世界変動展望

私の日々思うことを書いたブログです。

原著論文とレビュー論文の区別と発表順序について

2011-01-24 20:06:23 | 社会
最近おかしいと思ったことがある。

『早稲田大の松本和子教授の論文を調べていた同僚が、ある発見をした。98年と99年に彼女が書いた文章が「ほとんど同じだ」というのである。

98年の文章は某学会の機関誌に掲載された、研究内容を紹介した「総説」。そして99年、ほぼ同じ内容を「論文」として同じ学会の学術誌に投稿していた。題名こそ違うが、構成から「てにをは」にいたるまで、9割方は同じ文章だった。

驚いて学会に確かめたら、「それはよくあること」という。2本とも論文なら二重投稿で問題だが、今回は違う。しかも論文で大切なのは「中身」であり、表現が過去の文章と同じでも関係ないという。 [1][2][3]』

私は原文を読んでいないので判断できないが、もし本当にこの通りだとしたら、二重投稿だし、学会の回答はおかしいのではないか。

総説(レビュー)とは原著論文を批評、解説したものだから、原著論文と内容が重なる部分があっても特に問題ないと考えられている。しかし、原著論文とはオリジナルで新規性のある研究成果を伝えるものだから、一般に総説が原著論文より先に発表されることはない。それは、別の例でいえば、テレビアニメが原作に先立って放送されないのと同じことである。

もし、総説で新規性のある研究成果を伝えているとしたら、それは「総説(レビュー)」、と論文で明示されていても原著性著作物である。おそらく学会は総説と原著論文は違う目的だから、内容がある程度重複しても問題ないと考えているのだろうが、原著と総説の意味から考えて、上のような発表はおかしいし、本当なら二重投稿だろう。実質的に新規性のある成果を伝える著作物を重複して発表しているからである。無論、原著論文の発表後の総説の発表はよくある。

レビュー論文はあくまで、既存の論文の批評や解説をする文献でなければならず、新規性のある研究成果を伝えたいなら原著論文を別に発表しなければならない。当然のことながら、レビュー論文は原著論文を転載するものではだめで、原著を基礎とし、それを批評・解説する内容を含まなければならず、それが主要素でないといけない。

原著とレビューの区別をつけ、モラルを守った発表をしないとだめだ。

参考
[1]元村有希子(科学環境部), 毎日新聞 2006年8月2日 の記事
[2]袁景利、松本和子:"希土類元素を用いた蛍光分析" ぶんせき1998年11月号873頁「進歩総説」
[3]袁景利、松本和子:"蛍光性希土類錯体の機能化とバイオテクノロジー分野への応用" 分析化学「総合論文」1999年12月号1077頁

原著論文とは?

2011-01-24 13:23:52 | 社会
原著論文とはオリジナルで新規の成果が載っており、目的、対象、方法、結果、考察、結論等で構成された文章をいう[1]。典型例はフルペーパーだ。この定義では、レター、テクニカルレポートも原著論文となる。研究によって生み出されたオリジナルで新規の成果を伝えるものなら、それは原著性がある。

原著論文とは通常の研究論文のことで、単に論文というとこれを指すことが多い。原著と明示するのは、解説・批評論文(以下、総説論文等)ではないことを明示するためだろう。そもそも独創的で総説論文等の原著となるから原著論文という。総説論文等とはレビュー論文(総説論文)やサーベイ論文など、既存の論文を調査して批評・解説した論文のことで、新規的研究成果がないものである。当然のことながら、総説論文等は原著論文の批評・解説を目的とするから、原著論文と内容が重なる部分もある。

以前に誰かから「原著論文って何?」と聞かれたので、参考までに紹介した。

原著性のある著作物を二重に発表することは、著作物の余剰出版となり、原則的には二重投稿になる。二重投稿の基準は学会によってまちまちだが、最近は余剰出版に該当する場合は、合理的理由がある場合を除いて広く二重投稿になるようである。

合理的理由がある場合とは、例えばプレプリントサーバーに載っている論文を査読付論文として投稿する場合である。迅速な成果報告という合理的理由があるため、このケースは二重投稿とならない。

しかし、ほとんどないことではあるが、査読付論文を出しているのにプレプリントサーバーに論文を投稿するのは二重投稿になるだろう。迅速に報告するのがプレプリントの目的だから、すでに発表されている内容を投稿するのは合理的理由がない。大学の紀要として複数の論文を出版するのも、おそらく二重投稿になるだろう。査読がない論文であっても、重複して発表する合理的理由が見当たらないからだ。

きちんと判断するには、個別的に発表の合理性を判断することになるのだろうが、言語や発表媒体、発表の機会(雑誌、国際会議など)、査読の有無に関わらず、原著性著作物の重複発表はプレプリントの発表→査読付論文発表等のケースを除いて、二重投稿に該当しうる。

日本原子力学会のようにテクニカルレポートのウェブ発表→査読付論文発表でも二重投稿とする学会もある[2]。先にも述べたとおり、著作物の余剰出版回避を考えるとこのような基準になるのだろう。

二重投稿の基準は年々規制の範囲が広まっている。そして、二重投稿は不正行為なので、発覚すると罰則を受けてしまう。研究者の方は、二重投稿に該当しうると思うなら、発表前にきちんと確認することをお勧めする。倫理意識が低いと後で痛い目に遭うのはあなたですよ。

参考
[1] 原著論文の定義は例えば「医学中央雑誌刊行会のページ」を参照。他の定義もあり得る。例えば、雑誌に掲載された査読付フルペーパーのみを原著論文とする場合もある。
[2] 「二重投稿Q&A-Q4,A4」 日本原子力学会 編集委員会 2008.7.25

九大、理学部数学科の女性枠入試を取りやめ

2011-01-21 21:05:41 | 社会

19日、九州大学は理学部数学科後期入試で平成24年度から導入を目指していた女性枠5名の入試を取りやめることを発表した[1]。同大は数学の女性研究員比率が低い現状を改善することや男女共同参画社会形成に資するために女性枠を設けたが、「公平でない。」「法の下の平等に反する。」との批判が相次ぎ、撤廃することとした[1][2]。

女性枠を撤廃するなんて当たり前。男性だって一生懸命がんばって入試を受けているのに、女性というだけで優遇して合格させるのはフェアーではない。代わりに入学できたはずの人がかわいそうだ。このようなアファーマティブアクションは逆差別であり許されない[用語1]。アンフェアーなことをやってまで、女性研究員率を5割にしたり、男女共同参画を実現しなくてもよい。実力の乏しい人を採用しても社会のためにならない[3]。

今回はあからさまに女性枠を設けたので批判を受けたが、推薦入試とか選考の過程が見えない入試ではすでに女性優遇のアファーマティブアクションをやってるのだろう。そういう不公平な選考は絶対にやめるべきである。最近女性研究者率を上げようと全国の研究機関でアファーマティブアクションが行われているが、女性というだけで優遇して入学させたり、採用するのは絶対にやめてもらいたい[3]。

(作成日:2011-05-20 21:05:41)

参考
[1]Yomiuri Online 2011.5.19
[2]ReseMom 2011.5.20
[3]世界変動展望 著者:"研究職の女性優遇採用政策に断固反対!!併せて女性研究者の障害除去を!" 世界変動展望 2008.10.6

用語
[1]アファーマティブアクション:積極的差別撤廃措置。弱者と強者の格差を是正するため、弱者に積極的な優遇措置をとること。例えば、女性研究員の比率が男性よりずっと低いので、女性を優遇して採用する措置をとること。


公立高校一般入試合格者は入学強制だと嘘の指導をするのは絶対やめろ!!

2011-01-20 19:35:57 | 社会

大阪府などでは公立高校一般入試で合格すると入学強制だと嘘の指導をしているが、そのような嘘の指導をやめ入学辞退は自由にできることをきちんと周知すべきである[1]。

では大阪府などではなぜこのような嘘の指導をしているのか。一般にどの都道府県も私立より公立の方が後に入試があるので、公立受験者は第一志望の者が多いため、これらの府県では入学辞退がないことを前提に入試をするからだ。そのため定員ぎりぎりしか合格者を出さないし、辞退者が出ても追加合格者を出さない。中学校でも入学辞退は許されないと指導する。辞退すると代わりに不合格になった者がかわいそうだから慎むべきだという考えもあるようだ。中学校の教師の中には入学辞退は悪いことで、受験者等の謝罪が必要だと考える人もいるらしい[1][2]。

しかし、これらの考えは間違いであり、不当である。なぜなら、少数でも公立、私立どちらか迷って受験する者もおり、これらの者が入学辞退しても責められる理由は全くない。入試の前に第一志望校を決めておかないのが悪いというのかもしれないが、特定の期限までに第一志望を決めるように強制する権利は県等にはないし、迷って受けたとしても責められるのは筋違いだ。そもそも一般入試はこのような人も当然想定されるので、合格者が必ずしも入学しないことを前提とする試験であるべきだ

辞退者の代わりに不合格になった人がかわいそうだというなら高校側が追加合格者を出すなどすればいいだけだ。それに入学辞退ができない規定はないのに、入学辞退できないと指導するのは詐欺であり不当だ。仮にかかる規定があっても上の理由で不当だ。責められる理由もなく、代替策もあるのに、入学辞退が悪いことだとか謝罪が必要だとするのは責任転嫁も甚だしく許されない[2]。

一般入試は入学辞退が自由にできることをきちんと周知し、欠員が生じたら追加合格者を出すなど代替策を作り、受験者の進路選択の自由への制限を撤廃しなければならない[1]。高校側が追加合格者を出す手間と受験者の進路選択の自由では後者の方を優遇して保障すべきである。

とはいうものの現実に入学辞退するのは学校側の不当さのため問題がある[2]。先にも述べたとおり、教師の中には入学辞退が悪いことだととか辞退は自分の責任問題になると間違った考えを持つ者もいるらしい[2]。辞退が原因で不利益を及ぼされる可能性がある[2]。だから、

(1)公立を受験するときはできる限り第一志望とし、お試し受験はしない。
(2)弟、妹がいて公立を受けるときは、必ず公立を第一志望とする。
(3)本当に迷って受験し、合格後私立に進学することを決めたら、弟、妹がいないなら遠慮なく私立と入学手続きする。

上のことを助言する。(2)は後の人への配慮だ。入学辞退で自分はよかったとしても弟、妹がまた中学に入るなら彼らに教師の不利益が及ぶおそれがある[2]。中学校と完全に関係が切れない限り、入学辞退はやめた方がいい。もし、下に誰もいなく卒業すれば関係が切れるというなら、遠慮なく入学辞退すればよい。教師側が辞退は悪いので謝罪しろといってきたり、彼らの責任問題になるというなら、「迷って受験した人が辞退して何が悪いの?辞退が許されないなんておかしなこといってるあんた達が悪いんでしょ。」といってやればよいのだ。おかしな主張に従うべきではなく、それで彼らが不利益を被っても無視すればよい。彼ら自身の責任である。

(作成日:2011-05-20 19:35:57)

参考
[1]あくまで一般入試は自由に入学辞退ができるべきだということ。推薦入試合格者の入学辞退が許されないのは社会通念上当たり前。ただ、嫌がる人を強制入学させられないから、推薦合格に強制入学の法的効果はない。入学辞退した場合は社会通念に反することをした以上責められても仕方ないし、謝罪も必要だろう。
[2]この資料によれば、埼玉県は公立高校を入学辞退すると辞退者を出した学校が冷遇されるという風習があったらしいが、辞退者を出したからといって制裁的対応をするのは言語道断である。それが教育者のすることか。このような対応は絶対してはならない。


最終学歴とは?

2011-01-19 15:39:25 | Weblog

最終学歴とは字義的な意味では最後の教育歴のことである。しかし、就職活動、人事などで尋ねる最終学歴とはその人の最も高い教育歴のことで、必ずしも時間的に最後の教育歴ではない。通常は最後の教育歴が最も高い教育歴になるので、「最終学歴は?」と聞かれるにすぎない。

通常は上の通りなので正確な意味はほとんど問題にならないが、たまに最も高い教育歴を得た後に下の教育歴を得る場合があり、その時に「最終学歴はどれ?」と問題になる。例えばA大学修士課程卒業の人が後にB大学の学部を卒業したケースだ。

上の基準ではB大学学部卒が時間的に最後でも、最終学歴はA大学修士課程卒業となる。思えば、修士卒業の人を学部卒というのはおかしい。最終という字義にとらわれず、尋ねる側の趣旨に沿った回答をすべきである。

(作成日:2011-05-19 23:39:25)


清楚の反対語

2011-01-09 00:00:00 | Weblog
友人の女性と話したときに、「清楚って、私と正反対の格好だよね。」と言われ驚き、困惑しまった。彼女が清楚の正反対とは全然違う印象だからだ。清楚とは飾り気がなく、さっぱりしていて清らかなさまをいう。その反対というと・・・、特に女性について清らかなさまの反対って・・・。

清楚の意味の反対を考えると、

飾り気がない ⇔ 飾っている
さっぱりしている ⇔ 飾り立てがしつこい、けばけばしい
清らか ⇔ 汚れている ※

※の意味は直接的に「清らか」の反対を考えるのは不適切で、解釈が必要だろう。女性について清らかという言葉を用いる場合、純真な様を指すことが多い。つまり、いろいろな経験、特に色事関係の経験があまりない感じの様を指すことが多い。露骨にいえば、情交を交わしたことがなさそうな感じということだ。

女性について清らかなさまの反対というと、色事関係の経験が多く、露骨にいえば、情交を何度も交わしたことがあるような感じをいう。そう考えると、

清らか ⇔ 色っぽい、性的な魅力がある、セクシィ

となる。つまり、清楚の反対とはしつこいほど飾っていて、色っぽいさまをいう。これに一番近い言葉は濃艶(のうえん)であろう。

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濃艶(のうえん)

あでやかで美しいこと。非常につやっぽく美しいこと。また、そのさま。

(デジタル大辞泉より)
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濃艶には「しつこいほど飾っている」という否定的な意味はなく、肯定的な意味である。つまり濃艶とはなまめかしく、性的な魅力で男を誘惑するような感じの女性をいう。具体的には吉原の遊女のような装飾を指す[1]。

だから、友人に「私は清楚とは正反対」と言われたとき、驚いて困惑したのだ。彼女は人柄や性格を考えても濃艶ではなく、そういう装飾は普段していないし、たぶん似合わない。

女性の清楚な格好の具体例は20歳頃の南野陽子のような装飾だろう[2]。黒髪で、飾り気のないさっぱりとした服装や化粧で、清らかな印象がある。20歳頃の南野陽子は清純派アイドルとして売っていたらしい。1987年頃のアイドルなんて年齢的に知らないのだが、最近将棋関係の知人の影響で若い頃の南野陽子の話題が出て調べたので、参考としてあげた。現代で南野陽子みたいな清純派アイドルって誰なんだろう?

女性の濃艶な格好の具体例は上にも書いたとおり、吉原の娼婦みたいな装飾だ[1]。あやしく美しい感じですね。繁華街を歩いてると、あんまりこういう感じの女性はみないけど。そういえば、濃艶な芸能人って誰なんだろう?叶姉妹とか?別に叶姉妹を遊女みたいな格好といってるわけじゃないですけどね。けど、彼女たちはなまめかしい格好でしょ[3]。

あなたは清楚な装飾と濃艶な装飾、どちらがお好みですか?

参考
[1]吉原の遊女のような格好
[2]若い頃の南野陽子
[3]叶姉妹

20歳頃の南野陽子の格好を何と表現するか?

2011-01-08 00:00:00 | Weblog
NHKで元日に放送された新春の将棋番組「大逆転将棋2011」に南野陽子が出演し、年配の将棋ファンの人から「若いときの南野陽子の格好をどう表現するか?」と聞かれ、困ってしまった。南野陽子の若いときなんて、私の知ってる時代と全然違うのでわからないからだ。約23年前のアイドルなんて知りませんよ。こういうアイドルって現在でいえば誰なのだろう?

ネットで調べてみると、参考[1]のような容貌や装飾だった。こういう装飾をなんというのだろうか?ギャルのようなけばけばしくて派手な装飾ではなく、地味でださいわけでもない[2]。

私の主観だが、若いときの南野陽子の格好を見ていると、飾り気がなく清純な印象を受ける。そういう装飾で私が思い浮かぶ一番適切だと思う表現は「清楚」だ。清楚とは飾り気がなく、さっぱりしていて清らかな様をいう。

若いときの南野陽子の格好は髪は黒髪で、化粧もけばけばしくなく、服装も派手ではなく、どちらかというとオーソドックスな感じで、少しお嬢様っぽいというか品のある格好で、清らかな印象がある。そういう様子に一番合う言葉というと、やはり清楚であろう。

もっとも、南野陽子が外見と同じく、内面まで清楚かはわからない。飾り気がなく、さっぱりとした服装の女性でも、性格は男勝りで、強く、趣味や交友関係も派手な女性はたくさんいるだろう。

参考
[1]若いときの南野陽子
[2]ギャルの格好

学術研究とスポーツが強い大学

2011-01-06 00:00:00 | Weblog
思えば、学術研究とスポーツ両方で強い大学は私立大学ばかりだ。例えば、学術研究では優れた実績のある東京大学はスポーツの点でさほど大きな実績はない。それは東京六大学野球で東大が非常に弱いこと等をみれば簡単にわかるだろう。

早稲田大学や慶応義塾大学など学術研究、スポーツ両面で強い大学の原動力となるのは、多様な入学者選抜だろう。これらの大学はスポーツで優秀な成績を収めた人物などを推薦入学させている。例えば甲子園で活躍した選手が早大や慶大に入学して、東京六大学で活躍している。他にも芸能人の入学もある。例えば、最近のベストセラー「KAGEROU」の作者・水嶋ヒロは慶大出身だ。

こういう入学選抜は私立大学特有のものであり、国公立大ではできない。学術でもスポーツでも優れるといのは文武両道でよい。学業に優れた人、スポーツで優れた人、芸能人など多様な人的交流ができるのは私立大学のよさかもしれない。

最近のプロバイダはフリーメールをブロックするのか?

2011-01-05 00:00:00 | Weblog
最近あるプロバイダのメールアドレスにgooメールを送っても、メールが届かないことがわかった。最近のプロバイダはデフォルトでフリーメールをブロックするようになっているのだろうか?私のプロバイダはそうではないが、他のところはそうなのだろう。

確かにフリーメールは迷惑メールの類も多いので、その対策なのだろう。しかし、重要な連絡をするときは危険だ。メールを送っても何の応答もないので、連絡は伝わっていると誤解してしまう。

プロバイダは迷惑メールをブロックするのは構わないが、ブロックしたことを送信者にきちんと伝えるシステムにしないとまずいだろう。

自転車の運転について

2011-01-04 00:00:00 | 社会
歩道を歩くと、結構危ない運転をしている自転車を目にする。自転車道と歩道を分けるところもあるらしいが、なかなか進んでいないだろう。昔、自転車は車道を走るルールだったらしいが、それでは事故が多いので、仕方なく歩道通行にしたらしい。

しかし、自転車なんてほんと危ない走行が多いですよ。子供連れの3人乗りママさんとかね。ああいう乗り方するなといいたくなってしまう。数年前にそれを対象とした法規改正があったような気がした。

思えば、子供のローラーシューズとかやめてほしいことがいくつかあるんだよね。

大学卒業者同士の結束

2011-01-02 00:00:00 | Weblog
最近慶應義塾卒業者同士の結束が固いと聞いて、そういう結束がある大学はよいとおもった。思えば、私立大学の定員は国立大学より大幅に多いから、卒業生のネットワークは国立大学より広いだろう。確か国立大学で一番学部生が多いのは阪大で、約1万6千人。早大約4万5千人、慶大約2万9千人、日大約7万人。卒業生のネットワークは私大の方が広そうだ。

思えば、私立大学は設備もいいし、国立大学とは大違いだ。