物理学会でのシンポジウム「『ニセ科学』とどう向き合っていくか?」の最初の演者、田崎晴明氏の講演pdfを読む。たぶんkeynoteで作られたプレゼンファイルをpdf化したもの。
リンク:
Symposium at JPS meeting Sprin 06田崎晴明pdf.
その中で、衝撃的だったのは、「キーワードから探るこれからの理科教育」(日本理科教育学会)からの引用。極端な相対主義が理科教育の現場に入り込みつつあるひとつの例としてあげられているのだが、それにしても目を疑った。
引用です。
「物質が客観的事実として原子や分子という実在から成り立っている」ということを直接的に述べているのではなくて、「原子や分子という理論的構成物の存在を仮定して物質という世界の成り立ちを考えてみる」という一つの世界理解の仕方であるということを示している。……ここで重要な観点は理科でも取り扱われるさまざまな科学概念、科学理論や法則、体系というものは、そういう意味で、あくまで人間の構成物であり、それら自体が自然界に実在するということを前提としないという点にある。(p. 2-3 第0章理科教育を考える基本、1.現代の科学観)
たとえば、冷水の入ったガラスビンの周りに結露する水滴の由来についても多様な考えが存在していることが知られている。あの水滴はビンの中からしみ出してきたといったものである。このような考えはビンの外側の水面の高さまでしか水滴が現れないことや、ビンを傾けると新たに水滴が現れることなどの観察事実を根拠にしている。もし、事実を根拠に論理的に推論することのみを科学的であるとするならこのような考えも理論的なものであるとしなければならない。我々の考え、すなわち結露したものとしてみる水滴は、「水蒸気」という科学概念や結露という科学理論に依存したものである。五感のどれを使っても知覚不可能な水蒸気は、物質として認識されたものではなく蒸発や結露といった現象の解釈から受け入れられた観念と見るべきであり……(p. 94-95、第2章新しい理科の学習内容の構成、15.科学概念)
あまりにびっくりだったので、この本を取り寄せた。
1998年の初刷りで、その後版を重ねていることを知りさらにびっくり。当該箇所やその周辺を読んでみたが、田崎氏の引用は、論旨に忠実であり、まさにその通りの議論が展開している。
なにがびっくりかって、一応コメントしておくと……
あまりに議論がナイーヴなのだ。
たとえば前者の引用の章は、『「現代の科学観」とは、「科学に関する科学」、具体的には科学史、科学哲学、科学社会学、科学心理学、科学人類学といった研究領域の成果によって描かれるようになった「科学というものの新しい姿」のことを指すと考えてよい』という一文で始まる。
あたかも、科学史家や科学哲学者が、こぞって科学についての相対主義、構成主義に傾いているというような書き方だが、そんなことってかつてあったのだろうか。
そもそも、この問題は、実在論か非実在論かといったかたちで、科学が始まる前からずっと議論されていることであって、きょうにいたるまで誰もが納得するような合意には到っていないわけで、なぜここで「現代の科学観」とは、このようなものであると、言い切らなければならないのか意味不明だ。「現代の科学観のひとつの考え方」として、紹介するならともかく。
かと思うと、文中には、『科学に対する見方である「科学観」は見る人によって異なり、それゆえ、「現代の科学観」もそのような「科学観」の一つであることを忘れてはならない」としてあって、頭がいたくなる。じゃあ、特にわざわざこの考え方を代表的な考えであるかような書き方をしなくたっていいじゃないか。
ある特定の方面の科学史・科学哲学の「成果」を変に活用して、珍妙な議論になっている、と感じられてならない。
さらに後者だけれど、この章は観察の理論負荷性や、推論の「知識誘導性」について述べている。
理論負荷性の議論は、クーンがまだ尖っていた頃の、のちには自身でトーンを弱めた考えを古いまま使っているようだ。
理論負荷性やら、知識による推論の誘導というのは、たしかにある局面では「存在する」とぼくは思う。
にもかかわらず、この実例は例としてもあまりに素朴。ここに示されている例では、簡単に矛盾が生じて、現在信じられている説の対抗馬にはなりえない。ひょっとすると、後付の仮説を追加して乗り切ることだってできるというのかもしれないが、どうせ選ぶならもっといい例を選んだほうがよいんじゃないか。
それに、水蒸気の存在を「構成」だとするのは、哲学的立場としてはあり得るけれど、その立場に立つと、どれほど多くのことを「構成」であると断言しなきゃならないか。あんまり自覚があるように思えない。
同じ章の結び近くで「五感のどれを使っても知覚不可能な水蒸気は、物質と認識されているのではなく蒸発や結露といった現象の解釈から受け入れられた観念であると見るべきであり、これらの現象を科学的に見たり考えたりするための道具として機能している」というくだりがある。
ところが、物質には五感で知覚できないものがたくさんある(だいたい気相にあるすべての物質はそうだろう。例えば大気なら「風」としては認識できるが、大気中の酸素や窒素は物質として認識できるだろうか)。また、手で触れたり、目で見えたからといって、それが実在するという考えは、水蒸気を「構成」とするような非実在論の立場からは(つまり著者の立場から)維持できないのではないか。
あまり深く考えずに、構成主義的な科学論の知見を無批判に使っているように感じられる。
8年前の本だ。
いったいその頃、何が起こっていたんだろう。まったくもって不思議だ。
バランスが悪いし、目配りも悪い。
その後、この流れはどう展開していったのだろうか。気になる。