代以前の女性の地位は儒教の女中庸に書かれた「三従の道[用語]」のような考え方が当たり前で、大奥のような将軍のハーレムや政略結婚、子供を作ることだけに女性を利用する様などは当たり前のこととされた。これらのことは、残念ながら当時の女性に男性ほどの人権はなく、女性の地位の低さを示す証拠といえるだろう。

現代では人権思想が浸透し、女性の地位が高くなった。それがつい最近の出来事だと思うと、人の社会通念とは本当に変わりやすいものだと感じる。

(作成日:2011-04-23 20:01:01)

用語
[1]三従の道:女性は幼い時には父親に従い、長じては夫に従い、老いては息子に従うという考え。江戸時代の代表的な女性観。


天皇と将軍、どっちが偉いの?

2011-03-10 19:10:35 | 歴史

「天皇と将軍、どっちが偉いの?」という疑問を持っている子供がいるでしょうから説明します。

形式的には天皇の方が将軍より偉いです。そもそも将軍とは征夷大将軍のことで、794年頃からはじまった蝦夷(えぞ)を鎮圧するための遠征軍の指揮官を指しました[1]。指揮官も遠征軍も天皇に命じられた天皇の家来です。それが後に武家の棟梁(武士のトップ)を指すようになったのです。将軍は天皇の家来で、それは武士の時代(鎌倉~江戸)でも変わりません。

しかし、武士の時代を見ると将軍が政治を中心に行っていて天皇より偉いかのように見え、天皇はまるで飾り物のようです。だから子供の中には「武士の時代は天皇より将軍の方が偉い。」と思っている人がいるわけです。

あくまで将軍は天皇に任じられ、政治を任されているのであり、形式上天皇が将軍の主です。しかし、実際の政治の実権は将軍が握っており、天皇も将軍に言われるままに将軍職を任じ政治を任せていたため、事実上は将軍がトップで天皇はお飾りに過ぎなかったのです。要するに形式的には天皇は将軍の上位でも、権力は将軍の方が天皇より上で、事実上将軍が日本のトップなのです。

「では将軍が既存の朝廷を倒して新しい朝廷をつくり、名実共にトップになればいいじゃないか。」と思う人もいるでしょう。もっともな疑問です。中国のように既存の王朝を倒して、権力者が新しい皇帝になった国もありました。なぜ日本では権力者が既存の朝廷を倒さなかったのでしょう。

正確な理由はわからず私見になりますが、その理由はおそらく権力者は既存の朝廷を倒すより、操った方が楽に目的を達成できたからでしょう。

権力者の目的はほしいままに振舞うことです。それを実現する手段として既存の朝廷を倒し新しい朝廷をつくること、既存の朝廷を自由に操ることの二通りがありますが、後者の方が楽だったのです。

なぜなら、当時の日本は大和朝廷が日本を統一してからずっと天皇中心の政治体制で、その威光のものとにすべてを正当化する秩序をつくっていたからです。とても偉い天皇が政治、官位、職務を任せているので、将軍は偉いし政治も正しいと、ずっと考えていたのです。

ですから既存の朝廷を倒すことは当時の考え方では悪であり、その秩序を転覆することにはそれなりのリスクがありました。そんなことをするより実権を握って天皇を操り人形にし、ほしいままに振舞った方が権力者にとってずっと楽だったのです。また、ほしいままにできるのなら、あえて朝廷を倒す必要はありません。こうして日本では朝廷が倒されることなく、ずっと天皇制が続いたのです。

説明は以上ですが、現代を生きる子供たちはおかしいと思う人が多いでしょう。「なぜ天皇が認めれば、何でも正しく許されるのか?」と。その通り、はっきりいっておかしいです。天皇だって人間で、間違いをおかすし、完璧ではありません。天皇が認めることは何でも正しいというのは荒唐無稽なことです。

天皇は神ではありません。政治をどうすべきか、何が正しいのかは一人一人がよく考え、みんなで議論して決めていかなくてはなりません。

(作成日:2011-04-19 19:10:35)

参考
[1]征夷大将軍 デジタル大辞泉


江と春日局

2010-12-19 00:00:00 | 歴史

来年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」で注目しているのは、江が息子家光と忠長にどのように愛情を注ぐのかということだ。周知の通り、江は家光より忠長の方を愛し、育てたため、将軍の跡をめぐって、兄弟間の骨肉の争いが起きた。

家光の乳母は春日局で、彼女が育ての母で、事実上の母といってよい。昔は身分の高い人の子供は、母の乳がよく出たとしても、乳母が乳を飲ませる風習だった。その方が子供が丈夫に育つと考えられていたからだ。乳母と子は親密な関係になることが多く、乳母は子を愛し、子も実の母以上に乳母を愛することが少なくなかったという。春日局と家光もその例である。

一方、忠長は珍しく江が直接乳を与えて育てたという。そのため、江は家光より忠長の方を愛し、彼を次期将軍にしようと考えていた。上の論理からいっても、自分が乳を与えて育てた忠長を家光より愛するのは当然だ。

このため家光は母親の愛情を受けずに育ち、江も父・秀忠に次期将軍を忠長にするように勧めたため、父親にも愛されていないと感じてしまった。おまけに、弟・忠長からもあまり良く接せられなかったようだ。子供の頃の家光は非常に辛い思いをして育ち、自殺まで考えたかもしれない。

これが史実であろう。これを見ると、江はあまりよい母親ではない印象を受ける。江は主人公だから、さすがに悪役に描くわけにいかないから、どうするのか気になる。また、春日局との関係もどう描かれるのか気になる。

江と春日局は母親同士の敵対関係で、お互い育てた子供を将軍にしようと激しく争った。周知のとおり、その戦いの結末は、春日局が駿府城の家康に家光を将軍にするよう直訴し、家康が秀忠に世継を家光にするよう命じることで決着した。次期将軍を決めるのは、将軍の専権事項だから、隠居した家康の命令で世継が決まるのはおかしいと考える人もいるかもしれないが、秀忠が家康の命令に従った理由は、さすがにわかるだろう。

家康は江戸幕府の開祖であり、秀忠等徳川家の人間がその地位にあるのは、すべて家康のおかげだ。家康は江戸幕府の最大功労者である。秀忠が将軍で、武家の棟梁というのは形だけのこと。事実上の最高権力者は家康であり、家康の命令には将軍・秀忠といえど、絶対服従なのだ。大御所政治ともいわれるゆえんだ。

このように家光が将軍になれたのは春日局のおかげだ。それだけではない。子供の頃に辛い思いをして育った家光を愛し、支え続けたのは彼女である。春日局がいなければ、家光は自殺していたかもしれない。家光が助かったこと因果関係はないだろうが、家光が天然痘にかかって、死にかけたときに、水ごりをして「私は今後病気になっても決して薬を飲まないから、家光様の命を助けてほしい。」と願ったのは有名だ。

どんなことがあっても、春日局は家光の味方だったし、家光がどれだけ春日局に助けられたかわからない。それは家光もよくわかっていた。「春日局はどんなことがあっても私の味方だ。絶対に私を裏切ることがない。」と家光は心の底から思っていたに違いない。まさに二人は母子といってよい。かくして、春日局は家光の絶大な信頼を得ることになる。つまり、家光は春日局のいうことなら何でもきくということだ。

「政治をしているのは家光ではなく、坊主と乳母だ。」と当時誰かが影でささやいていたように、春日局は大きな権力を持っていた。江は御台所だから、春日局よりずっと地位が高く、大奥のトップは江だが、それも形だけのこと。真のトップは春日局である。

春日局はもともと夫・稲葉正成や子供たちを出世させるために、乳母になったといわれるが、春日局が強大な権力を得たためか、稲葉正成は下野で二万石の大名となり、長男・正勝は老中となり、小田原城主になって、八万五千石をもらったという。

はっきりいって、政治能力は江より春日局の方がずっと優れていて、この時代の女性で、ここまで主体的に活動し、政治力を持った人はいないだろう。当時は儒教的価値観が浸透し、女中庸に書かれた「三従の道[用語]」に代表されるような女性観に合わない彼女は否定的評価だったらしいが、私は江より春日局の人生の方が、よっぽど女性の強さを表していて、よいと思う。また、そっちの方が面白いと思う。1989年に放送したから、取り扱えなかったのだろう。

江と春日局の関係はどう描かれるのだろう。田渕久美子のことだから、篤姫と和宮のように一時期対立しても後で和解するという話にするのだろうか。私はそれに関心がある。

用語
[1]三従の道:女性は幼い時には父親に従い、長じては夫に従い、老いては息子に従うという考え。江戸時代の代表的な女性観。


徳川家康

2010-01-26 01:20:22 | 歴史

徳川家康は江戸幕府の初代将軍で戦国乱世を平定した人物である。日本では誰でも知っている。彼は大変な苦労人で、彼の我慢強さはたいへんなものだ。幼いときは織田に人質に出され、その後も今川の人質となった。一番の悲劇は織田信長の命令で正室の築山と嫡男の信康を自害させなければならない事態に追い込まれたことだろう。家族を死に追いやられたのだから、彼の精神的な苦しみは想像を絶するものだったろう。この時家康は実質的に信長の家臣のような立場だったが、よくこんな相手と付き合い続けたものだ。現代の常識では考えられない。本能寺の変の後も秀吉に一歩出遅れ、天下の主導権を秀吉に奪われ、長い間秀吉の家臣となった。

しかし、1598年(家康 55歳)に秀吉が亡くなってようやく天下を掴む日が訪れた。豊臣家臣内での政権闘争は1600年(家康 57歳)の関ヶ原の合戦で大勢が決し、勝利した家康は天下の覇者となった。この時家康は57歳。まさに長い苦労の末に花開いたといえる。その後1603年(家康 60歳)に征夷大将軍となり江戸幕府を開く。徳川時代のはじまりだ。

「織田がつき羽柴がこねし天下もち座わりしままに食うは徳川。」

などといわれるが、彼が天下をとるまでにどれほどの苦労をしたかを考えると、とても私にはそう思えない。家康が残した人生訓に

「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し。いそぐべからず。
 不自由を常とおもへば不足なし。
 こころに望おこらば困窮したる時を思い出すべし。
 堪忍は無事長久の基。
 いかりは敵とおもへ勝事(かつこと)ばかり知(しり)てまくる事をしら
 ざれば害其身にいたる。
 おのれを責めて人をせむるな。
 及ばざるは過たるよりまされり。」

というものがある。まさに家康の人生そのものから出た教訓だと思う。今苦しんでいる人はたくさんいると思うが、あきらめずがんばり続けて、いつか幸福を掴んでほしい。