小径の脇に、野紺菊がどこか淋しげに咲いていた。
野紺菊は元来、山野に自生する野菊だが、涼やかな花を愛でて、最近は品種改良されて栽培種も在るようだ。この一叢の花がその何れかは不明だが、秋の夕暮れを惜しむかの様にも見えた。
花は不思議なもので、観る人の心の在りようで、花の印象は様々に変化する。
野紺菊が何処となく淋しげに見えたのは、虚庵居士の心理状態を反映したのかも知れない。
年末が近づくと、年始の欠礼挨拶の葉書が送られて来る。それぞれの家族の肉親がお亡くなりになった喪中のご挨拶だが、最近は九十歳・百歳を超える方々が増えて、一段と長寿化の傾向が見られるようだ。そのように人生を全うされた方は、拝見しても心安らかにご冥福を念じられるが、中には未だ還暦前の方や、連れ添いに先立たれた方もいて、心が波立つ思いであった。
旅立った方々の在りし日を偲びつつ、ゆったりと散歩した秋の夕暮れであった。
たそがれの小径を行けば野紺菊の
一叢咲きて待ちにけらしも
どことなく淋しげなるは何故ならむ
咲く花のゆえ? 観るわが心ゆえ?
年末の喪中の挨拶にそれぞれの
在りし日偲び冥福念じぬ
しかれども余生を残し旅立つは
思ひを偲び心乱れぬ
連れ添いに先立たれしと告げくれば
葉書はふるえ文字もかすみぬ
たそがれの寂しげに咲く野紺菊は
察して汲むや波立つこころを
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