染織工房豆ブログ

染織工房「豆」の日々の記録

2014年05月30日 22時36分00秒 | 
なでしこ がうちに来て14年

彼女との出会いはホント忘れません。
2000年の9月、彼女が僕の車の下に隠れていて、僕が近づいたら飛び出してきて、肩まで一気に登ってきたんですね。風邪を引いて目やにと鼻水で埋まってしまっている顔をしつつも、わずかに見える光を頼りに来たことと思います。
そのまま病院へ連れて行ったら、あまりのひどい顔にお医者さんもびっくりしたくらいでした。
あんまりひどいので、秋の七草から、なでしこ と名付けました。でも、心配を他所に大きくなったものです。max8キロでした。こんなです


そんな彼女も先日、21日に他界いたしました。
絵のモデルになってもらったり、話のネタになったりと話題に事欠かなかったので、とても残念ではありますが、弱ってから、暫く時間もあったことから、淡々としております。もともと泣いたりすることの意味がわからないので、彼女がいない寂しさはあるのでしょうが、とにかくお疲れ様って思いました。

普段の僕を知る人の中には、皮を剥いで毛皮にしたとか骨の標本を作ったかとか、食べたのかと気になる方もおられるでしょうが、
そのようなことは全くしておりませんで、火葬しました。

人とは自分に関係の少ないものにはとてもシビアです。
毎日人の亡くなるニュースを聞いて、自分のことのように悲しまれることも少ないでしょう。
自分の知人など、関係のある方の場合とそうでない方の場合では対応が全く違う。ニュースで毎回泣いていたら、身がもたないでしょう。


田舎では土葬する方が多いペットたちですが、僕はそれすら嫌でした。なぜなら、どのように骨となるか知っているからです。その過程さえも彼女に与えるのは忍びなかったのです。

こういう所が人間らしくて嫌でもあります。

そして、猫を含めた動物たちの死生観を垣間見ることが出来たように感じました。
人が擬人的にものを見てしまって、人と似た感情を持つと思うのでしょうが、彼らは死を生きることと同様に受け入れている感じがしていました。つまり人よりも死生観についてはもっと高次元の悟りを得ている感じはします。生きることも死ぬことも一連の流れの中にあり、そこに大きな隔たりが無いように思われます。今何をするべきか理解し、最善をつくす。これが基本のようです。

それから、2匹の猫と20年近く猫と生活していたのですが、よく考えると彼女たちは自分からこちらに来たように思う。
僕を選んできた。と言うのは傲慢ですが、とりあえず「養え」と言われたような気もします。
飼いたいとか、所有したいとかという気持ちは全くなく向こうからやってきたから、同居しているといった感じでした。もともと、保健所には溢れかえる死を待つ動物たちがいるのにそれを他所にお金を出してまで動物を飼うのはそれこそ傲慢と欺瞞、大きな矛盾と勝手に考えていたのです。ペットショップ自体も人身販売所のような感じがしてとても嫌なんです。
それもありますが、そんなお金も無く、他所様を養うなんて自分には出来なかったので、飼う気も無かったんですね。でも向こうからきたから同居していました。

相方はそれを知ってか知らずか、はたまた元々動物を飼うことは好きではないのかわかりませんが、無茶苦茶ドライです。もう既に猫グッズ掃除にかかっています。あとは僕が洗うだけです。僕はボケっとしていますが、相方にとっては猫はもういいかなって感じです。でも、向こうからきたら仕方ないけどとは思っていてくれているようです。

猫らしからぬ存在はとても良い猫でした。
でも、お笑い担当が新たに生まれてきたので、それで安心したのかもしれません。



可愛くかけすぎている感じは、愛着なんだと思います。子供にもうちょっと太ってるんじゃないかとも言われました。