前回、前々回に引き続き、北陸への旅の話 (3) になります。
2日目は、この日も、敦賀市内を観光します。
まずは、タクシーで「金ケ崎神宮」を目指します。山の中腹にあり、下の駐車場で降りて、あとは歩いて登ります。
山の麓には、最古の鉄道建築物の1つ、「旧敦賀港駅ランプ小屋」(当初・金ヶ崎停車場) という、昔のSLに付けた灯火ランプを置くレンガ造りの小屋がありました。
また、2019年に廃線となった、「敦賀港線」(北陸本線貨物支線) のレールが残っています。
ちなみに、白黒写真は、1972年5月20日に撮った敦賀港線を走る「C12-51」です。当時はまだ、蒸気機関車が貨車を牽いて活躍している風景が見られました。敦賀港駅には、転車台がないので、往路はバック運転で、帰路は、車掌車だけを連結していました。
港に面して、「赤レンガ倉庫」 (旧紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社) があり、横には、急行「わかさ」として活躍した、ディーセル客車「キハ28-3019」が置かれています。今、倉庫は、ジオラマ館やレストランになっています。
近くには、福井県PR役の「恐竜博士」もいました。
次に、港を見ながら歩いて、「旧敦賀港駅舎・敦賀鉄道資料館」へ行きました。
旧敦賀港のジオラマや、D51の3D写真が。
東京発ベルリン行きの切符を見ました。旅は、11日間で到着したようです。
明治末期から昭和初期にかけて欧亜国際列車が運行され、ここからロシア・ウラジオストク航路に乗り継ぎ、シベリア鉄道経由で、ヨーロッパを目指す人や荷物で賑わっていた場所です。
また、第2次世界大戦中には、リトアニア領事代理であった杉原千畝が発給したビザを持ったユダヤ人難民が、この地に上陸しました。(難民は約6千人と言われていますが、実際は2,033人という説も)
今回の話は、ここまでです。次回も敦賀市内見学と、続きます。
さて、宿泊したホテルで受信したのは、「びわ湖放送」です。
滋賀県のテレビ局ですが、敦賀は人の往来など湖北との結びつきが強いのでしょうね、県外局が見られるようになっていました。
いただいたベリカードです。(受信データは記入されていません)
琵琶湖の鳥・カイツブリを、キャラクターにしています。
「アミンチュてれびBBC」とも言っていて、「淡海人」(造語・シガケンミンの意) のようです。
また、開局50周年に作られたと思われる、ステッカーをいただきました。
2日目は、この日も、敦賀市内を観光します。
まずは、タクシーで「金ケ崎神宮」を目指します。山の中腹にあり、下の駐車場で降りて、あとは歩いて登ります。
山の麓には、最古の鉄道建築物の1つ、「旧敦賀港駅ランプ小屋」(当初・金ヶ崎停車場) という、昔のSLに付けた灯火ランプを置くレンガ造りの小屋がありました。
また、2019年に廃線となった、「敦賀港線」(北陸本線貨物支線) のレールが残っています。
ちなみに、白黒写真は、1972年5月20日に撮った敦賀港線を走る「C12-51」です。当時はまだ、蒸気機関車が貨車を牽いて活躍している風景が見られました。敦賀港駅には、転車台がないので、往路はバック運転で、帰路は、車掌車だけを連結していました。
港に面して、「赤レンガ倉庫」 (旧紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社) があり、横には、急行「わかさ」として活躍した、ディーセル客車「キハ28-3019」が置かれています。今、倉庫は、ジオラマ館やレストランになっています。
近くには、福井県PR役の「恐竜博士」もいました。
次に、港を見ながら歩いて、「旧敦賀港駅舎・敦賀鉄道資料館」へ行きました。
旧敦賀港のジオラマや、D51の3D写真が。
東京発ベルリン行きの切符を見ました。旅は、11日間で到着したようです。
明治末期から昭和初期にかけて欧亜国際列車が運行され、ここからロシア・ウラジオストク航路に乗り継ぎ、シベリア鉄道経由で、ヨーロッパを目指す人や荷物で賑わっていた場所です。
また、第2次世界大戦中には、リトアニア領事代理であった杉原千畝が発給したビザを持ったユダヤ人難民が、この地に上陸しました。(難民は約6千人と言われていますが、実際は2,033人という説も)
今回の話は、ここまでです。次回も敦賀市内見学と、続きます。
さて、宿泊したホテルで受信したのは、「びわ湖放送」です。
滋賀県のテレビ局ですが、敦賀は人の往来など湖北との結びつきが強いのでしょうね、県外局が見られるようになっていました。
いただいたベリカードです。(受信データは記入されていません)
琵琶湖の鳥・カイツブリを、キャラクターにしています。
「アミンチュてれびBBC」とも言っていて、「淡海人」(造語・シガケンミンの意) のようです。
また、開局50周年に作られたと思われる、ステッカーをいただきました。