こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年3月16日 月曜日 「偶然」 ~Snow Effect "Joy Toy"~

2015-03-16 23:42:32 | 音楽帳

8日の日曜日、入谷あたりを徘徊していた。
往来は多いが狭い道路脇の道。そこに育つ樹に、きれいな花が咲いていた。
てっきり梅だと思いながら、見上げて、そしてシャッターを切った。

その樹の前の家に住むおばさんが出て来られた。軽く会釈をした。
おばさんが近付いてきたので「きれいですねえ。育てるの大変でしょう。」と投げかけた。
そうしておばさんとの会話が始まる。

話すうち、それが“さくらんぼ“の花なのだと知る。
「東北のさくらんぼほどじゃないですけど、実がちゃんと成って、それも甘くておいしいんですよ。毎朝ここは勤める方が多く通るので、実が成る頃にはつまんで食べて『おばさん、おしかったよ』と声を掛けてくれる人も多く居るんですよ。」そう言う。

育てるのにどうしているんですか?とお聞きすると、お米の研ぎ汁を上げているそうである。
ここから上野公園は近いが、上野の桜が咲くよりも前に、さくらんぼの花は毎年こうして咲いてくれるらしい。
きれいですね、というと、わが子のように「ぜひ、写真に撮ってあげてください。」と言う。

路側でかわいそうなのが、アスファルトがさくらんぼの根本まで来ていて苦しそうなこと。
それを何とかしてあげたいですね、と言うと、もう少ししたら木の板で囲って土を入れるつもりだと話してくれた。

***

いっぽう近所のもくれん。
昨日、開花前夜と言いながら、今夜の雨降り。外での用事を済ませるために歩き過ぎてしまい、クツから雨が入りびしょびしょ。
つい怠けて、もくれんまで行けずに帰った。

今夜CDをひっくり返しつつ、久しぶりにスノウ・エフェクトの「インビジブル・ガーデン」という2007年の作品を聴いていた。
当時、ジャニスでレンタル落ち中古CDの中から、偶然発見したもの。

このCDを発見した頃、コンピレーションCDを作った際に、このアルバムでも特に好きな「ジョイ・トイ(Joy Toy)」を収めた。オンワード樫山の「23区」CMのバックならぴったりという具合の心地良い曲。
なんとかこの曲を伝えられないか?と思って探っていたら、温泉街で行ったライヴの映像を発見した。
今夜はこの曲を贈りたい。



『渋響』shibu-Kyo/ONSEN SOUND&ART VILLAGE(2009年3月28日〜3月29日) 
長野県・渋温泉(下高井郡山ノ内町渋温泉) 


この「ジョイ・トイ(Joy Toy)」のクレジットを今夜眺めていて、今になって発見してしまった。

”オリジナル・ヴァージョン・プロデュースド・バイ・モイチ クワハラ”。
桑原茂一さん(スネークマンショー)とのかかわりがあることを知って、なるほどと膝を打った。
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2015年3月15日 日曜日 「花咲く前夜」

2015-03-15 23:04:52 | 音楽帳

一週間溜まった疲れから、珍しく長く眠った。
予想外の11時過ぎに起きると、外はくもり。長く眠るのは体力がある証拠。そう言われているが、そうではなくて単純に心身ともに疲れていたのだった。

安住さんのラジオ放送を聴き、お茶を飲む。意外と寒い。
午後歩き出すと晴れ間が見え出す。
島を回遊し、シャッターを切りつつ橋を渡って台東区へ。

もくれんははち切れそうなつぼみ。今にもパッと開きそう。今日あちこちで樹々を見るが、どの樹も暴発寸前で、明日にはいっせいに開花しそう。

山谷を通って歩いていると三ノ輪が見え出す。しかし産まれ育った家のある場所には近付けない。

具象/現実世界から消えてしまった僕の家とその通り。
それでも、家族が集まれば、あの家の狭さやどこに何があり、あのときあんなことがあった。そんな話に花が咲く。
もはや抽象の世界であろうとも、みんなの頭には、その姿がちゃんと描かれて、僕の家は今でも存在している。

遠巻きに歩いて、大関横丁からバスに乗る。210円の旅。
荒川区を抜け、西日暮里、道灌坂下、D坂下へ。バスは坂を上って、駒込学園、向丘、白山、本駒込、千石へと進む。

自分が数時間かけて歩く道を、バスはやすやすと数分で駆け抜ける。
どこまで行っても一律210円。たった210円で車窓から愛おしい僕の東京風景が、こんな時代でも楽しめる。

巣鴨地蔵通りでバスを降り、数週間ぶりに通りを歩く。
プレイヤーに入れた音楽は、イーノ&ジョン・ハッセルの「第四世界の鼓動」に変わる。
巣鴨地蔵に漂うお香の煙とその音楽が不思議なシンクロをする。

バスで通過してきた道を、あたかも戻るように歩く。といっても脇道に脱線脱線を繰り返して。
次第に腰痛が出始めてしまい、歩くスピードも距離も、制約を受ける。
いつも目の前の興味だけで、明日も考えず右に左にと歩みを重ねるようには行かない。

まあスピードが落ちたら落ちたで、見える風景の見え方もそれに伴い変わっていくから、それはそれで愉しい。



■ルパート・ホルムズ 「ヒム」1980■

「エスケイプ」に続いてLP『パートナーズ・イン・クライム』から2枚目のシングル。
まだ自分の中で、アメリカ、ニューヨーク、マンハッタンへの憧れが続いていた頃の一曲。

「エスケイプ」もこの「ヒム」にも、いわゆるウエストコーストサウンドへの幻想を抱く中、そのイメージと底通するおおらかさを感じていた。今でも大好きな曲。

「ヒム」はビルボードチャートに1980年3月8日に9位。前週16位からトップ10入り。
この曲は3月29日・4月5日と6位まで行くが、1位には届かなかった。その頃、1位に居たのは、何を隠そう偉大なるピンク・フロイドである。




















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2015年3月14日 土曜日 「もうすぐ咲きます。」

2015-03-14 22:54:28 | 音楽帳

■13日の金曜日■
金曜日の朝の路。桜、ハナミズキなど樹々の芽が大きくふくらんでいるのを確認した。きれいな黄緑いろした若い芽。ここ数日のあたたかさのお蔭。

そんな昨日の深夜。島の帰途を歩くが、ネコたちに遭わない。おなじみのメンバーは誰もいない。
もうみんな寝ているんだろう。そんな静かでおだやかな島の夜。
外で過ごすものたちには、寒さの心配もしないで良いから、みんな熟眠の夜だったのかもしれない。

いっぽう自分は、薄いお湯割りを呑みつつ音楽を聴いたり・寅さんを見たり・・・。
眠らねばならないのに、堕ちていかない。

■本日・ウィークエンド■
結果、4時に寝て、7時のアラームに起きる。しんどくてじたばたし、充血する眼に目薬を差し、深い緑茶を飲み、朝風呂に浸かり、何とかかんとか外に出る。
都心・仕事場への朝は人がほとんどいないすがすがしさはあるけど、陽も黄色く、空の蒼さのあざやかさ度合いも低い。花粉なのか黄砂なのか、そんなようなものが空中に舞っている気がする。

朝9時ごろには、まだ朦朧として眠くていっこうに仕事に手が伸びなかった。毎年3月は疲れることが多い。
資料やパソコンを前にして思案。ぼんやり。
んん~と両手を頭の後ろで組んで、椅子にもたれて考えを巡らせているうち、つい眠りに落ちていたり。

今日の付き添いラジオはTBS。土曜日なので、インターFMから切り替える。
数杯温かいお茶を頂くうちに、やっと心身にエンジンが掛かった。そこから調子が好転した。

電話も人も少なく、落ち着いた日になっていく。
日没後だけどまだ周囲が深いブルー。そんなタイミングに仕事場を去り、風の中に出る。
2時間くらい街を放浪した。



■ルパート・ホルムズ 「エスケイプ」1979■


鳥さんたちは春の気配を感じて勢揃い。


外を歩けば、ジンチョウゲの香りが漂う。
花そのものも美しいけど、この花の香りが街を包むようになると、春を感じる。




中学生になって、毎週土曜日は半どんで、昼過ぎに帰るとFM東京の「ポップス・ベスト10」のチャートをノートに付けながら、光が満たす部屋で放送を聴いていた。
そんな頃、ルパート・ホルムズに出会った。

なんで今この曲なのか?は、聴いていた季節が春だったので。
調べるとビルボードのチャートには、1979年12月1日に6位と、前週の12位からジャンプアップして、ベスト10に登場している。

LP4枚を出しても売れなかった下積みを経て、初めて日の目を見たルパートさん。
このジャケット写真の彼は、学者みたいな感じ。
この曲「エスケイプ」は3週後の12月22日にビルボードチャート1位となったもの。

三ノ輪の部屋のベッドに転がり聴いていると、目の前にあった大きなすりガラス窓から、天気の良い日はたっぷりの日差しが射し込んで幸福感に満たされた。
この曲を聴くと、そのシーンと、親がいっつも焼いてくれた、シャケの良い匂いがぷーんとしてきたのを想い出す。
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2015年3月9日 月曜日 ホルガー・シューカイ 「ペルシアン・ラヴ」’81(’79発表)

2015-03-09 22:51:17 | 音楽帳

どれくらいぶりだか?女の子たちに混じり場違いな男は、デパートの食料品街の派手やかな色合いのなか、楽しみつつ・悩みながらうろうろしていた。
黒いサンショウウオには、照明が明る過ぎてまぶしい。

迷うも愉し、そんな帰路。
珍しく”用事”という仕事用語ではない時間を過ごして、ほてった顔で電車ホームに行くと、人身事故。
さらに、島に着けば、驚くような土砂降りの雨に逢う。

ずいぶん怠けていたが、そろそろ天上の音楽/世界の音をまとめねばならない。
そう思い、帰って皿洗いを済ませて音楽に向かう。細野さんの「コチンムーン」を聴きつつ、とろとろ思考をめぐらせる。

どうも今年のこの時期は、あの1981年から1982年への流れに行きつく。
”天上の音楽/世界の音”CDの一曲に収めたいと思っていて、最近朝夕聴いているのが、ホルガー・シューカイ先生の一番有名な曲「ペルシアン・ラヴ」。
この曲は、前述スネークマンショーの2枚目にしてラストアルバムである”死ぬのは嫌だ、怖い。戦争反対”に収録されている。

ホルガー先生の存在を初めて聴き知った喜びは、ここでのこと。
さきほど「シューカイ」と書いたが、当時は「チューカイ」と呼んでいた。
名前の綴りは「Czukay」で、シューカイのほうが発音に近いらしい。

「ペルシアン・ラヴ」を収録したアルバム『ムーヴィーズ』が国内発売されたのは1981年11月25日のことだが、「錻力の太鼓」や「テクノデリック」等々に夢中で過ぎてしまっていた。
そんな自分を刺激・触発したのが、1982年1月発刊のミュージックマガジンにおける”1981年のベストアルバム”特集。ここで当時寄稿していたピーター・バラカンさんが選んだ10枚の1枚が『ムーヴィーズ』だった。

・・・順番はどうでもいいけど、とにかくホルガーおじさんのアルバムは断然ナムバー・ワンであります。
「ペルシアン・ラヴ」を春からずっと聴き続けてまだ飽きないという魅力は今頃珍しいものだ。(ピーター・バラカン)


これが発火点となり”このLPレコードを、受験を終えたら買おう”と思って、レコードを買って聴き始めたのが、1982年3月ごろのことだった。

■Holger Czukay 「Persian Love」1979■
彼が「カン」のメンバーであることを知り、カンのアルバムにまで手を伸ばすことになるのは、その後春から夏にかけてのことだった。

「ペルシアン・ラヴ」を聴いていた頃、雑誌の切り抜きで当時大事に箱に入れていたのが、杉山寧さんのこの絵画。
偶然なのだが、私の中ではこの曲とこの絵がどうしても切り離せないものとなっている。

杉山 寧 「水」








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2015年3月8日 日曜日 小雨・7℃ 冷たい空気に包まれた朝

2015-03-08 10:05:21 | 音楽帳

天気予報の方が”ここから不安定な天候が続く時期に入りますので”。
そう言うのを聞いたのは、先々週くらい。
もう何十回もこの時期を迎えている。それでも、初めて知ったような聞こえ方をした。

三寒四温、と昔の方が命名したことにはいつもなるほどと思う。
予報の方の言葉も含めると、春めいたり冬に戻ったり、降ったり晴れたり、ここいらの陽気に納得する。

カーンという垂直に立った空気、蒼い空・澄んだ視界の冬の日も、もう訪れない。
ひたすら毎日喜んで、凍てつく空気の中にすすんで分け入っていった日は、もうない。

と言っても、どんな日も歩く。
秋冬は好きだが、にんげん界の春はどうにも。嫌悪感がずっと去らず。
不快な類の人の群がり・狂騒する声が聞こえると、その場を回避し立ち去る。

そうして、冬越えをした草木・生き物たちの生命感のほうに眼をフォーカスする。
どんなことがあっても、花が春を迎えて咲く。そのさま。

歩いてさまざまなものと出会うことが愉しくてしかたがない。
意味や目的も何もない。それが愉しいのだ。

昨日、元旦以来の実家に行き、親が元気な姿を確認し安堵する。
そのいっぽうで、世界はとてつもない。

神保町界隈などをうろつくたびに、つい読まねばと思う本を買ってしまう。
追加追加がなされ、数冊並行で本を読むことになり、なかなかそれぞれが読み終わらない。

やっと辺見庸さん「絶望という抵抗」、適菜収さん「バカを治す」を読了。森山大道さん・吉本隆明・三島さん・ゲーテなどが同時進行状態。

もっと好きで楽しい本を読めよ、と言う心もあるが、どうもこういった本に傾いてしまう。
それは自分と周囲の世界への不安。その源を知りたい。それと、兄への幼少以来のコンプレックスが根底にある。
とうの昔に分析された問題。

永遠に超えられない兄という存在への抗いであり、たとえ本など読んだところでバカは治せず・超越不可能なことも分かり切っている。
それでも諦め得ない抵抗。実にバカバカしい永遠に辿り付かない抵抗。

夜明けに目覚めてしまい、音楽を聴いていた。

■坂本龍一 「Water’s Edge・君と僕と彼女のこと」1994■

彼女は約束をした 夏が来たら暮らすことを
ボクは仕事を変えた かせぐために
昼も夜も働き
君には打ち明けたはずだと 信じ続けていた

寒い朝
突然に 彼女は消えた
ボクたちは もう何もさがさないだろう
それぞれに街を去り 会うのをやめた
三人の週末は、色を無くす

彼女はいつもの通り その日のすべてを話した
君に会っていたことも 知っていた
ボクはデキた奴じゃない
君を殴り飛ばし 友情を笑えば良かったのか?

ボクたちは10年後 「あの頃」のように
波を受け 風を切り 海原を行く
それぞれの家族をむかえ
輝いた航跡を・・・振り返らない











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2015年3月4日 水曜日 音楽備忘録:ガムラン 1980-1982 その3

2015-03-04 23:59:35 | 音楽帳
今夜の月と梅
*たにんにはどーでもよいであろう(でよいのか)余談*
かがみを見るたびに「おいおい」となることが多い。
2013年夏以降から年末にかけて、母親が死の淵まで行く事態になり、私から視える周囲の風景が一変して見えるようになった。
「おいおい」と我に帰ったのはこのとき以降の心身状態。

昨年2014年は、睡眠導入剤を絶つことが出来た。元は町医者で10種類のヤクを投入され肝臓を壊すに至ってからの再生作業も、2mg1種類、一日一錠にという今。

昨年2014年から次第に現れ始めたのが、白髪だったり・激しい眼痛だったり・眉間の消えないシワだったり。こういうと何であるが、いくらつらいことがあっても我慢・辛抱だけは取り柄で、あまり歳を気にしないで生きてきたので、今になって「おいおい」となる。

年末から白髪は少し異様なほど加速度を増して、ヒゲなどに出てくる。成長激しい。
眼はすっかり”ローガンズ”で、スキッとする目薬は日常かかせない。

シワはある日、かがみで「なんでこんな場所に黒ずんだ煤(すす)が付いているんだ」とタオルで拭くが消えない。そこから数日後、やっとそれがシワなんだと気付く。
産んでくれた親のおかげで、皮膚だけはつるつるで生きてこれた。女性にうらやましいと言われることが多かったが、そういうものかと唖然とし、言葉を呑み込む。

心は『その程度、生きられることに比べれば』と言うが、それはそれで唸る。

救いと言えば、腫瘍が肥大化し悪性の疑いもあったが、MRI結果で「たぶん」と前置きをされたうえで「悪性とは思えない」という診断が下り、肥大化も一定レベルでとどまっていることから、いったん手術は保留となっている。小康状態というもの。

思い込みとしては、2013年後半日々切迫した状況の疲れが、2014年以降におっかぶさっているだろう、と勝手に解釈している。
それでも、それらは些細なことなんだろう。長年付き合えた仲間に囲まれて、今は私利私欲から解脱し合った者同士・良い距離を保ちながら、そういった人と経済合理性とは別のまじわりをしながら生きていられる。そのありがたさを「人事(じんじ)=ヒトゴト」という雨風の吹く中思う夜である。

*本題*
1980年ワールドツアーの反動と逆襲が、1981年「BGM」「テクノデリック」という2枚の作品に結実したYMO3人。
YMO破壊活動の最終幕としての「YMOウィンターライヴ1981」で、それまでのイエロー・マジックを当事者はこなごなにまですべてをぶち壊した。

明けた1982年は、YMOという名前はあれども、それぞれのソロ活動に入る。
3人それぞれの対立があって、この1982年にYMOは解散を決定される。

1982年春、私は寿司詰め山手線に毎朝揺られ・大塚駅で降り、駅前風俗街を抜けてばりばりの男子校に通い始めた。そんな春に「YENレーベル発足」を知る。
ここで細野さん&幸宏さん/教授という分裂が目に見える形で現れた。

アルファレコードからのごほうびとして、細野さんは自由に使えるLDKスタジオと自分のレーベル「YEN」を手に入れる。
そのレーベルから怒涛のような初回作品が発売されたのは、5月のこと。

細野さんの「はらいそ」以来の作品『フィルハーモニー』、ゲルニカの『改造への躍動』(細野さんプロデュース)、幸宏さんの『ボク、大丈夫。』、(立花)ハジメちゃんの初ソロ『H』(幸宏さんプロデュース)等々。。。

細野さんのフィルハーモニーは、やはり”民族音楽-現代音楽-リピートミュージック”という軌道上で創られた。制作途中で届いたサンプリングマシン「イミュレーター」と名機プロフィット5のみで制作されたという。
当たり前、に満足しない求道師・細野さんは、またもや大衆受けをしない音に踏み込んでいく。音楽雑誌には理解されず、セールスも度外視された世界。

当時夢中だったフィリップ・グラス、スティーヴ・ライヒ、マイケル・ナイマンなど「ミニマル・ミュージック」の要素と、それまでつちかってきた土地土地の民族音楽・エスニックな音楽が、この作品では細野さん流に調理されている。
そんな『フィルハーモニー』のA面3曲目にガムランが登場する。

曲は「ホタル~ルミネッセント」。この曲名はドラマ「北の国から」の蛍ちゃん(中島朋子)をイメージして付けたものだという。

(今夜は時間切れ)






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2015年3月3日 火曜日 音楽備忘録:ガムラン 1980-1982 その2

2015-03-03 22:31:04 | 音楽帳

な~ぜ「1980-・・・」という表記なのか?は、トーキングヘッズの「リメイン・イン・ライト」が1980年11月の国内盤発売だったからである。

昨日書いたことに、記憶間違いを発見した。「リメイン・・・」の端っこを発見したのは(たぶん)1981年の早い月日だった。それはシングル盤で購入した「ボーン・アンダー・ザ・パンチズ」だった。
その後、本ちゃん盤LP「リメイン・・・」に向かったのか?と言えば、そうでもなくて、次に来たのは、NHK-FMで放送された来日ライヴ。「サイコ・キラー」から始まる完璧なライヴテープをその後ずっと聴き続けることとなる。
ここで本格的にトーキングヘッズの存在を知ることとなった。

そのライヴテープで満足していた折、1981年の秋に兄が持っていたカセットテープ(リメイン・イン・ライト)を借りることが出来たのである。
しかし、当時「ガムラン」という意識は無かった。「ワンス・イン・ア・ライフタイム」のバックでキラキラ放射状に広がる音はダイレクトなガムランではないが、明らかにガムラン音楽からの引用だった。

年が明けた1982年春間近、結果はどうあれ高校受験が終わった頃、トーキングヘッズのリーダーであるデヴィッド・バーンのLPを買って毎日聴いて過ごしていた。
バーン初のソロは、トワイラ・サープのダンス「キャサリン・ホイール(回転花火)」というお芝居のバックグラウンドミュージック。
このアルバムにも随所にガムランの影響の痕跡が現れる。
イーノと共作した曲や、バーンとイーノが2人でベースを弾く「2人の兵士」なども含めて、ようく聴き込んだ一枚。

実はそのLPレコードは抜粋したもので、その後カセットテープのみで72分・23曲全曲が入ったものが発売された。当時は聴くことはかなわず、CD化されて買い・LPに未収録曲を聴くことが出来たのは90年代以降。
ただ未収録曲を聴いて感じたのは「LPレコードで充分」。未収録曲に面白いものはなく、LPのAB面にぎっしり良い曲が詰まっており、重要なエッセンスは全て網羅されている。

この「キャサリン・ホイール(回転花火)」と同時期に、サイアーレコードは『実況録音盤』という2枚組のトーキングヘッズのライヴ盤を発売する。「リメイン・イン・ライト」ツアーのものだが、NHK-FMのラジオ録音のほうが素晴らしく、なんでまたこんな良くないテイクをレコードにするのか理解できず、ラジオで数曲聴いただけで通り過ごした。

「キャサリン・ホイール(回転花火)」にはガムラン調の曲が多くおさまっているが、そのカラフルさや録音した人の声などを切り貼りする形は「ブッシュ・オブ・ゴースト」の創り方の延長線上にある。しかし、イーノが意図した「いけるところまでは延々に同じフレーズを繰り返す」というアフリカ音楽を組み込むための鉄則は、この盤では意図されていない。

■David Byrne 「His Wife Refused」1982■
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2015年3月2日 月曜日 音楽備忘録:ガムラン 1980-1982 その1

2015-03-02 23:31:21 | 音楽帳

ガムラン音楽を初めて知ったのは、1981年だった。その前にどこかで聴いているはずであるが、記憶にあるのは1981年のこと。

スネークマンショーの2枚目LP「死ぬのは嫌だ、怖い。戦争反対」という、半分本気で半分揶揄した微妙なタイトルのレコード。白ならぬ”黒い羽”が付いたレコード。
当時、桑原茂一がバリ島に行って録音した「ガム・バン」というガムランが入っている。このLPは1981年10月発売なので、これがガムランを聴いた初めなのかもしれない。

同じ1981年。
発表より少し遅れて、トーキングヘッズ「リメイン・イン・ライト」とそのベーシックトラック「ブッシュ・オブ・ゴースツ」を聴いた。ここでは様々な民族音楽の要素がコラージュのように取り込まれ、カラフルな色合いでもって、アフリカ的に同じフレーズが繰り返される。その音の種類の一つにガムランの刻印が見てとれる。

あるいはこの1981年11月21日発表の問題作。
「BGM」に続いて発表されたYMOの「テクノデリック」。

ガムランの影響が顕著に現れる「新舞踏」。
ケチャはこの「新舞踏」ではまだ穏やかだが、教授の「京城音楽(Seoul Music)」では、サムルノリを韓国に見に行った際の情景描写を語りながら、ケチャの掛け合いがこの曲のメインで鳴っている。その声の拍子とガムラン的な音がバックで鳴りつつ重なり、独特なグルーヴ感を産み出している。
(この曲は後に、映画「AKIRA」サントラで芸能山城組が演奏した音楽に繋がって行く。)

■YMO 「京城音楽(Seoul Music)」1981■
短秒だけループする初代サンプリングマシン、松武秀樹自作のLMD-649が描く反復は、「BGM」とこのアルバムでの着眼点であった民族音楽-現代音楽-リピートミュージックの新しい解釈として、プリミティヴと繋がる世界を見せてくれる。
祝祭で鳴らされる音の繰り返しがトランス状態にいざなうように、これらの音楽にある呪術的な繰り返しは、別世界への扉となる。

YMOへの民族音楽の導入は、(現代音楽もそうだが)教授によってもたらされた。
世界各地を巡り歩くフィールドワークを通じた研究を行っていた民族音楽の探究者・小泉文夫先生。そのような道を目指していた坂本龍一が、民族音楽に詳しかった。
それをポップミュージックのフィールドに持ち込むたくらみの発火点は、教授による。

じゃあ、さかのぼった前作・アルバム「BGM」の発想は?というと、それは確かにプロデューサーである細野さんの指示だが、現代音楽の発想がふんだんに盛り込まれている。
それも明らかに教授経由で教えてもらい興味を持った細野さんが実践に踏み込んだものであり、またこの構想は「B-2UNIT」のコンセプトと軌を一にしたものだった。

時代に敏感な桑原茂一先生がガムランをLPに入れたように、みんなこの時点で、バリ島のガムランに憧れていた。


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2015年3月1日 日曜日 「天上の音楽」

2015-03-01 23:58:18 | 音楽帳

かつて感銘を受けたNHKドラマに「天上の青」という小説をドラマ化したものがある。
その小説は読んでいない。偶然土曜の夜にテレビに映ったものに引き込まれてシビれてしまったのだった。

細かいシナリオは覚えていない。というのもそれを録画したビデオテープはあるのだが、肝心の再生機が壊れている。ゆえに事実と異なることを前提とする。

脳が記憶するイメージの断片では、海が近い地方が舞台である。
そこに現れたか逃げてきたかの男は殺人者である。

海の近くの古い家屋に独りで住まう女。その庭は見事な草花が実っている。
日々どうという変化はない、質素な生活だが、そこには豊穣な美しい暮らしがある。

女が海を観に行ったときに、浜辺の小屋で殺人者と出会い、そこから恋に堕ちる。
女に名前を尋ねられると、男は”天上の青って呼ばれてる”そう言う。

男は佐藤浩市、女を桃井かおりが演じる。

桃井さんは、けだるく発語し・たばこを吹かすお姉さんとして、同じNHKドラマ「男たちの旅路」や日本テレビの「ちょっとマイウェイ」でその存在感に恋し・少年時代ノックアウトされて以来だが、このドラマでつつましく生きる女を演じる桃井さんがひときわ美しい。

一方、佐藤浩市さんに惚れ込んだのはこのドラマだった。
それまでも佐藤さんを観てはいたが、この人の味わいに出会ったのはこのドラマだった。

天上、とはさまざまな意味合いを含む。
”あの世”でもあるし、それくらいの気持ち、という意味で”天にも昇るような”という表現でもある。

とある嬉しいリクエスト(と勝手な自分への引き寄せ)があって、実はとあるお店に流す音楽、そして、それを渡す人に選曲をしている。
勝手に音楽を聴くのは良いが、いざTPOを踏まえた選曲となるといつもの”ああだのこうだの”が始まってしまい、容易に選曲が進まない。

兄やお袋に渡すときも同じで苦しむが、その一方では、どんな風にとらえるのかな?
と聴いたのちの音楽評を訊くのが楽しみでもある。

細野さんの近作に「ヘヴンリー・ミュージック」という作品がある。
今になって、先人たちが創ってきた愛する曲をカバーしたもの。
そのジャケットは、空。そしてそこに停泊する鳥。
とても良い写真のジャケット。

「ヘヴンリー・ミュージック」というのを、私は勝手に”天上の音楽”と訳す。
これも実は、自分のほうに寄せるための解釈だが、今選曲したCDを作るに当たってテーマは何か?と言えば、「天上の音楽」なのだ、と思っている。

そうしていろいろ家の中をがさごそしつつ、買ったり借りたりしたはよいが、ロクに聴けていないCDを含めて”店を広げて”聴いている。

そういう中で最近痛切に感じる一端でもあるが、この100数十年の音楽だけを聴いていてはいけないということ。
たとえば、本当にリラックスすべき(この部屋ではない)場で聴いて、本当にリラックスするのか?と問うと、イーノやアンビエント周辺はともかく、ほとんどの音楽が起承転結やあるベクトル・指向を持っていて役に立たない。
そんな折に、ラジオ「オッターバ」で中世の音を聴いたり、CDで民族音楽を聴いたりすると、いかに我々が極めて狭い領域の音しか聴けていないのかが明白に分かる。

先人たちが築いた音楽を素晴らしいと思い、そのエッセンスを参照した音楽。
80年代初頭に、エスニックな(この物言い自体が物議と論争を巻き起こしたが)要素を取り込んだ音楽三昧。
それが起点となり、源となる音を聴く追及が出来たのはありがたいことだった。
PIL、トーキングヘッズ、イーノ、ポップグループ、スリッツ・・・・etc

今考えているのは、長い歴史・伝統に裏付けられた音楽とここ100数十年の音楽を交互に配置してCDにすること。流して聴くと別の像が浮かびあがるはずだ。



■YMO 「新舞踏」1981・ウィンターライヴ■



全然関係が無いが。
昨夜、久しぶりに寅さんを視て、相も変わらずうなっていた。好きなもので。。。
1984年公開の作品。
”マドンナ役”の中原理恵さんが、鬼のように美しい。
寅さんは素敵だが、当時、現実世界で彼女に愛されていた幸宏さんをうらやましく想う。
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