『もう牛を食べても安心か』福岡伸一著についてのメモ。
五月雨式。
BSE、いわゆる狂牛病のことを知りたいだけなら、この本を最初に読むというのはあまり適していないかもしれない。BSEのお話よりも、「動的平衡」をキーワードにした生命観の本という側面がかなり強いのだ。
詳しくは書かないけれど、ひとつ認識としてクリーンヒットしたのは、臓器移植への違和感。著者は、臓器というものが、そもそも発生の時から、体の他の部分と情報交換しつつ、一回限りものとして成立する、と、いわば来歴の問題を指摘していた。臓器というのはパーツであって、パーツでない。周囲との情報交換、物質交換ののネットワークの中で、固有のものとして作り上げられる。これは、まさに腑に落ちた感覚があった。
まあ、BSEとは直線関係ないのだけれど。
つっこみどころは、一番の最後のあたりの『「リスク分析」という欺瞞』という項目のあたりか。
リスク論はきわめてポリティカルな方法論なのだ。
というのが著者の、ネガティヴな意味での、リスク論批判。
でも、それって当たり前じゃないかと、思うのだ。
もともとポリティカルな方法論ですよ。リスク論というのは。間違いなく。
nvCJDだけではない、多くのリスク対策の中で、何を優先し、何を後回しにしても大丈夫か。そういうことを考えるために、編み出された『物差し』だもの。
著者は、リスク分析は「本来、甲乙つけがたいものに優先順位をつけ、本来強引に線引きできなところに強引に線引きする」と言うわけだけれど、実際の政治の現場では、それをやらねばならないわけで、もしもリスク分析という手法がなければ、それはたまたま、力のある政治家がとりあげた問題が優先させられたり、役人がなんらかの非本質的な理由で推進を計ったり、など、それそこ『政治的』に白黒がつけられちゃうのは目に見てる。たとえば、たばこ産業への配慮から喫煙対策を後回しにして、別のことをさも大きな問題のようにとりあげたり、ね。
もちろん、リスク分析が政治の現場でつかわれる「ものさし」である以上、それが政治的に利用される(「活用」ではなく)局面は容易に想定できるけど、でも、それと「ものさし」を否定することは別でしょう?
リスク論が、フグ毒と狂牛病のリスクを単純に死者で比べることについて、
『フグ毒はある意味で時間の試練をくぐり抜けて私たちに納得されたリスクである。対して、狂牛病は人災であり、人為的操作と不作為によって蔓延したまったく納得できないリスクなのである』という。
なるほど。そうかもしれない。
かといって、「人災であり、人為的操作と不作為によって蔓延したリスク」だって、たくさんあるのだ。今、この瞬間、世界にはそのようなリスクで満ち満ちている。
そういうものの対策を立てなきゃならない時に、リスク分析を使わずにどうするのだろうか。
また、リスク分析とセットになった、リスク・コミュニケーションというものは、『時間の試練をくぐりぬけて私たちに納得されたリスク』のように、「納得される」のまで待っていられない多くの新興のリスクについて、できるだけはやく納得するための手法でもある。だいたい、ここ10年20年の間に発見された、すべての「リスク」を我々か納得するまで、最大限の予防原則でもって対応し続けたら、大変なことになってしまう。
著者の筆の運び方がある意味ナイーヴだと思うのは、このような著作をパブリックに問うこと自体の政治性に無自覚なことではないかな。
たとえば、この本のことを、「あれは政治的な本だからね」と切り捨てる人がいてもぼくは驚かない。
あと、リスク分析・リスクコミュニケーションの発想がないと、著者の主張は、かつての環境ホルモン騒動の時のように、「こわいものはこわい」という伝わり方をしてしまう可能性すらあると思うのだけれど、そのあたりはどうなんだろ。
もっとも、通読して思うのは、著者はそういうことにはそもそもあまり「興味がない」のかもしれない。BSE対策についての定見を持っているし、はっきりした危機感も持っているけれど、かといって、それを積極的にどうしろああしろと自ら声高に論じていきたいのではないのか、と。
むしろ、もっとマクロなメッセージを伝えるための道具としてBSEを「ネタ」にしたのかな。
「生命の動的平衡を取り戻せ」というのがそのマクロなメッセージ。あえて単純化しちゃえば。
大枠としては、「そりゃあそうだよね」とぼくもそう思う。
異議なし。そうできたらいいね、だ。
でも、「自然が開始したリベンジ」って、言いたいことはわかるのだけど、なんかイヤだな。
我々は、自然からはみ出しており、なおかつ、自然の一部である、という両義性が抜け落ちるからだと思う。
BSEの本としてはあまりにマクロ、かといって著者のマクロな認識を十全に展開するには「BSE本」でありすぎ、というバランスの悪さが感じられた。
でも、問題提起型の本として、大変面白く読ませて頂きました。批判的な内容をだらだら書いてしまったのは、そのインパクとが大きかったということでもある。
五月雨式。
BSE、いわゆる狂牛病のことを知りたいだけなら、この本を最初に読むというのはあまり適していないかもしれない。BSEのお話よりも、「動的平衡」をキーワードにした生命観の本という側面がかなり強いのだ。
詳しくは書かないけれど、ひとつ認識としてクリーンヒットしたのは、臓器移植への違和感。著者は、臓器というものが、そもそも発生の時から、体の他の部分と情報交換しつつ、一回限りものとして成立する、と、いわば来歴の問題を指摘していた。臓器というのはパーツであって、パーツでない。周囲との情報交換、物質交換ののネットワークの中で、固有のものとして作り上げられる。これは、まさに腑に落ちた感覚があった。
まあ、BSEとは直線関係ないのだけれど。
つっこみどころは、一番の最後のあたりの『「リスク分析」という欺瞞』という項目のあたりか。
リスク論はきわめてポリティカルな方法論なのだ。
というのが著者の、ネガティヴな意味での、リスク論批判。
でも、それって当たり前じゃないかと、思うのだ。
もともとポリティカルな方法論ですよ。リスク論というのは。間違いなく。
nvCJDだけではない、多くのリスク対策の中で、何を優先し、何を後回しにしても大丈夫か。そういうことを考えるために、編み出された『物差し』だもの。
著者は、リスク分析は「本来、甲乙つけがたいものに優先順位をつけ、本来強引に線引きできなところに強引に線引きする」と言うわけだけれど、実際の政治の現場では、それをやらねばならないわけで、もしもリスク分析という手法がなければ、それはたまたま、力のある政治家がとりあげた問題が優先させられたり、役人がなんらかの非本質的な理由で推進を計ったり、など、それそこ『政治的』に白黒がつけられちゃうのは目に見てる。たとえば、たばこ産業への配慮から喫煙対策を後回しにして、別のことをさも大きな問題のようにとりあげたり、ね。
もちろん、リスク分析が政治の現場でつかわれる「ものさし」である以上、それが政治的に利用される(「活用」ではなく)局面は容易に想定できるけど、でも、それと「ものさし」を否定することは別でしょう?
リスク論が、フグ毒と狂牛病のリスクを単純に死者で比べることについて、
『フグ毒はある意味で時間の試練をくぐり抜けて私たちに納得されたリスクである。対して、狂牛病は人災であり、人為的操作と不作為によって蔓延したまったく納得できないリスクなのである』という。
なるほど。そうかもしれない。
かといって、「人災であり、人為的操作と不作為によって蔓延したリスク」だって、たくさんあるのだ。今、この瞬間、世界にはそのようなリスクで満ち満ちている。
そういうものの対策を立てなきゃならない時に、リスク分析を使わずにどうするのだろうか。
また、リスク分析とセットになった、リスク・コミュニケーションというものは、『時間の試練をくぐりぬけて私たちに納得されたリスク』のように、「納得される」のまで待っていられない多くの新興のリスクについて、できるだけはやく納得するための手法でもある。だいたい、ここ10年20年の間に発見された、すべての「リスク」を我々か納得するまで、最大限の予防原則でもって対応し続けたら、大変なことになってしまう。
著者の筆の運び方がある意味ナイーヴだと思うのは、このような著作をパブリックに問うこと自体の政治性に無自覚なことではないかな。
たとえば、この本のことを、「あれは政治的な本だからね」と切り捨てる人がいてもぼくは驚かない。
あと、リスク分析・リスクコミュニケーションの発想がないと、著者の主張は、かつての環境ホルモン騒動の時のように、「こわいものはこわい」という伝わり方をしてしまう可能性すらあると思うのだけれど、そのあたりはどうなんだろ。
もっとも、通読して思うのは、著者はそういうことにはそもそもあまり「興味がない」のかもしれない。BSE対策についての定見を持っているし、はっきりした危機感も持っているけれど、かといって、それを積極的にどうしろああしろと自ら声高に論じていきたいのではないのか、と。
むしろ、もっとマクロなメッセージを伝えるための道具としてBSEを「ネタ」にしたのかな。
「生命の動的平衡を取り戻せ」というのがそのマクロなメッセージ。あえて単純化しちゃえば。
大枠としては、「そりゃあそうだよね」とぼくもそう思う。
異議なし。そうできたらいいね、だ。
でも、「自然が開始したリベンジ」って、言いたいことはわかるのだけど、なんかイヤだな。
我々は、自然からはみ出しており、なおかつ、自然の一部である、という両義性が抜け落ちるからだと思う。
BSEの本としてはあまりにマクロ、かといって著者のマクロな認識を十全に展開するには「BSE本」でありすぎ、というバランスの悪さが感じられた。
でも、問題提起型の本として、大変面白く読ませて頂きました。批判的な内容をだらだら書いてしまったのは、そのインパクとが大きかったということでもある。