染織工房豆ブログ

染織工房「豆」の日々の記録

国文祭

2009年10月30日 22時21分55秒 | Weblog
いろいろと他の展示も見させていただいて、これはどうかなあと思わせるものも、まちなかアート程ありません。
まあ、もう少しにぎやかだといいなあと思われますが。
市内のお店は5時には終わるところが多いのですが、国文祭の会場は一応6時までやっとるわけです。ホント寂しくなります。
数店のお店が集まっているとこなんて、まだやってるのに、入り口の鎖がしまっていたりします。そこをまたいで入りましたよ。

色々な作家のコンセプト等も見られるわけですが、残念なものが多いです。
ちゃんとやってる人を選んでいるはずですが、奇麗なものを作る事や、好きだからやっている等と言う事をはずかしげも無く主題とするわけです。
以前、展示をしたときに、先輩から、「好きだからやっているって感じではなくていいねえ」と言われて大変ありがたく感じられたのですが、みんなそういう思いで制作しているものだと思っていましたが、そうでも無い。僕は割と素材や技法、テクスチャー等、それでなくてはならない理由もあれば、目的もあります。だからこそ僕は繊維からコンクリートを使うまで何の違和感もありません。よそから見れば異様に見えるかもしれませんが、別にそれが好きでたまらないからって分けじゃあ無いんですな。他にもっとよいものがあればそちらを使います。
繊維造形をやっているものの多くはそうだと思いますが、いろいろやって来て、繊維にたどり着く人が多いのですが、わざわざ他のものよりめんどくさく、時間がかかる繊維なんてやろうって言うのだから、それなりにその目的が無くては自分を納得させられません。好きで好きで仕様が無いって人もいますが、そういう人は技法にこだわりだして、工芸家になるでしょうな。中にはそれで芸術的な造形をして、誰も付いて来れない超絶な世界に行ってしまう人もいます。そんな人は滅多にいませんが。

僕はこのように目的を持った造形をするように心がけているのですが、本日そういう人は少ないのか、その必要は無いのかとまで考えるようになりましたが、そういうわけには参りません。
相方が、「前の作品もだせばいいじゃない」とか言いますが、コンセプトが違う。表現の目的が違うんだから、だすわけにはいかないし、そんな事したら、見に来た人に失礼じゃないかと思うわけです。

ずいぶん昔にカシワギヒロシとデザインと芸術に付いて話をした事があります。
その時はまだ若かったので、うっちゃられているのに食い下がっていましたが、いろいろと話が出来てためになりました。
カシワギ氏が、「デザインはサインなんだ。文字であり言語である」と言いました。その時は言葉としては解るが、物体じゃないか環境や使う人によって違うのではないかと思いましたが、今思えばそうじゃない。
デザインは言語であるし目的があるもの。作り手側と、使う側が、同調しなくてはならないものであり、同じ意味や目的を共有しなくてはならない。また、アートは作り手側の目的とは別に使う側、普通は見る側となりますが、それぞれ意味が違っていても構わないものである。作り手が自由に作って、見る側が勝手に解釈するそれでいい。みんな違ってみんないいわけです。
デザインで使い方が違うとちょっと困った事になるのは解ります。ズボンを上着として着るわけにはいきません。奈良の怪しい鹿人間なんて最たる例です。こんな事あまり言ってはいけませんが。

でもね、自分が気持ちよく作ったから、みんなも気持ちよくなってほしいなんて事を作家が言うのはおこがましく感じるのですな。それが目的となると芸術と言えるのかと思います。

と言うような事を相方に話すと、
「あなたのそういうもの作りが、悪い事だとは思いませんが、よそ様にも求めるのはそれこそお門違いです。そこまで考える人もそんなにいないのでしょう」
と、ここまではっきりと言われたわけではありませんが、ばっさりと切り落とされました。

以上おしまい。もうこんな愚痴は言うまい。と思う。

話は違いますが、奇石博物館のオートマタの展示は無料で見られるそうです。でもあそこまで行ったら入るでしょ、奇石博物館。

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