世界変動展望

私の日々思うことを書いたブログです。

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関ヶ原の合戦でどうすれば西軍が勝てたか?

2016-04-11 00:00:00 | 歴史

関ヶ原の合戦でどうすれば西軍が勝てたか。関ヶ原の布陣をみると、どう見ても西軍有利。という事は裏切りと日和見を抑えれば勝てたはずだ。西軍は東軍の調略を阻む事に失敗したのが敗因だった。西軍が裏切りと日和見を抑えていれば勝ったと思う。


マリーアントワネットとフェルセンの不倫

2015-05-23 17:35:28 | 歴史

現在NHKBSプレミアムでベルサイユのばらを放送中。私はなかなか面白い作品だと思います。宝塚歌劇団では最大のヒット作で1974年の初演から現在まで再演が続いている。劇中にフランス王妃マリーアントワネットとスウェーデンの貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンが登場するが、彼らは実在の人物で史実でも愛人同士だった。マリーアントワネットはオーストリアの皇女でハプスブルク家の人物、しかもフランス王妃。そんな人物とよく不倫できたと思う。日本でも豊臣秀吉の側室の淀殿大野治長との密通の噂や豊臣秀頼は二人の子という俗説がある。

高貴な人の部屋等は警戒厳重だろうし、不倫をしたらお手打ちになると思うので、普通は不倫できないと思うが、フランスではそういう事ができたのか。フェルセンがスウェーデンの貴族でもフランス王妃は高嶺の花だと思う。フェルセンはどんな手を使ったのか。

高嶺の花というとベルサイユのばらに出てくるアンドレにとってオスカルは高嶺の花だろう。オスカルは貴族、アンドレは従者、当時の身分違いは決して結ばれぬ運命といえる。アンドレは虚仮の一念でオスカルに対してかんばるが、最後は報われた。

アンドレにとって高嶺の花の攻略法は虚仮の一念だった[1]。フェルセンにとっての高嶺の花の攻略法は何だったのだろう?

参考
[1]虚仮の一念岩をも通す:愚か者でも一途に続けていれば岩をも通すような大きな事が成し遂げられるという事。


騙すことは重要か? - 徳川家康の天下取り

2014-06-30 20:33:00 | 歴史

徳川家康は天下をとったが、そのやり方は汚かったと思う。天下分け目の合戦で有名な関ヶ原の戦いは小早川秀秋の裏切りで東軍優勢となり勝利した。家康は事前に西軍の武将と通じて寝返るように戦略を立てていた。西軍の石田三成らは正攻法で軍の陣形などを有利に配置することで勝利を目指したが、家康の裏切り戦略による騙し討ちが致命傷となってしまった。

それだけでなく、豊臣家を滅ぼすために財力を落とすことを考え、捏造した名目で工事を押し付け財産を浪費させたり、方広寺の鐘の「君臣豊楽、国家安康」の文字が家康を胴切りにするものと難くせをつけ、豊臣家を滅ぼすための戦の口実を作った。それが大阪の陣で、冬の陣で1か月以上かかっても大阪城が陥落せず苦しいと思った家康は豊臣側と一旦和睦する作戦に出て、条件がなんと「大阪城の内堀は埋めないが外堀を埋めること」。無論これは大阪城を攻め落とすための家康の嘘で、豊臣側は騙されたのか仕方なく条件をのんだのかわからないが和睦が成立し、外堀を埋めるのにあわせて内堀も埋められてしまった。天下の名城大阪城も外堀、内堀を埋められたら一たまりもなかった。秀頼と淀君は自害、秀頼の息子も徳川方が処刑。唯一秀頼の娘だけが生き残ったが、子供なく死亡し豊臣家は滅亡した。家康は高齢でいつ死んでもおかしくなかったから、籠城を続けていればよかったかもしれない。大坂夏の陣は1615年、家康は翌年に亡くなった。

こうしてみると家康の天下取りは詐欺の連続だ。現在も日本の研究界では理研上層部が規則を無視してSTAP論文の疑義を不調査とし隠蔽を平気で行った。ノーベル受賞者の野依良治理事長が「調査には定義がいろいろある」と言って、筋の通らない理屈で強引に不調査を押し通そうした様は家康の難くせと似たようなものかもしれない。理研上層部に限ったことでなく大阪大学、東北大学、国立環境研究所、京都府立医科大学なども同様で規則をあからさまに無視したり、筋の通らない理屈で規則が骨抜きになっている。研究機関にとって規則は紙切れにすぎない。北朝鮮の外交約束と同じで全然信用できない。

世の中狐みたいなやつの方がうまくいくのかもしれないが、真面目にやっている人がバカを見ない社会になってほしいと私は思う。

 


同じ人がずーっと好き!永遠の愛、その真相について

2013-03-03 00:09:52 | 歴史

同じ人がずーっと好き!

「僕は誓うよ。50年後の君を今と変らず愛している!」

そんなきざなセリフを純愛ドラマで聞いた事がある人もいるでしょう。そんな永遠の愛は現実にあるのでしょうか?

私が見た文献では、恋愛感情はせいぜい4年程度しか続かないらしく、熱愛で結婚しても時がくれば愛はさめます。それが一般のはず!しかし、歴史上の人物で永遠の愛を持ち続けた人はきっといたと思います。今回紹介するのは、その可能性のあった豊臣秀吉とお市の方です。

この2人の紹介は無用でしょう。秀吉は関白・太政大臣になった天下人、お市の方は織田信長の妹で、たいへん美しかったといわれる人物です。一説には秀吉はお市をずっと好きで、淀殿を娶ったのは浅井三姉妹(お市の娘たち)の中で淀殿が最もお市の容貌を受け継いでいたからと言われています。この説からは秀吉にとってお市は永遠の人だったといえます。

しかし、お市にとって秀吉は猿ですから、非常に嫌っていたようです。最初の嫁ぎ先の浅井氏を滅ぼしたのは秀吉だし、浅井長政の長男・万福丸らの処刑、思い出の地・小谷城を壊して秀吉が自分の領土としたといった事から恨みもあったのでしょう。「秀吉の側室になれ」なんて話になったら、「絶対にいや!」といって強く拒絶したでしょう。この時代は政略結婚が当たり前で、本人の意思は関係なかったかもしれませんが、お市ならたぶんそういっていたでしょう。信長亡き後織田家を再興するため、織田家筆頭家老だった柴田勝家と政略結婚したものの、織田家の後継者を決める賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れ、越前北ノ庄で勝家とともに自刃しました。

知ってのとおり北ノ庄城が落城した時浅井三姉妹は助けられました。この時秀吉はお市も助けるつもりだったのでしょう。たぶん、お市も城から出すように柴田側に伝えていたはずです。しかし、お市は助かっても秀吉の側室にされるのがわかっていたのでしょう。自刃した理由の一つは秀吉の側室になるのが嫌だったからというのもあったと思います。

「猿の側室になるくらいなら死んだ方がましよ!」

徹底的に嫌われてしまった秀吉。永遠の愛も届かなかったようです。秀吉は攻め滅ぼした相手の女を側室にしていましたから、お市も助かっていたら側室にされていたでしょうね。

秀吉は17歳から信長に仕え、北ノ庄城を落としたのが46歳なので、いつからお市を好きだったのかわかりませんが、仮に仕官した頃からだったとすると約30年です。淀殿を娶ったのがお市の影響だとすると、その愛はお市の死後も続いたのでしょうから、もっと長い期間だったということになります。

一人の女性を30年以上愛し続ける・・・。すごいなー。(笑)

秀吉にとってお市はまさに永遠の人だったんですね。

上で述べたように一般には愛情は4年程度しか続かないのですから、これはたいへんな長さです。秀吉とお市はずっと会っていたわけではなく、少なくともお市が浅井氏や柴田氏に嫁いでいた時は長い間ずっと会っていなかったはずです。お市が織田家にいた時も、頻繁に会っていたのでしょうか?

「長い間会ってもいなかったのに、なぜ長い間愛し続けられるの?信じられない、どんなに考えてもそれが理解できない。」

そう思う人はいるかもしれませんね。なぜ長い間会ってもいなかった一人の女性をこれほど長く愛し続けられるのでしょうか?

秀吉の妄想?いや、長い間会っていなかったとしても、お市が浅井氏から戻ってきた時や柴田氏に嫁ぐ前に秀吉はお市に会っていたはずです。妄想ならそれで覚めるはず!秀吉にとってお市への愛は決して妄想ではないのです。

ではなぜ?

ユリアを愛するラオウと同じなのでしょうか?(笑)

「永かった・・・あの日あの時お前がおれの心に焼き付いてから・・・」

この世で最も愛深き漢ラオウらしい純愛。ラオウのユリアに対する愛情は非常に激しく強いです。あんな感じでしょうか?確かにあのような愛情なら何年たっても続きそうですね・・・。

といってもこれはやはり漫画です。同じ覇王でも秀吉とラオウでは違います。

お市に対する秀吉の愛情がなぜ長年続いたのか?真相は私もわかりません。だから、以下のことは私の推測です。

お市に対する秀吉の想いは愛情というより、ただの色欲だったのではないでしょうか?秀吉は無類の女好きで気に入った女は手当たり次第という感じで、側室は20人以上、伊達政宗の側室だった藤女は秀吉の毒牙にかかってしまいました。また、高貴な女性を側室にしたことを考えると、秀吉は明らかにブランド志向。信長の妹というブランドを持ち、絶世の美女といわれたお市に天下人だった秀吉が手を出さないはずがありません。淀殿を娶った理由に信長の姪というブランド志向が絶対にあったはずです。

それが永遠の愛の真相だったのではないでしょうか?

色欲が愛情かと言われると、人によっては愛情という人もいるかもしれません。しかし、それを愛情というなら、現代のおじさんがソープランドで女性相手に情交をかわすのも愛情ということになります。やはり、そういうのは愛情ではないでしょう。(思えば建前上ソープランドは店が部屋を貸しているだけで、勝手に男女が愛情を持ってしまって、あーんな行動になったのだ!というのが合法理由ですが。)少なくとも色欲はプラトニックではないです。

男は何歳になっても色欲が衰えない人がいるんでしょう。少なくとも恋愛感情よりは長続きします。秀吉がお市を30年以上も想い続けたのは、愛情ではなく無類の色欲ゆえだったと考えると、あり得る話だと思います。

しかし、現実の歴史ではこのような色欲ではなく、長い間会っていなくても、長い間プラトニックにずっと一人を愛し続けた人がいたでしょう。そういうことは十分にあり得ることです。無論、そういう純愛があってもいいと思います。

なぜ、会っていなくても一人の人を長い間ずーっと愛し続けられるのか?

それは私はわかりません。しかし、私は大切なのはなぜかという理由を突き止めることではなく、愛情を考えた上で幸福な関係を築くように努力することだと思います。私の想像にすぎませんが、こういう愛情は本人もなぜなのか理由はわかっていないと思います。愛情とはたまにそういう性質もあるのでしょう。だから、理由を考えても仕方ないでしょう。

それより大切なのはこれからです。愛し、愛されているなら、それを受け止めた上で幸福な関係を築くように努力することの方がずっと大切だし、それで十分ではないでしょうか。

人は過去ではなく明日にむかって生きていくのですから。


相思相愛の将軍と御台所の手紙

2013-03-03 00:05:55 | 歴史

周知の通り、第14代将軍徳川家茂と皇女和宮は公武合体政策のために政略結婚した。この時代はこれが当たり前だったかもしれない。しかし、家茂と和宮の夫婦仲は良かった。歴代将軍家で最も夫婦仲が良かったのは家茂と和宮だろう。

いろいろな文献によれば、家茂は大奥の和宮をよく訪れて気づかったという。大奥では公家と武家の対立があり、慣れない大奥での生活は大変だったのだろう。そういう気づかいを和宮は嬉しく思っていたと思う。家茂は金魚とか贈り物を贈ったという。そういう家茂の気持ちが嬉しかったので、和宮は家茂を愛するようになった。家茂と和宮は政略結婚でありながら相思相愛だった。

2人の新婚生活は2年程度だったと思う。家茂が長州を征伐するために江戸から京都に向かって2人は離れ離れになるが、お互いによく手紙を交換していた。その時の2人の文章を見ると、相思相愛だったというのはよくわかる。

和宮が家茂に送った手紙の最後には、

「京では病がはやっていると聞きます。お体に気をつけて、どうか息災でいてください。」

というような趣旨の文章があった。これだけ読むと普通の手紙のように見えるが、残りの部分もあわせて読むと不思議なことにこの部分に和宮の家茂への愛情が感じられて、とてもうまい文章だと思った。さすが和宮!私とは教養が全然違います。

私は友人等に手紙を書くことがたまにありますが、ぜひこういう気持ちがよく伝わる文章を書いてみたいものです。

ドラえもんの道具にはもはん手紙ペンという便利な道具があって、どう書けばよいか模範例を示してくれます。年齢25歳くらいの設定で、のび太がしずかちゃんに書いたラブレターでは

「ああ、しずかさん。君のことを想うと夜も眠れない。好きだ、心の底から愛している!」

というような文章になりました。熱烈な愛情表現ですが、これが模範というのはアニメだからでしょう。(笑)

人の心を打つ感動的な手紙を書いて、大切な人に読んでもらいたいものです。