和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

大道19/小説「新・人間革命」

2015年03月04日 10時32分47秒 | 今日の俳句
「聖教新聞」 2015年(平成27年) 3月4日(水)より転載


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【大道19】

 中部文化会館での「中部の日」記念幹部会の前、山本伸一は東濃圏の中心者と会った。

 この圏では、宗門の問題だけでなく、怨嫉問題などもあり、皆が喜んで団結しているとは、言いかねる状態であった。伸一は、同席した中部本部長の田山豊隆に視線を向けた。

 「東濃の皆さんは、宗門をはじめ、さまざまな問題に苦しみながら、必死になって攻防戦を続けてくださっている。苦労しながら頑張り抜いておられる。

 今は、どんなに辛くとも、仏法という太陽の光を浴びれば、やがて、正邪も、善悪も明らかになっていきます。したがって、何があっても一喜一憂するのではなく、創価の師子の信念をもって、御本尊とともに、学会とともに生き抜いていくよう訴えることです。

 明日、私は東濃に行きます。そこで、東濃創価学会の結成十四周年を記念する勤行会を行いましょう。急ですが、来られる方は、来てください。皆、仏子の方々です。悔しい思い、悲しい思いをしながら、歯を食いしばって、戦ってこられた地涌の菩薩の方々です。私は、そうした皆さんに仕える思いで、最大に讃え、励ましたいんです。

 明日二十八日は金曜日で平日ですから、仕事の方も多いでしょう。勤行会は夕刻、皆さんが集まって来られたら開始します。仕事を終えて駆けつけて来る方のために、二度でも、三度でも行います。

 地元の皆さんには、『夕方から、会長も出席して勤行会を行います。都合のつく方は東濃文化会館にお越しください。ただし、無理をする必要はありません』とお伝えください」

 それから伸一は、強い語調で言った。

 「幹部は、最も皆が苦しんでいるところへ、自ら真っ先に足を運んで激励するんです。幹部に、その姿勢がなくなれば、それは、もはや官僚主義であり、組織は崩れていきます」

 記念勤行会開催の連絡は、その夜、電光石火、組織の隅々にまで流れた。

 〝山本先生が、東濃に来られる!〟

 皆、逸る心を抑え、翌日の勤行会を待った。





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大道18/小説「新・人間革命」

2015年03月04日 10時14分14秒 | 今日の俳句
「聖教新聞」 2015年(平成27年) 3月3日(火)より転載


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【大道18】

 「中部の歌」に山本伸一は筆を加えていった。“よい歌を!”“永遠に歌い継がれる歌を!”との思いで加筆していくうちに、全く新しい歌詞になってしまった。それを、さらに推敲し、作曲も東京で音楽の教師をしている壮年に依頼することにした。

 そして、完成した歌は、直ちに中部の幹部に伝えられ、「中部の日」記念幹部会前日の七月二十六日付「聖教新聞」の、中部の各県版に歌詞と楽譜が掲載されたのである。歌の題名は「この道の歌」である。

 “明日の記念幹部会で発表される!”

 中部の同志は胸を躍らせ、幹部会を待った。

 七月二十七日の午後三時半、山本伸一は愛知県の名古屋文化会館に到着した。

 彼は、同会館、さらに中部文化会館の館内を回りながら、中部本部長の田山豊隆、中部長の大田和介に、中部の現況を尋ねていった。

 二人は、幾つかの地域で、宗門の僧が学会員に、脱会して寺につくように、さまざまな圧力を加えたり、学会を悪口雑言していることなどを報告した。

 伸一の瞼に、横暴な悪侶の仕打ちにひたすら耐え、悔し涙を堪える、健気な会員の顔が浮かび、胸が張り裂ける思いがした。

 彼は、静かに口を開いた。

 「宗門の問題に限らず、最も大変ななかで頑張っている地域はどこですか」

 中部長の大田が言った。

 「現在、さまざまな観点から見て、いちばん苦しい状況のなかで、皆が必死に奮闘しているのが岐阜の東濃だと思います。ここは圏になっており、多治見市や瑞浪市、土岐市、恵那市、中津川市などで、多治見市には東濃文化会館がございます」

 「その圏の中心者は、今日の記念幹部会に来られますか」

 「はい。出席いたします」

 「では、開会の前にお会いしましょう。皆さんが、どんな思いで戦い、どんな状況なのか、直接、お話を聞くことが最も大切なんです。自分で実態をおさえていくんです」





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大道18/小説「新・人間革命」

2015年03月04日 10時13分33秒 | 今日の俳句
「聖教新聞」 2015年(平成27年) 3月3日(火)より転載


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【大道18】

 「中部の歌」に山本伸一は筆を加えていった。“よい歌を!”“永遠に歌い継がれる歌を!”との思いで加筆していくうちに、全く新しい歌詞になってしまった。それを、さらに推敲し、作曲も東京で音楽の教師をしている壮年に依頼することにした。

 そして、完成した歌は、直ちに中部の幹部に伝えられ、「中部の日」記念幹部会前日の七月二十六日付「聖教新聞」の、中部の各県版に歌詞と楽譜が掲載されたのである。歌の題名は「この道の歌」である。

 “明日の記念幹部会で発表される!”

 中部の同志は胸を躍らせ、幹部会を待った。

 七月二十七日の午後三時半、山本伸一は愛知県の名古屋文化会館に到着した。

 彼は、同会館、さらに中部文化会館の館内を回りながら、中部本部長の田山豊隆、中部長の大田和介に、中部の現況を尋ねていった。

 二人は、幾つかの地域で、宗門の僧が学会員に、脱会して寺につくように、さまざまな圧力を加えたり、学会を悪口雑言していることなどを報告した。

 伸一の瞼に、横暴な悪侶の仕打ちにひたすら耐え、悔し涙を堪える、健気な会員の顔が浮かび、胸が張り裂ける思いがした。

 彼は、静かに口を開いた。

 「宗門の問題に限らず、最も大変ななかで頑張っている地域はどこですか」

 中部長の大田が言った。

 「現在、さまざまな観点から見て、いちばん苦しい状況のなかで、皆が必死に奮闘しているのが岐阜の東濃だと思います。ここは圏になっており、多治見市や瑞浪市、土岐市、恵那市、中津川市などで、多治見市には東濃文化会館がございます」

 「その圏の中心者は、今日の記念幹部会に来られますか」

 「はい。出席いたします」

 「では、開会の前にお会いしましょう。皆さんが、どんな思いで戦い、どんな状況なのか、直接、お話を聞くことが最も大切なんです。自分で実態をおさえていくんです」





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大道17/小説「新・人間革命」

2015年03月04日 09時57分21秒 | 今日の俳句
「聖教新聞」 2015年(平成27年) 3月2日(月)より転載


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【大道17】


 行こう! 友のもとへ。

 今日も、励ましの対話を交わそう!

 語った分だけ、希望の春風を送ることができる。幸福の種子を植えることができる。

 四国指導を終えて岡山文化会館に戻った山本伸一は、翌七月二十七日午後、岡山から新幹線で名古屋へ向かった。

 この日の夜、「中部の日」記念幹部会が開催され、席上、伸一が、中国指導の激務の合間を縫うようにして作詞した「中部の歌」が発表されることになっていたのだ。

 中部の同志は、これまで、関西の歌をはじめ、中国の歌「地涌の讃歌」、四国の歌「我等の天地」、九州の歌「火の国の歌」と、各方面の歌が相次ぎ発表されていくなかで、「中部の歌」の誕生を待っていたのである。

 伸一は、そうした同志の心に応えようと、岡山、米子と奔走しながら、歌詞を作り、推敲を重ねてきたのである。

 中部では、二年前の一九七六年(昭和五十一年)に、“広宣流布の新時代にふさわしい中部の歌を作ろう”との機運が高まり、制作委員会を設けて歌詞を募集した。しかし、応募作品のなかには、これぞ、と思う歌詞はなく、正式な「中部の歌」は決まらなかった。

 話し合いを重ね、「歌詞は、できれば先生に作っていただこう」ということになった。そして、前月の末に、中部の幹部が、その要請を伸一に伝えた。

 「もちろん、私は応援しますが、まず、みんなで歌を作ってみてはどうだろうか」

 中部の有志で、作詞作曲に取り組んだ。

 七月十九日、関西から岡山入りした伸一のもとへ、出来上がった歌の合唱を録音したカセットテープ、歌詞、楽譜が届いた。「手直ししてください」とのことであった。

 伸一は、推敲を始めた。「中国の歌」「四国の歌」などの作詞と並行しながらの作業である。彼は、必死であった。

 “全同志の胸に勇気の火をともすのだ!”との一念が、次々と魂の言葉を生み出していった。力は“懸命”という泉から湧き出す。





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:朧/今日の俳句 ≪第.1701号≫

2015年03月04日 06時49分08秒 | 今日の俳句

■<2015年(平成27年)3月4日(水)>■



■今日は何の日。記念日

○ ミシンの日
ミシン発明200年を記念して日本家庭用ミシン工業会(現在は日本縫製機械工業会)が1990(平成2)年に制定。「ミ(3)シ(4)ン」の語呂合せ。イギリスのトーマス・セイントが世界で初めてミシンの特許を取得したのは1790(寛政2)年だった。「ミシン」という名前は、 sawing machine(裁縫機械)のmachineがなまったものである。                      

○ サッシの日
サッシメーカーの吉田工業(現 YKK AP)が制定。「サッ(3)シ(4)」の語呂合せ。

○ バウムクーヘンの日
神戸のドイツ菓子製菓会社・ユーハイムが2010年に制定。1919年のこの日、広島県で行われたドイツ展示会で、同社を創業したドイツ人カール・ユーハイムが日本で初めてバウムクーヘンの製造販売を行った。

○ さんしん(三線)の日
沖縄県の琉球放送が制定。「さん(3)し(4)ん」の語呂合せ。三線は、蛇味線とも呼ばれる沖縄の楽器で、三味線の元となったとされている。

○ 円の日
1869(明治2)年のこの日、明治政府が貨幣を円形として金銀銅の貨幣を鋳造する円貨の制度を定めた。

○ 雑誌の日
富士山マガジンサービスが2008(平成20)年に制定。「ざっ(3)し(4)」の語呂合せ。あわせて、3月・4月を「雑誌の月」とした。
雑誌愛読月間 7月21日~8月20日

○ 酸蝕歯の日
液体歯磨剤「シュミテクト」を販売するグラクソ・スミスクラインが制定。「さん(3)し(4)ょくし」の語呂合せ。酸蝕歯とは、食物中の酸によりエナメル質が侵食された歯のことである。


▼ 赤黄男忌
俳人・富澤赤黄男の1962(昭和37)年の忌日。
▼ 1902年、愛媛県西宇和郡川之石村(現八幡浜市保内町琴平)に開業医の長男として生まれる。 1920年宇和島中学校卒、1926年早稲田大学政経学部を卒業。在学中、松根東洋城の門人に勧められ松根の主宰誌「渋柿」に投句するも、熱心に打ち込むことはなかった。同4月、国際通運(現在の日本通運)東京本社に入社、1928年国際通運大阪支社に転勤。 同年、同郷の菊池清と結婚、大阪市東成区生野町(現大阪市生野区)に新居を構える。1930年、父が眼疾により医師を廃業して材木会社の経営に携わることになったため帰郷し父を助け、その後国立第二十九銀行(現在の伊予銀行)に勤める。このころより郷土の俳句同好会「美名瀬吟社」に参加し作句を始めた。「蕉左右」の俳号で「ホトトギス」にも投句を続けるが一句も入選しなかったという。
1932年、俳号を「赤黄男」として山本梅史主宰の「泉」に投句、1935年まで60句ほど入選する。1933年、父が先の木材会社経営に失敗したため、家財を整理して移住、銀行も辞去する。翌1934年に妻の母とセメント重紙袋製造合資会社を起こし、単身で大阪に向かい堺市に工場を持つが、室戸台風のために工場が再起不能となる。1935年、日野草城の俳誌『旗艦』創刊。同誌の同人となり新興俳句の作り手として頭角をあらわす。先人として高屋窓秋に傾倒を示し、また「俳句は詩である」と宣言し新興俳句の理論的展開も担った。一方私生活は不安定な状態が続き、1936年2月に妻の実家が経営する酒造会社に入社、12月に退社し、大阪に出て水谷砕壺の世話を受けながら浪人暮らしをする。
1937年、召集され神奈川県の工兵態に入隊、将校として中国各地を転戦。1939年以降の「旗艦」には、軍事郵便で送られてきた赤黄男の前線俳句が毎月のように掲載された。この時期の句に「鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり」がある。1940年マラリアに罹り帰国、この間中尉に昇進するも召集解除。1941年再度召集を受け、1942年 北千島の守備に着く。1944年召集解除。この間、 1941年に代表句「蝶墜ちて大音響の結氷期」をふくむ処女句集『天の狼』刊行し、京大俳句事件によって終息していった新興俳句運動の掉尾を飾る。1945年4月四谷区箪笥町で空襲により罹災。吉祥寺の借家に移る。
終戦後、1946年「太陽系」創刊。また栗林一石路、石橋辰之助、東京三(秋元不死男)、湊楊一郎らとともに新俳句人連盟を結成するが、内部分裂し翌年現代俳句協会設立、会員となる。1948年、詩、短歌、俳句の総合誌「詩歌殿」を水谷砕壺とともに創刊、「太陽系」終刊し後継誌として「火山系」創刊(いずれも1950年まで)。またこの年、砕壺が社長を務める関西タール製品株式会社に入社、東京事務所長となる。1951年 句集『天の狼』改版発行。1952年、高柳重信、本島高弓とともに「薔薇」創刊。 同年末に句集『蛇の声』。収録句に「切株は じいんじいんと ひびくなり」「寒い月 ああ貌がない 貌がない」など。作品は大戦中からのものも含むが、いずれも一字アキを用い、また句の象徴性・抽象性をいっそう深めており、この傾向は第三句集『黙示』(1961年)にいたって極度に突き詰められる。
1958年、高柳が「俳句評論」を創刊し所属、後進の指導にあたる。同年大和化成社長となる。 1961年、句集『黙示』。1962年、肺ガンにより自宅療養中に死去。享年60。
 
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】





     ※今日の俳句※



  メロンパン体内すこし朧なり
       奥坂まや



  さきがけて朧となりぬ観世音
       長谷川櫂


  寝支度の鏡のうちの夜のおぼろ
       井沢正江



※ 朧
 春は大気中に水分が多いので、物の象(すがた)が朦朧と霞んだように見える。朧は春の夜の、万物が霞んで見える現象。霞と同様「草朧」「谷朧」「岩朧」「鐘朧」など、いろいろに用いられる。
→朧月・春の月・霞 

【「合本・俳句歳時記/第三版」(角川書店)より転載】





     ※わが友に贈る※
【聖教新聞:2015年(平成27年)3月4日(水)付】


  多忙な時こそ

  祈りを根本とせよ!

  そこに価値創造の

  偉大な知恵が生まれ

  栄光への道が開かれる。


       2015年3月4日



     ※名字の言※
【聖教新聞:2015年(平成27年)3月4日(水)付】


東日本大震災で大きな津波被害にあった町の、中小企業団体の代表と会った。「起業の町」をつくりたいという。「大企業はありがたいけれど、撤退したらあとが大変。小さい店がたくさん起業する方が有益だ。人口の少ないこの町では、数人規模でも影響力が大きい」と語っていたが、一つの見識だろう



米国・オハイオ州もウィルミントン市。世界最大の物流起業が、空港を持っていたが2008年に撤退。関連企業も含めると、市の雇用の3分の1が失われた。同じような巨大企業を探そうとの意見もあったが、市は別の道を選んだ



その目標は「5つのL」。「L」は「ローカル(地域)」の頭文字。五つとは「仕事」「食」「発電」「視野」「人」。地元の歴史や風土、そして何よりも、地元の人を大切にした。地産地消の市場や、職人の手作業にこだわった工場など、地に足を着けた小さな起業をたくさん生み出した



ウィルミントンは復活した。今、市には、世界から復活の秘密を知りたいと訪れる人が後を絶たない



これらは広布の活動にも通じる。協議会や座談会、そこに集う地域の同志を最も大切にしたところに、今の学会の世界的発展がある。「あの同志」に会いに行こう! 「この友」と語ろう。きょうも、そして明日も。     (哉)



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3月3日(火)のつぶやき

2015年03月04日 01時43分42秒 | 日本

ブログを更新しました。 『新・人間革命「大道15・16」 動画版 <池田大作著>』
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ブログを更新しました。 『大河ドラマ 『日蓮』5回目 新・人間革命 池田大作著』
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ブログを更新しました。 『大河ドラマ 『日蓮』6回目 新・人間革命 池田大作著』
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ブログを更新しました。 『大河ドラマ 『日蓮』 7回目 新・人間革命 池田大作著』
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