夕陽に照らされて、鶏頭が燃えていた。
鶏冠自体の白と、縁取の鮮やかな赤紫とが映えて、燃えるトーチをかざした様に見える鶏頭だ。近くで見たら、花の下に無数の苞が残っていた。これは随分長い間、次つぎに鶏冠を咲かせ続けた証であろう。これまで全く注目もしなかったが、種類によっては大きな鶏頭も、小さな鶏冠花が寄り集まったものだと始めて知った。
海の小魚も、密集して大群を作り、一糸乱れぬ挙動をすると奇怪な大魚に見えるので、大群をなして身を守る習性があるという。小魚と言えども脳をもつ動物ゆえ、その様な思考が出来るのか、或いは単なる性癖なのかは知らないが、よもや鶏頭も同じ道理とはとても思えない。植物の性状をどの様に解釈しても、それはあくまで人間様の勝手な想像にすぎまいが、小花を結集して大きな鶏頭に見せるのは、一体どの様な事情があるのであろうか。
屁理屈は抜きにして、燃える鶏頭にもおとらず、滾る思いを失いたくないものだ。
めらめらと燃えたつ紅蓮の想ひかも
たれに焦がるや花鶏頭は
かくまでも燃ゆる炎の想ひをば
受けましよしや灰になるとも
如何ばかり想ひ煩ひ苦しみて
過ぎ来るかも燃ゆるこころを
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