
幼い頃、私にとって『本』は写真と絵のところを見たら「はい、おしまい。」だった。
私の6つ上の兄貴が文学少年であったがために、少年向け文庫の大量の『お下がり』を引き受けざるを得なかったが、私は幾ら分厚い『お下がり』を手に取っても、関心は巻頭のカラーページと文面の谷間の挿絵にしか無かったので、それを見終わったら「この本も、はい、おしまい」だった。
そういう私は親から「本を読まないと馬鹿になる」と説教の嵐。
鬼畜親父は「愚弟賢兄。おまえはノーテンパーラーだな。」と、事ある度に馬鹿呼ばわりされて育った。
ずいぶん悔し涙をした事が毎日、という具合だった。
私の幼少時代の記憶喪失の理由は、2011年3月9日の「今日」はっきりしている。
この1人では抱えきれないイジメに依る抑圧とストレスが、中学2年生14歳の「或る日」に、経年劣化したバネが弾け飛ぶようにして過去が一瞬で消えた。
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今、私は44歳、2011年に生きている。
幼少時代、概念(言葉)より感覚的なものの方が絶対的に正しいんだ、と直感的に内心想っていた事を思い出した。
あの感覚が間違っていなかった事を、今夜、確信する。
感覚こそが私の核なのだ。
