「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「原子力平和利用」

2008-01-13 04:14:13 | 和歌

 大学を卒業して以来、40余年に亘り原子力発電の仕事一筋に携わって来た虚庵居士としては、是非とも皆さんにお伝えしておきたことがある。

 現役の頃は、健全な原子力発電所の設計・建設と安定運転に向けて精一杯努力し、実績を積み重ねることだけが、皆さんにご理解頂くための唯一の道だと心得て、ひたすら口を噤んで日夜精励した。

 現役を退いた後は、「原子力の専門家として、社会への説明責任を果たしたか?」との反省に立って、事ある毎に機会を捉えて、拙いお話をすることが社会へのご恩返しかと、及ばずながら努力して来た。月に1回ほどのペースで講演を重ね、全国のエネルギー工学を勉強する学生との対話会を繰り返し、それでも、年間を通じての皆さんとの接点は高々2000人程度だ。この先10年続けたとしても、2万人との接点が精一杯であろうかと、聊か悲観的な思いに囚われるこの頃だ。

 この様な凡人の悲嘆の埒外で、ごく短い人生を爽やかに生きて己の務めを果たし、「人を己の如く愛する」という神の教えを全うし、数多の感動を人々に残した一人の男がいた。
今は亡き、長崎医大の永井隆博士である。

 ヒロシマに続き、ナガサキも昭和20年8月9日原子爆弾の被災を受けた。
悲しいことに、我が国は世界で唯一の原爆被災国だ。あのような惨劇を、二度と人類は繰り返してはならないとの強い願いと、固い決意を込めて、我が国の原子力政策は原子力平和利用に徹し、非核三原則を定めたのは当然の選択だ。

 世に言う原子力平和利用の原点は、国連総会におけるアイゼンハワー大統領の名演説 ”Atoms for Peace ”(1953-12-8)にあると、広く認められている。然しながら虚庵居士に言わせれば、この演説に先立ち、昭和20年10月永井隆博士が自筆で纏めた「原子爆弾救護報告書」の、ごく短い簡潔な「あとがき」こそが、原子力平和利用の原点だ。

 彼は、自らの物理的療法研究により白血病に侵され、これに加えて原子爆弾の被災により大怪我を負いながら、命を投げうって原爆被災者の救護活動に当たり、幾度かの失神を繰り返しながら献身的に医療奉仕に当たったという。その2か月に亘る日々の悲惨な記録を鉛筆書きで書きとどめ、末尾に彼は一人の人間として、また科学者としての率直な思いを書き遺している。






 焼け野原になった自宅の跡に佇み、彼は夫人が身につけていたロザリオを焼け跡に見つけた。原子爆弾の高熱により、焼け爛れ、溶けた塊になっていた。その近く、まだぬくもりのある夫人の遺骨を手で拾い集めて・・・。 涙なしには、語れない情景だ。

 彼の原作を基に作られた映画、あるいは歌謡「長崎の鐘」は、戦後の荒れすさんだ人々の心をなぐさめ励まし、感動と救いを与えた。バチカンの枢機卿やヘレン・ケラー女史が、二畳一間の彼の自宅に態々見舞いに訪れ、時の吉田茂総理から顕彰を受けるなど、病床の彼は世界から惜しまれつつ、静かに目を閉じた。

 長崎の市民が、資材を持ち寄って建た二畳一間の自宅で、二人の子供に看取られて逝った。
今も当時のままの「如己堂」が、永井隆記念館の庭先にひっそりと佇んでいる。



物理的療法科助教授第十一救護隊長 永井隆が、全文鉛筆書きで纏めた
「原子爆弾救護報告」は、ここをクリックすれば全文が表示されます。


藤山一郎「長崎の鐘」は、ここをクリック。
画面右側の(詳細)をクリックすれば歌詞が表示されます。

注: 写真の「あとがき」の中に、今や死語になった「烏有ニ帰シタ」との言葉がある。
大辞林によれば烏有(うゆう)とは「烏(いずくんぞ)有らんや」、
「烏有ニ帰シタ」は、すべてなくなった、との嘆きの言葉だ。