デジカメぶらりぶらり

デジカメのほやほやの写真をご覧下さい。

2011-01-10 08:16:18 | Weblog
雪の街で時折、寒修行の僧を見掛ける。風に逆らい、背筋を伸ばして歩く姿が美しい。当地を彩る冬の点描の一つ、静かな祈りである。

子どものころに嫌々出掛けた寒げいこは、はるかに遠い思い出である。もはや鍛えようもないほど、精神はなまくらになったに違いない。

裸になった木々の枝が風に揺れる。冬枯れの街である。そう表現して、画家に怒られたことがある。葉を落としても、枝も幹も枯れてはいない。それどころか、命の芽をしっかり宿している。

断じて、「冬枯れ」ではない、と、風景を描く画家からは、今の季節こそが大事だ、とも教わった。冬空の下、裸になった木々の幹や枝の姿を描いておかないと、葉をつけ、花を咲かせた姿は芯の通らぬものにしかんらないという。

どんな世界にも、寒修行はある。正月気分が抜けて、一年の計も揺らぎ出したころである。緩みかけた心に喝、とばかりに巡ってきた寒の厳しさである。寒いことは寒いが、心が締まってありがたくもある。

天の配剤と思えば、寒さもしのげる。

2011-01-08 07:43:36 | Weblog
庭造りに凝った作家室生犀星は、金沢を「松の木の都」と表現した。大正から昭和にかけては、兼六園の名木だけではなく藩政期以来の立派な松が民家の庭にあったという。

島根県安来市の足立美術館は近年評判の高い美術館だが、その人気の秘密は広大な庭にある。山陰に生まれ大阪でて財を築いた実業家が、生涯かけて仕上げた傑作だが、その庭園の柱となる松はすべて能登の松だと案内書には書かれている。

庭の整備に熱を入れているころ、能登に社員旅行をした。その時に見た松林があまりに見事だったので、以来、島根の庭に能登の松を植え続けたという。ここ数年、外国の専門紙で日本一の評価を受け続けている安来の庭園は、能登が支えているということになる。

長谷川等伯「松林図屏風」に描かれている松も、能登の松を描いたという説が有力である。
身近にいると分からないが足元に大変な宝ものがあるのが、北陸の自然というものなのかもしれない。

2011-01-06 08:29:04 | Weblog
正月は「巣」にこもる。節約疲れの「プチぜいたく」として、巣に地デジ対応テレビがやってきた。ハイビジョン画像の鮮明さに驚く。美術品は、本物よりも美しいかもしれぬ。

女優の厚化粧も政治家の仏頂面も、はっきり分かる。見え過ぎるのも考えもの。どこかで聞いた中国の故事を思い出す。馬を見抜く天才がいて、王から名馬を探すよう命じられた。弟子を使いに出すと、やがて1頭を連れてきた。どんな馬か、と王は尋ね、黄金の毛の雌、と弟子は答えたが、実際は黒毛の雄馬。

お前の弟子は毛色も雄雌の別も分からんのか、と怒る王に、「よくぞ肝心の脚力を見抜いた」と名人は弟子を褒めた。果たしてその馬は、千里を行く名馬だった。

人も一緒だろう。テレビ映りのいい人や口達者が優れた指導者とは限らない。惑わされずに、見るべきものを見る。分かってはいるが、見え過ぎるテレビの時代である。

情報の断片があふれ、暮らしを託せる「名馬」を見抜くのは難しい。しみじみそう思う昨今である。鮮やかな画面は明るいニュースが映えるし、うれしさが増す。旧年は、その逆が多すぎた。



漢字

2011-01-04 07:47:49 | Weblog
先の常用漢字追加で最も目立ったのが「鬱」(うつ)の字であった。読めばたったの2文字ですむ漢字の画数は29画もある。

画数の多さと、読み方の落差が大きい。書けなくても読めればいい漢字の代表とされるゆえんだ。「鬱」以上の画数を持っていて馴染みのあるのは「親鸞」(しんらん)「鸞」ぐらいか。

画数の多さと読める読めないは、あまり関係なさそうだ石川県と富山両県の名字は同じ西日本型で一番多いのは「山本」だそうだ。同じ北陸三県でも福井は「田中」が一番。

見えない文化の境界線が、名字から見えて面白い。能登に「東四柳」(ひがしようやなぎ)という名字がある。ふりがなは8文字になる。これが読み字数では日本最長の姓と言われる。

実は、大阪にも8文字の「南坊城」(みなみぼうじょう)さんがいて、日本一を分け合っている。普通は3,4字のルビですむ名字で、8文字はやはり異例である。

1文字で29画の漢字があるかと思えば、3文字で8個のルビを打つ名字もある。名字から見る漢字の面白さであり今風に言えば、島国で独自に発達した「漢字のガラパゴス化」である。

2011-01-02 08:36:26 | Weblog
梵鐘(ぼんしょう)は、つけばつくほどいい音になるという。裏返せば、できたての鐘の最初の音が一番悪いとも言える。

先月、京都の東本願寺の梵鐘が400年ぶりに造り替えられ、先日は高岡で製作された梵鐘が京都の高台寺に納められた。

それでも「最初の鐘の音」の話が出たという。毎日、心をこめて鐘をつき、歳月を重ねる大切さを肝に銘じるような言葉だった。鐘と同時に立派な撞木(しゅもく)(鐘をつく棒)もつくられる。

最近はハイテク技術の応用で、鐘に当たる先端部だけが木製で、真ん中は金属製の撞木がt登場している。いい音を出すには年期も必要だが、鐘と撞木の釣り合いが大事ということだ。

年期の入った夫婦、古い友人のような関係である。始まりが一番悪くても毎日良くなるとと考えれば、こんな楽しい日々はない。つらいことでも希望があれば耐えられる。苦労して、打たれたたかれて強くなる。

鐘がいくら立派でも、いい撞木がないと実力が出せない。大みそか、耳を澄ますと、遠くかすかに、色々な人生の呼吸が聞こえてくる。