川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

PTAがなくなると、先生と話し合えなくなるという誤解。

2009-01-08 20:46:28 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
R0011142西東京市についての情報からあらためて、思ったこと。そして、強調しておきたいこと。
それは……「PTAがなくなると、先生と話し合えなくなる」というのは、誤解である、ということだ。
ぼくが「自由な入退会ができるとこときちんと説明すべき」と述べると、しばしば「そんなことをしたら、PTAなくなってしまう」という恐怖を述べる人がいる。

実際にはそう簡単にはなくならないと、ぼくは確信していて、実際、ほぼ全校で「自由な入退会」を知らせている杉並区では非常にPTA活動がさかんだという事実もあるのだけれど、ここで書いておきたいのは、「PTAがなくなる」ことについての恐怖がどんな性質のものなのか、ということ。

対話をつづけると、その際、発言者の頭の中にあるのは、保護者を代表する組織としてのPTAだと分る。唯一の例外として、和田中のPTAからTが抜けた際に異論と唱えた杉並区の論客たち(意識の非常に高い元PTA会長や区議さん)なのだけれど、それはまた別の機会に。

つまり、保護者を束ねたPTAがなくなる、
担任と対話できなくなる。学校と保護者をつなぐ絆が切れる。行政にもの申せなくなる。
のではないか、ということ。

けれど、よくよく考えてみると、こういったことは、なにもPTAでなくてもできることだ。
学校主催の保護者会や面談で担任とは話ができる。
学校に対して、ある程度、意見を束ねていきたいなら、PTAでなくても保護者組織があれば十分だ。

行政に対しても同様。
私たちは、子育て・教育に責任を持つ市民として、発言をすることができる。

その一方で、PTAがなくても、とりあえず不便なく「教育」が成り立つのは、西東京市の例が強い証拠になるかもしれない。この場合、PTAとして束ねなくても、保護者は自発的に保護者の集まりを持つようになるという、心強い事例としても援用できる(乞う、当事者からの情報)。

だから、別にPTAじゃなくてもいいんじゃない?
と、「恐怖」を覚える人に対して述べたい。

その上で、やはりPTAはそう簡単にはなくならないだろうし、ぼく自身、別にPTAそのものが、少なくとも理念のレベルでいかんと言うつもりは毛頭ない。

ただ、強く自覚してほしいのだ。
今のPTAは、事実上の保護者組織として、「それ以外」の選択肢がないように見えるけれど、実際には、それ以外のやり方なんていくらでもある、ということ。

そして、立場の違う保護者と教師が、あえて同じ組織の中に集うのは、単なる保護者組織を束ねるよりも、ずっと「強い理由」が必要だということ。

例えばその「理由」が、生涯学習的な意味合いを含めた「保護者と教員の学び合い」であり、実践として、会員に充実感を与えうるものなら、ぼくはとても素敵なことだと思う。

しかし、ここに書いたようなことを自覚せずに、なぜか保護者組織として意識されるPTAを「必要」と考え続けるのは、むしろ不自然なのだ。
このあたり、強調しておきたい。

ぴんとこない人のために、もう少し敷衍すると……

身の回りに、「アメリカのPTA」を体験したことがある知人はいないだろうか。イギリスでもフランスでもシンガポールでもニュージーランドでも、どこでもいい。
日本人学校など、日本の組織をそのまま持ち込んでいる場合以外は、よくよく聞いてみると、それが本当の意味でのPTAであることは珍しい。

保護者が学校に協力して、資金集めのバザーをしたり、授業補助をしたりするのは、PTAではなく、単なる保護者組織だ。
それを、日本に帰ってきてから、なぜか「PTA活動だった」と錯誤する。

PTAがあるニュージーランドの小学校を知っているけれど、それがPTAであるのは、教師と保護者の相互学習という意味合いが明確に意識されているから。
その場合も少数派で、原則、保護者組織を持つのみのところが多い。
これは今たまたま縁あって調べているクライストチャーチ周辺の話なのだけれど。

まとめ。
学校と、教師と話し合うためにはPTAが必要というのは錯誤。
保護者は学校は、子どもの学びと育ちにかかわるパートナーなのだから、別にPTAがなくても話し合いはするべきだし、実際にできる。

行政に対して意見を束ねたい場合も同様。単なる保護者組織があればよい。

PTAという形を取ることが合理性を持つのは、立場の違う者たちが、あえて同じ団体で活動する意義を実質的に持ちうる場合のみだ。
PTAの場合は、「原理原則」的て理念として語られる、保護者と教師の学びあい、がはっきりできるかどうか、というのがポイントになるかもしれない。

けれど、それが今、主たる業務になっているPTAがどれだけあるだろうか。



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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
明けましておめでとうございます。今年もよろしく... (猫紫紺)
2009-01-09 18:40:03
シリーズ通して拝読しました。
PTAが基本理念通りに機能しているケースが、いったい日本にあるだろうか?という大きな疑問が生じました。
わたしは1人ムスメが小1で、初めてPTAというものに直面、家庭教育学級委員に参加しそれなりに活動しておりますが、こちらは区からの委託金を受けて保護者同士学び合う場で、先生は企画の承認機関としてのみの役割に思えます。
それよりは、今度学年委員主導で行われる「単P研修」のほうは、「包括的スクールカウンセリング」の先生をお招きしての講演会、教師も保護者も共に聴講するそうです。…ん?我が校は真面目な方なのかしらん??
余計なことかもしれませんが、朝の読書ボランティアにも参加しておりまして、こちらは今の所PTA組織には参画せず、あくまでボランティアでやっていく方針のようです。「PTA(義務)じゃないから、ゆる~く楽しくやりましょう」みたいなノリです。こちらはこちらで真剣にやり出すと、とてつもなく深い世界のようですが。

今の所、わたしにとってのPTAって、勉強してもなお得体が知れなくて、いつかは何かやらなきゃいけないもの。参加してみたら、人との摩擦で辛いこともあったけれども、人間的にちょっとは成長できたかな?と思えるもの。でも、なくてすむなら万々歳とも思えますし、一言ではまとめられないです。
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たぶん、理念通り、というのは、ほとんどない、と... (カワバタヒロト)
2009-01-09 21:31:13
ただ、当初の理念とはズレても、先生と保護者が同じ会で活動する必然性があるような団体というのは、想定できます。
だから、古くさい「当初の理念」に拘る必要はないです。

と同時、PTAという「形」に拘る必要もなさそうですね。

ボランティアの読み聞かせ的なのもが、それほど組織化されすぎずに、やりたい人がやる、程度のものであればよいなあと願います。

そして、PTAのほかの「業務」もその程度のものであればいいな、と。

ぼくも読み聞かせはやってますけど、やっぱり、千倍くらい「しあわせ」ですもの。今のPTA活動より。

「大変だと思っていたけれど、やってみたらいいこともあった。成長できた」というのは、前向きな人のPTA言説としてすこく一般的なものです。

ぼく自身、とてもよい体験をしたし、成長もできたと思うのですね。
でも、わざわざ、これを自分の娘の代まで残してあげたいなんてまったく思わないんです。

だから、「やってみたらよかった」で終わらない、PTAについて語る言葉を、ちゃんと紡がなければと思っているわけです。
返信する
早速のコメントありがとうございます。 (猫紫紺)
2009-01-10 00:28:09
先ほどのわたしのコメント、「やってみたらよかった」的な優等生的発言で終わっておりますが、いくつか補足させてください。

ひとつは、多大なストレスの元である「役員選挙」の場を欠席したこと。
同じクラスのママ友に代理人になっていただくのに一苦労しましたし、その際役選委員の方にきいたお話しから雰囲気はなんとなく伝わってきましたが、欠席は欠席。肌では感じていないです。
でもあれをあと何回かやらなければならないと思うと、ぞっとします。

ひとつは、著書にもあった役員クラスの負担の重さ。
月60~70時間の拘束というのは、一応仕事をしているわたしの「今月はかなり働いたな」という実感に匹敵します。普通にパートに行ける時間ですよね。
P連担当になると拘束時間はもっと増えるそうですから、家庭を犠牲にしないとこなせないと思います。
(体が強い方ではないわたしには、無理な時間数です)
そこまでして維持しなければならないPTAって一体…?子どものためのPTAで、子育てや家庭を犠牲にするのは本末転倒ではないでしょうか。

ひとつは、PTAは女性主体の組織だということ。
いろんな性格、タイプ、能力、癖、etcの方々が集まり、会議では自分の意見はなかなか言わない(=目立つと次年度の役員に指名される恐れから?それとも嫉妬がこわいから?)集団。委員会の場では足りずにランチを何度かし、ある程度親しくなるまで、非常に気を遣いましたし依頼心の強い方相手の時は疲れました。
委員長や、まとめる立場の方の気苦労ははかりしれません。
それでも、立地のせいか「この方仕事出来る!」と尊敬する女性もたくさんおられますことはお伝えします。
また、我が校のPTAには男性が会長を務めておられるので、完全なる女性社会とは異なると思います。


女性ばかりのPTAは、ノリがまた違って大変そうです。
共働きで、女性ながら家庭を支えている立場の友人がいるのですが、あらかじめ、PTAをやるならご主人になると伝えているにもかかわらず、「男性がいるとやりにくいからあなたやれ」「双子だから」「一度はPTAやる運命だ」などと迫られるそうです。
地方での奥様集団を想像してみると…感情が先行していそうでこわいです。あくまで想像ですが。


日本におけるボランティアは、特に行政側がつかうと「都合の良い労働力」と聞こえてしまいます。PTAはいまこっちですよね。
欧米の "I'll Volunteer."と手を挙げる、人間の発達の最終段階である高次の精神の発露とはまったく違うニオイを感じます。

本来の意味での「ボランティア」精神にPTAが切り替わっていくといいのですが。
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ほい。 (カワバタヒロト)
2009-01-10 12:44:44
がっつり実感のこもった、かつ、論理的なコメントありがとうございます。

そうそう、ランチとかやって、ある程度打ち解けて……というプロセスを経てはじめて、うまく回り始めるところがあるんですよね。
これが逆に楽しいという言い方もできれば、もっとちゃっちゃっとやれるのにという感じ方もある。
両方本当です。

男性がPTAにかかわると、すぐビジネス社会の組織モデルを念頭に、違和感を持つ場合が多いみたいですが、社長がいて役員がいて部下いて、という組織ではないから、それは無理。

もっと、互いに「自分」を持った上でのボランティアでないと、何か大事なものがひっくりかえっちゃいます。

行政側がつかうと「都合の良い労働力」になるものが、実は、我々の市民社会で自分たちでできることはやるんだというのは、本当に裏と表で簡単にひっくり返ります。

だから、ひっくり返しましょう。
というのが、「夢」なんですけどね。

家庭教育学級とか単P研修にしても、「委託事業」にしてはだめですよね。

やりたい人は手を挙げて、予算を申請する。
別に予算がいらないところは、予算ゼロで自分たちでやってもいいし、やらなくたっていい。

たぶん我々の先輩は行政とかけあって、「権利」として委託事業費を勝ち取ったのだろうけれど、それが必ずやらねばならぬ義務にひっくりかえるのがなんと早いことか。

たぶん、翌年あたりから「もらうのだからやらなきゃ」になったんじゃないでしょうか。

悲観せず、粛々と、自分が今できることをやっていきます。

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