【わが島の森。その葉に着いたセミの抜け殻】
お盆。ということで、今日は実家に家族集合。
永遠に不死身、なる(じぶんが)勘違いをしたお袋。
両手を片手づつ骨折するに始まり、一気にだだだだっと身体的不調に堕ちていくだけ。
そのことだけへの不安が、集まった「われわれ<=兄・お義姉さん・じぶん>」の内心の真実だろう。
「男」なる物が持つ不幸は多いに含みながらも、申し訳ないが親父へ会うための機会では無かった。
食を作り・一緒に囲み・昔の話しをし、そして、見るに値しないものしか撮さないTVは、単なるモニターに変わり、兄が持ってきた映画やDVDを皆で見る時間となる。
近時、そういった流れ。
今日は、70年代に観ていた「木枯し紋次郎」、そして、松本清張原作の映画「鬼畜」。
名優・緒形拳が、彼ならではの、どうしようも無く・情けなく・頭をポリポリ掻きながら、惑いを演じる様。
そこに、普段の顔も能面。笑うと一層怖い、美人の岩下志麻。
じぶんが、つい両親の前で吐露した話し。
きかん坊のじぶんに末兼ねて、お袋が、脇に抱えて数十メートルにあった公園に捨てに行った話し。
今では笑いで済むものが、当時のじぶんにとっては恐怖であり、はだしのまま放られて、その夜の公園から泣きながら母の後ろ姿を必死に追いかけて走る様は、心底に未だ記憶されたショット。
愛憎とは言うが、親と子は永遠にその間を、お互いの誤解や誤釈を含みながら、揺れる。
親や兄弟との機会を、じぶんが今、貴重に思う理由。
それは、容易に騙され・いざなわれ・マインドコントールされた、社会におけるじぶんの確認の場。
そういう「表層的」では無い・ルーツを確認し、奇妙にねじくれた我に気付いて補正してくれる場面でもある。
【おじいちゃんが1月に亡くなり・7月にじぶんが出生したからだけではないが「おじいちゃんの生まれ変わり」と言われるじぶん。隔世遺伝で両親両方に似ていないが、おじいちゃんに似ているじぶん。/この写真は、時間を逆転させたかのように、おじいちゃんと初めての子供=幼少のお袋。わたしが大好きな写真。】
昨日一日、ノリやハケやハサミを使いながら過ごした。
それは、幼い頃のじぶんと変わらない行動。内的に閉じた世界。
今日も3人の帰り道、短い時間だが、親抜きの中で会話して別れる。
兄は昔の自室から都度、昔読んだ色褪せた本を選んで・持って帰る。
その1冊は小松左京さんの本であり、過去一緒に仕事をした文学家の1人という。
彼の死以降、小松左京のしてきた仕事がおざなりになっている、と言う。
そのことへの掘り起こしの流れが、やっと始まった、と兄は語った。
それを聴きつつ、アホな弟が言えた言葉は「ワールドハピネス」に関してのこと。
主催者が、どうターゲット層を抱いているのかは不明だが、もう6年以上となる=中高生であれば、一番密度の濃い時期を経過し終えたこととなる。
1年ごときで様相が様変わりするが、年々続く催しである「フジロック」とは異なる「ワールドハピネス」。
そのポジショニングはいかがなものか。。。などと。
最後の時間切れで言ったこと。
「教授~」「幸宏~」とは叫べど、「細野さ~ん」と言う者が少ない様は、30余年前から変わらないね、と。
■イエロー・ミュージック・オーケストラ 「開け心~磁世紀」(ワールドハピネス2012)■
音楽が本当に好きであれば、影響を受けた源流を辿っていくのが、あたり前の流れと思っているのがじぶん。
例えば、批判のキズを受けながらも世界の音楽を知っていた「ミュージックマガジン」の中村とうよう氏の紹介する世界のあらゆる音楽を、中高生の頃背伸びして聴いたように。
あるいは1982年「スタジオテクノポリス27」以降、ピーター・バラカンさんからブラックミュージックを教わったように。
あるいは、未だ教わることしかない細野さんから「デイジーホリデイ」でルーツとなる音楽を聴き続けていたり。。。
じぶんの中で固まってはいないのだが、近時、幸宏のフットワークの軽さに、彼の若すぎる様に、正直、わたしの中で、若干の疑問符が付いている。
非常に感性鋭く・バランスを保つ才能には長けている。
YMOも本来は、細野さんが創ったバンドだが、反感むき出しの問題児=教授を抱えながら、その2人の間のバランスを補正してきたのは、幸宏の貢献だと思っている。
また、結果的に80年代のこういったテクノ/ニューウェイヴ/アフターYMOにおいても、均衡を保ち得たのは(細野さんは冗談交じりに[でも、シリアスに]言うが)幸宏のお陰であるのも事実だろう。
しかし、一方で、両異端である教授・細野さんが、それぞれ悩みつつ獲得し得た新境地を、幸宏が得たか?と言えば、彼はポップフィールドにおいてはそうかもしれないが、果たしてどうなのだろうか?
教授・細野さん共に、年輪と老いを音楽の深化としてきたが、幸宏は常に若い。
それが、もやもやして仕方が無い。
***
かつて、自らの人生をかけて、三島由紀夫は川端康成の家を訪れ、川端康成の力あって文壇デビューを果たす。
2人の文体は全く別。それでも、師弟関係はずーっと続いた。
三島由紀夫のパフォーマンスをも含む一連の彼の言行・文学。
それが、欧米での日本文学作品最初の翻訳業務としてベースを築いた中で、川端康成がノーベル文学賞をもらう。
彼は、それをちゃんと「三島くんのお陰」というセリフに込めている。
その後、三島が作った自主防衛隊としての「楯の会」一周年への挨拶を、三島由紀夫は川端康成に申し入れに行く。しかし、三島は川端に無碍に断られる。
このことをきっかけに、2人の間には微妙な距離が生まれ、三島は「川端は、他人の死を喰いものにして、生き延びているだけじゃないのか?」なる挑発発言をするに至る。
結果、三島は市ヶ谷駐屯地で割腹自死を行い、その場に向かった川端康成は、事件現場への立ち入りを阻止される。
呆然と葬儀委員長として川端康成は、2年後にガス自殺を遂げる。
***
奇妙な、相変わらずの精神病的余談を挟むこととなったが、YMO3人の有様にも、じぶんは微細な3人の有様の違いの中で、幸宏にポール・マッカートニーを重ねてしまう。
3人の音楽は全部後世に残るものだが、幸宏の有様がどうにも不可思議に見えてきた。
わたしにとってのポール・マッカートニーは、ビートルズ時代の天才に反して、それ以降の芝居癖が大嫌いである。