先日、マクロビオティックと書いてしまったが、あくまで、じぶんはジャストのマクロビオティックの実践者ではない。
マクロビオティックの解釈は、それぞれで良い。そうじぶんは思う。
じぶんは、人間様の見えない所で生き物を虐殺した結果としての、生き物の死殺体の肉片を、ウマイだマズイだ、ガタガタ文句を言いながら、命を頂いている意識もなしに・喰らう者と一緒に居たくない、というだけのこと。
流通経路の末端で、クチを開けて、店員さんに「遅い」と文句を付けながら、肉がやってくるのを待つ、家でろくに料理も出来ない・ずぼら主婦を含む馬鹿家族の「既に終わっている」外食光景は、見たくもない。
また、一方では、健康オタクの「かれら」が、永遠に通信販売に騙され続ける・奇妙な錠剤を服用し、毎日ウォーキングをして。。。食はバランスを取って1日何十食物を摂り。。。長寿を目指す。何も保証・担保など無い生において、一種の宗教に掛かってしまった連中。喰らったあと、クルマに引かれたら一貫の終わり、というのに。
そういう「かれら」から180度反対側の対岸に、じぶんは居ることを死守する。
【ゴミ・スクラップ・ブック(制作途中)】
今日さえ生き抜けるか分からないカオスの中で、長寿とは何を意味しているか?「かれら」とは、関わりになりたくない。というのが本音。
細野さんの「ウォーカーズ・ブルース」の歌詞を想い出す。
『・・・魔物にかまわず、先へと急ぐだけ
そのうち・いつかたどり着けば、そこがパラダイス
とどのつまり、魂を鎮め、今日も・明日も歩く・・・
着の身着のまま 君は君のまま
ボクはボクのまま ともかく歩くだけ・・・
沈むこころもち・昇る夢心地
ぎこちなく・・・このまま死ぬまで生きるだけ』
「かれら」=「魔物」
【ゴミ・スクラップ・ブック・その2(制作途中)】
じぶん一人で出来ることなんてのは、実に狭い。時間も含む様々な制約下。
だからやれることをやるしかない。身近な草木に水を与え、野良猫たちと島で一緒に暮らす。そこにパラダイス(はらいそ)を見い出そうとする。
■細野晴臣 「悲しみのラッキースター」2011■
「ホソノヴァ」
まもなく、細野さんの新譜CD「ヘヴンリー・ミュージック」が届く。