川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

親子フットサル、挫折中。でも、引き続き募集中

2006-04-18 13:34:12 | サッカーとか、スポーツ一般
以前企画した親子フットサル@ご近所(詳細はこちら.)は、いきなり挫折中。

やはり1時間1万円というコート代を家族の数割りで、というと、5組集まったとしても2千円。そんなに安くないわけで、それをわずか1時間のフットサルに費やすのはどうか、ということになるのかなあ。なかなかメンバー、集まらず。苦戦中であります。

まあ、気長にやります。というわげで、興味ある方募集中ですよ。この際、「初心者や子どもが混じって、レベルが低くても参加したい」大人も解禁かも。

将来的には、学校の体育館を使える方策を練ります。

追記、調布で親子フットサルをしている人たちを発見したので、とりあえず合流してみるつもりです。その上で、体育館計画を進行させます。

理科教育と非実在論・相対主義についての「続き」

2006-04-18 07:40:55 | トンデモな人やコト
先日、こういうエントリを書いて、

理科教育に入り込んだ(?)、「現代の科学観」という名のトンデモ.

こういう反応をもらった。

リンク: 酔狂人の異説 - トンデモという決め付け.

それで考えたことをコメント。

件の本「キーワードで探るこれからの理科教育」で感じたのは、議論の素朴さなのだけれど、それを簡単にいうとこんなふう。

まず、「実在と非実在」をめぐる世の議論として、こういうふうな流れがあったとします。

(1)仮説を立てて実験したりしているうちに、分子や原子や電子というものがあれば、いろいろなことが説明できることが分かりました。それで、分子や原子や電子といったものも、実在だと思うようになりました(素朴実在論)。
     ↓
(2)でも、まてよ、本当に実在するのだろうか。目に見えないんだし、原子や電子なんて、理論上の「構成物」なんじゃないだろうか(素朴非実在論)
     ↓
(3)とはいっても、それをいったら目に見えるものだって実在しているのか分からないわけで、まずいんじゃないの。我々の日常生活だって危うくなるし、なにもかもが「構成」なら科学がこうも「成功」していることも説明しにくい。やっぱり、実在と言っていいんじゃないのかな(→実在論の深い森へ)
     ↓
(4)とはいっても、やっぱり実在論は維持できないよ。もろもろ深く考察した上でも、やはり「構成である」と言えるんじゃないか。また、科学が「成功」しているように見えることを、非実在論的に説明してみよう。(→非実在論の深い森へ)

で、(1)のところにいた人が、たまたま(2)に触れて(あるいは(4)にふれて、表面的な理解をして)、下の(2)'に飛びかけている、というような印象。

(2)' しょせん科学なんて人間の構成物なんです。相対的なもんなので、ほかの諸文化領域とかわりありません(素朴で極端な非実在論)。

理科教育の基礎論なら、上のように(1)から(4)の議論を紹介するのは有益かもしれない。科学相対主義と同様に科学至上主義もまた困ったことであるがゆえ。
けれど、この本では、そうはなっていならず、ある一部だけをとりあげており、著しくミスリーディングであるということです。

サラダに泣いた日……

2006-04-17 13:25:08 | 日々のわざ
昼飯に昨晩の残りのサラダ(サニーレタス98パーセント、ピーマン2パーセント)を平らげようとしたら、ふとカビがはえているのに気付いた。

細長く、めずらしい形状のカビの生え方だった。
乾燥して小さくなったなにかの幼虫だった。
おまけにそれが見つけただけで3匹。

まいった。
捨てた。

それでもピーマン食べた。

いったいいつのサニーレタスなんだ。

でもまあ、昨晩食べて、今も何もないということはたぶん平気なのだろう。
あと半日くらい経過観察か。

なんか泣きたくなったので、散歩することにした。

ゲーム脳の話題から逃れられないのか

2006-04-16 15:03:29 | トンデモな人やコト
子どものスイミングスクールに行って、待ち時間に子どもたちの会話が耳に飛び込んでくる。

DSをいじりながら、
「やばっ、ゲーム脳になっちった」
「よし、ゲーム脳覚悟でやるぜぃ」
なんとかかんとか。

言っている子は小学校の高学年。
まいったね。
思わず、聞いてしまう。
ゲーム脳って何か知ってるの?

最近の子どもは、知らない人が話しかけてきたら自動的に用心するように教育されているので、コミュニケーションがなかなか大変。
でも、なんとか語り合い、「ゲームが終わっても音楽が頭の中でなりやまないのがゲーム脳」ということを聞き出す。
なるほど、それはリアリティがある。

たしかに、ゲームを長時間した後で音楽が耳についてなりやまなくなる現象ってぼくは経験したことある。
あれを毎日やってると、体に、心に、悪いんじゃないかと言われると、なんかそんな気もしてくる。
この子たちは、聞きかじったゲーム脳という言葉を、そうやって実体験に引き寄せて理解しているわけだ。

近くにその子たちのお母さんらがいたので、少し話す。
わざわざ三鷹から来ている人で、世田谷区ではないのに驚く。
お母さんの認識としては、学校に行って、誰からか分からないけれど、ゲーム脳について聞いてきたらしい、ということ。
たぶん先生ではなく、仲間内なのかもしれないけれど。

それにしても、ゲーム脳、再流行中なんだろうなあ。
じゃないと、町で急に耳にしたりしないだろっ、と。

黒と茶の幻想

2006-04-16 05:35:59 | 自分の書いたもの
この前の金曜日あたりに書店に並んだらしい「黒と茶の幻想」(恩田陸、講談社文庫)に、解説の文章を書いています。
上下巻の長いお話です。
この作品はある意味、とても解説しにくいもので(なんとでも書けてしまいそう)、そういう中、じぶんなりの「読み」を提供できたか、と。

そうそう、恩田ファンにナゾナゾ。
この作品中で、四人の主人公がY島滞在中、リアルタイムの描写で(追憶シーンではなく)、四人以外の「人」と言葉を交わしたシーンはどれだけ描かれているでしょうか。あくまで「人」ですよ。


だんだんドキドキしてきた

2006-04-15 06:21:04 | ひとが書いたもの
リンク: スタジオジブリ - STUDIO GHIBLI - 映画「ゲド戦記」予告編.

これみたら、すごく楽しみになってきた。
細かいことなんてどうでもいいですよ。ジブリが料理したゲドなんて、やはり、誰がなんと言おうと……観たいです。

というよりも、ゲド戦記の映像化が、指輪やナルニアみたいなハリウッドものではなく、ジャパニメーションで実現するということに驚きと、歓びを見いだしているようです。わたくし。


夜明け前、警官と

2006-04-15 05:52:09 | 日々のわざ
夜明け前、自転車ですいた道路を走る。
警官に呼び止められる。
これは時々あること。以前、朝、走っていた時にもしばしばあった。
「なにおさがしですかー」と聞かれる。
事情を話すと、「そうですかー、普通には見えないですよー」
そりゃあそうだろう。この時間、新聞配達の人もまだいない。
自転車の登録番号の確認をされて、無罪放免。
それにしても、大変な仕事だな。
それにしても、ほうっておいてほしいもんだ。


理科教育に入り込んだ(?)、「現代の科学観」という名のトンデモ

2006-04-14 21:03:08 | トンデモな人やコト
物理学会でのシンポジウム「『ニセ科学』とどう向き合っていくか?」の最初の演者、田崎晴明氏の講演pdfを読む。たぶんkeynoteで作られたプレゼンファイルをpdf化したもの。

リンク:
Symposium at JPS meeting Sprin 06田崎晴明pdf
.

その中で、衝撃的だったのは、「キーワードから探るこれからの理科教育」(日本理科教育学会)からの引用。極端な相対主義が理科教育の現場に入り込みつつあるひとつの例としてあげられているのだが、それにしても目を疑った。
引用です。

「物質が客観的事実として原子や分子という実在から成り立っている」ということを直接的に述べているのではなくて、「原子や分子という理論的構成物の存在を仮定して物質という世界の成り立ちを考えてみる」という一つの世界理解の仕方であるということを示している。……ここで重要な観点は理科でも取り扱われるさまざまな科学概念、科学理論や法則、体系というものは、そういう意味で、あくまで人間の構成物であり、それら自体が自然界に実在するということを前提としないという点にある。(p. 2-3 第0章理科教育を考える基本、1.現代の科学観)

たとえば、冷水の入ったガラスビンの周りに結露する水滴の由来についても多様な考えが存在していることが知られている。あの水滴はビンの中からしみ出してきたといったものである。このような考えはビンの外側の水面の高さまでしか水滴が現れないことや、ビンを傾けると新たに水滴が現れることなどの観察事実を根拠にしている。もし、事実を根拠に論理的に推論することのみを科学的であるとするならこのような考えも理論的なものであるとしなければならない。我々の考え、すなわち結露したものとしてみる水滴は、「水蒸気」という科学概念や結露という科学理論に依存したものである。五感のどれを使っても知覚不可能な水蒸気は、物質として認識されたものではなく蒸発や結露といった現象の解釈から受け入れられた観念と見るべきであり……(p. 94-95、第2章新しい理科の学習内容の構成、15.科学概念)

あまりにびっくりだったので、この本を取り寄せた。
1998年の初刷りで、その後版を重ねていることを知りさらにびっくり。当該箇所やその周辺を読んでみたが、田崎氏の引用は、論旨に忠実であり、まさにその通りの議論が展開している。

なにがびっくりかって、一応コメントしておくと……

あまりに議論がナイーヴなのだ。

たとえば前者の引用の章は、『「現代の科学観」とは、「科学に関する科学」、具体的には科学史、科学哲学、科学社会学、科学心理学、科学人類学といった研究領域の成果によって描かれるようになった「科学というものの新しい姿」のことを指すと考えてよい』という一文で始まる。
あたかも、科学史家や科学哲学者が、こぞって科学についての相対主義、構成主義に傾いているというような書き方だが、そんなことってかつてあったのだろうか。
そもそも、この問題は、実在論か非実在論かといったかたちで、科学が始まる前からずっと議論されていることであって、きょうにいたるまで誰もが納得するような合意には到っていないわけで、なぜここで「現代の科学観」とは、このようなものであると、言い切らなければならないのか意味不明だ。「現代の科学観のひとつの考え方」として、紹介するならともかく。
かと思うと、文中には、『科学に対する見方である「科学観」は見る人によって異なり、それゆえ、「現代の科学観」もそのような「科学観」の一つであることを忘れてはならない」としてあって、頭がいたくなる。じゃあ、特にわざわざこの考え方を代表的な考えであるかような書き方をしなくたっていいじゃないか。
ある特定の方面の科学史・科学哲学の「成果」を変に活用して、珍妙な議論になっている、と感じられてならない。


さらに後者だけれど、この章は観察の理論負荷性や、推論の「知識誘導性」について述べている。
理論負荷性の議論は、クーンがまだ尖っていた頃の、のちには自身でトーンを弱めた考えを古いまま使っているようだ。
理論負荷性やら、知識による推論の誘導というのは、たしかにある局面では「存在する」とぼくは思う。
にもかかわらず、この実例は例としてもあまりに素朴。ここに示されている例では、簡単に矛盾が生じて、現在信じられている説の対抗馬にはなりえない。ひょっとすると、後付の仮説を追加して乗り切ることだってできるというのかもしれないが、どうせ選ぶならもっといい例を選んだほうがよいんじゃないか。
それに、水蒸気の存在を「構成」だとするのは、哲学的立場としてはあり得るけれど、その立場に立つと、どれほど多くのことを「構成」であると断言しなきゃならないか。あんまり自覚があるように思えない。
同じ章の結び近くで「五感のどれを使っても知覚不可能な水蒸気は、物質と認識されているのではなく蒸発や結露といった現象の解釈から受け入れられた観念であると見るべきであり、これらの現象を科学的に見たり考えたりするための道具として機能している」というくだりがある。
ところが、物質には五感で知覚できないものがたくさんある(だいたい気相にあるすべての物質はそうだろう。例えば大気なら「風」としては認識できるが、大気中の酸素や窒素は物質として認識できるだろうか)。また、手で触れたり、目で見えたからといって、それが実在するという考えは、水蒸気を「構成」とするような非実在論の立場からは(つまり著者の立場から)維持できないのではないか。
あまり深く考えずに、構成主義的な科学論の知見を無批判に使っているように感じられる。

8年前の本だ。
いったいその頃、何が起こっていたんだろう。まったくもって不思議だ。
バランスが悪いし、目配りも悪い。

その後、この流れはどう展開していったのだろうか。気になる。



三年の保護者会。PTAの委員会、今年は「成人教育委員会」をやります、です

2006-04-14 06:55:21 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
 最初の保護者会は盛大(?)で、校長からの指針演説(?)が体育館であり、それから図書室で学年の前担任と「専科」(音楽と図工)からの挨拶と「おねがい」があり、やっと教室にたどり着く。
 二年前の着任時には、ピンク色の勝負服だった校長(女性)は、きょうは地味なスーツ。副校長も替わったということで、なんだかいろいろ話をする。ほとんど覚えていないが、「偏見を持って人と接するのはよくないよねぇ」というような内容のことを、保護者に向かって訴えかける。ごもっとも。
 
 図書室での学年の集まりでは、二人とも担任が替わったので、まあ挨拶のつどい、といったかんじ。図工の先生がやたら少女ぽくて、おもしろい。ちなみに、うちの担任はほとんど同世代か。
 小学校三年生はギャングエイジ、みたいな話をしてくれる。いいなギャングエイジ。楽しみだ。

 教室に戻ると、保護者同士の自己紹介。先生は、一列まるごと忘れて、それではみなさん「今年一年よろしくー」などと言い始めて爆笑。そういう意味で抜けたパーソナリティらしい。本人も言っていた。ちょっとくらい抜けている方がこっちも安心、なとことろあるので、よろしいかんじがする。根に持たない性格なので、なにかありましたら、いろいろ言ってくださいとのこと。はい、言わせて頂きます。世代が近いが故に、前の先生よりも「感覚」的なことが近いとありがたいのだが。
 
 PTAの委員会・係の選出。
 次々と挙手で、あっというまに決まる。これはこのクラスのいいところ。とはいっても、持ち上がりだった一二年のクラスは解体してシャップルしてあるので、「このクラス」と前のクラスは違うのだけれど、それでも、すんなり決まる。コアになる人たちが「楽しそう」にやっているから、なのかな、と思う。
ただ、役員選出委員会のみ、最後まで決まらず。役選は、昨年すごく苦労したみたいなので、イメージが悪いらしい。ぼくは関わっていなかったから、なんとも、だったのだけれど、互選会で何度も何度も集まって……というようなことを強いられ、泣きそうになってる人がいたっけ。結局、去年の学年委員さんが「じゃ、あたしがやります」とということになって、お開き。
 
あ、ぼくは成人教育委員会というのをやることになました。
ところで、これ、なにやるんだろ。
考えてみたら、すごく強烈な言葉ではある。たぶん、実情に即していない言葉であるような気もしていて……まあ、おいおい、ということで……。

殴り合う男と女

2006-04-12 13:51:42 | 日々のわざ
スーパーの前で、若い男女が殴り合っている。
色恋沙汰?
男が逃げる。女が追う。
「強盗とかじゃないよね? 強盗なら追うけど」と言うが、「違います!」ときつくいわれる。

十分後……。
いきつけの内科医にもらった処方箋でアレルギーの薬をもらったりして家に帰ろうとすると、さっきのカップルが歩いている。

今度は女が男に追いすがるようであり、また、男は女の本気で蹴り、地面に蹴り倒す。

おいおい、さすがにそれはちょっと。

声をかける。

女は、「いいんです、納得してされたことだから」と言う。

それはいかんとぼくは言う。

ぼくらは暴力はいかんという社会に生きているわけで、きみが彼に頼んだとしても、彼がきみを殺せば殺人罪で、きみを傷つければ傷害罪だ。
きみだけがなっとくしていていも、まわりには迷惑だと諭す。

男はなにもわかっていないのにああだこうだいわないでほしいという。
おれだって、こいつと付き合う前には、人に暴力なんてふるったことはなかった。

なるほど、DV体質の女性っている。
相手が潜在的に持っている暴力性(だれにだってある)を引き出すやり方でしか、相手に接することができない子。そのパターンか。

こういう時、言葉は無力だ。
この二人がこんがらがって、ひとつのぐちゃーっとした「個」に見え始める。

二人でカウンセリングに行ってみたら、なんてあほなことしか言えない。
いや、そこまでひどくない、と男は言うが、昼間の駅前通をほぼ1キロにわたって、殴り合いながら歩いているカップルというのは、かなり「ひどい」絡まり方をしているんじゃないかと指摘する。

女が泣く。

なんか、ただのお節介だったのか。ぼくは。

野性時代4月号に「流星通信」

2006-04-12 05:36:17 | 自分の書いたもの
12日水曜日発売だそうです。きょうですね、つまり。
「流星通信」という短編が出てます。「てのひらの中の宇宙」の最終話。
単行本化は夏頃。
ことしの新刊は「銀河のワールドカップ」と「てのひらの……」だけかな。きっと。
ほんとうは11月くらいにもうひとつ出したいのがあるんですけどね。出版社の担当者が決まらないという、不思議な事態になっております。


「脳内汚染」が大宅賞の候補になっていた

2006-04-11 16:06:18 | トンデモな人やコト
リンク: 文藝春秋|各賞紹介|大宅賞.

本日、選考会だそうです。
選考委員は、猪瀬直樹・関川夏央・立花隆・西木正明・藤原作弥・柳田邦男の各氏。
ちなみに柳田氏は、「脳内汚染」を読んで、「学校からパソコンを追放せよ」と主張しており、強力プッシュするのだろうなあ、とげんなり。