1980~1981年にデヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、そして、YMOの影響下「発火」したロンドンで発生した「ニウロマンティクス」。
デュラン・デュラン、スパンダー・バレエ、ランドスケープ、ゼイン・グリフ、ヴィサージ&ウルトラヴォックス(第2期)が主たるメンツだったが、次第にそれぞれのグループは、次の地点に向かっていった。
そんな中、スパンダー・バレエは、「ホワイト・ファンク(白人によるファンク)」を目指そうとしていた。
ファンカポリタンやア・サーテン・レイシオなどが、そういった所を目指していたが、「チャントNo.1」「ペイント・ミー・ダウン」という名曲の12インチ・シングルには「すげえ!カッコイイ!」と興奮したものだが、次第にネタが尽きてきて「結局、スパンダー・バレエは、日本で言う演歌のような『泣いて下さいませ、皆様』という『泣き』にすがる音楽なんだなあ」とがっかりした。
この1982年4月に発売された2枚目のオリジナル・アルバム「ダイアモンド」には、既に発売済みの12インチの各曲は入っているものの、一方では「ホワイト・ファンク」、もう一方では「泣いて下さい」というチグハグなアルバムであった。
それが、しょせんは、このバンドの限界だったのかもしれない。
そして、3枚目に、「例の」「トゥ~ル~」という曲の入った「泣きメロ」の固まりに逃げて行ってしまったのである。
本人たちは、「トゥ~ル~」でガッポリ儲けたかもしれないが、我々ニュー・ウェイヴの進歩主義者には、「お前ら、結局はそういう安直なところに逃げたな」という後ろ指と烙印を押さざるを得なかった。
***
まあ、そうは言えど、まだ、自分は、スパンダー・バレエには親身になっていた方だと思っている。
実は・・・・この2枚目の「ダイアモンド」の面白いところは、実は、ファンクでも泣きメロでも無いところにあるのです。
この6曲目「ファラオ」~7曲目「イノセンス&サイエンス」である。
6曲目は、明らかに、細野さん(「はらいそ」等)・YMOを取り巻くオリエンタルなムードのアルバムを良く聴きこんで来た事を反映し、7曲目はYMOを産んだ日本、及び、アジアへの大いなる勘違いが生んだ、東洋への憧れがカタチとなって出てきたものである。
当時の当人たちは生意気盛りだから、決してそれを認めなかっただろうが、「証拠物件は揃っているんだ!吐け!」
と刑事のように、カツ丼を頼みながら「田舎のお袋さんは元気か?」と「泣き」落としにかけても良い位のものである。
7曲目「イノセンス&サイエンス」には、水の流れる音・琴(こと)の音・ドラムでは無く鼓(つつみ)の音・・・・・。
実を言うと、この6~7曲目は・・・「実は、お前を好きだったんだあ」と、こちらも「泣き」ながら、抱き合わねばならなかったが、彼らは、それを拒否していた。
こういった影響・盗用・模倣・パクリは、ニュー・ウェイヴのさまざまなところで、日常茶飯事、連鎖反応を起こしていたが、「オレがロンドンで初めてYMOを紹介したんだぜ!」と自慢するヴィサージ=スティーヴ・ストレンジや、デュラン・デュランのメンバーみたいに「みんなYMO大好きで、アルバム全部持っているよ!」という姿勢ならば、「おお、そうかい、そうかい」と笠智衆のようにうなづくところ、スパンダー・バレエは最後の最後まで、それを認めなかった分、可愛げの無いバンドだった。
結局のところ「あの『トゥルー』って曲を作ったバンドね」で終わっている部分の幾分かは、彼ら自身のプライドの高さと折れなかった頑固さゆえと思うと、もうちょっとうまく立ち回れば良かったのにねえ、と思ってしまう。
デュラン・デュラン、スパンダー・バレエ、ランドスケープ、ゼイン・グリフ、ヴィサージ&ウルトラヴォックス(第2期)が主たるメンツだったが、次第にそれぞれのグループは、次の地点に向かっていった。
そんな中、スパンダー・バレエは、「ホワイト・ファンク(白人によるファンク)」を目指そうとしていた。
ファンカポリタンやア・サーテン・レイシオなどが、そういった所を目指していたが、「チャントNo.1」「ペイント・ミー・ダウン」という名曲の12インチ・シングルには「すげえ!カッコイイ!」と興奮したものだが、次第にネタが尽きてきて「結局、スパンダー・バレエは、日本で言う演歌のような『泣いて下さいませ、皆様』という『泣き』にすがる音楽なんだなあ」とがっかりした。
この1982年4月に発売された2枚目のオリジナル・アルバム「ダイアモンド」には、既に発売済みの12インチの各曲は入っているものの、一方では「ホワイト・ファンク」、もう一方では「泣いて下さい」というチグハグなアルバムであった。
それが、しょせんは、このバンドの限界だったのかもしれない。
そして、3枚目に、「例の」「トゥ~ル~」という曲の入った「泣きメロ」の固まりに逃げて行ってしまったのである。
本人たちは、「トゥ~ル~」でガッポリ儲けたかもしれないが、我々ニュー・ウェイヴの進歩主義者には、「お前ら、結局はそういう安直なところに逃げたな」という後ろ指と烙印を押さざるを得なかった。
***
まあ、そうは言えど、まだ、自分は、スパンダー・バレエには親身になっていた方だと思っている。
実は・・・・この2枚目の「ダイアモンド」の面白いところは、実は、ファンクでも泣きメロでも無いところにあるのです。
この6曲目「ファラオ」~7曲目「イノセンス&サイエンス」である。
6曲目は、明らかに、細野さん(「はらいそ」等)・YMOを取り巻くオリエンタルなムードのアルバムを良く聴きこんで来た事を反映し、7曲目はYMOを産んだ日本、及び、アジアへの大いなる勘違いが生んだ、東洋への憧れがカタチとなって出てきたものである。
当時の当人たちは生意気盛りだから、決してそれを認めなかっただろうが、「証拠物件は揃っているんだ!吐け!」
と刑事のように、カツ丼を頼みながら「田舎のお袋さんは元気か?」と「泣き」落としにかけても良い位のものである。
7曲目「イノセンス&サイエンス」には、水の流れる音・琴(こと)の音・ドラムでは無く鼓(つつみ)の音・・・・・。
実を言うと、この6~7曲目は・・・「実は、お前を好きだったんだあ」と、こちらも「泣き」ながら、抱き合わねばならなかったが、彼らは、それを拒否していた。
こういった影響・盗用・模倣・パクリは、ニュー・ウェイヴのさまざまなところで、日常茶飯事、連鎖反応を起こしていたが、「オレがロンドンで初めてYMOを紹介したんだぜ!」と自慢するヴィサージ=スティーヴ・ストレンジや、デュラン・デュランのメンバーみたいに「みんなYMO大好きで、アルバム全部持っているよ!」という姿勢ならば、「おお、そうかい、そうかい」と笠智衆のようにうなづくところ、スパンダー・バレエは最後の最後まで、それを認めなかった分、可愛げの無いバンドだった。
結局のところ「あの『トゥルー』って曲を作ったバンドね」で終わっている部分の幾分かは、彼ら自身のプライドの高さと折れなかった頑固さゆえと思うと、もうちょっとうまく立ち回れば良かったのにねえ、と思ってしまう。