今日「ヤフー」ニュースの安倍総理辞任の動画を見ながら、いろいろ考えていた。
自分の居る、たかだかこんなちっぽけな会社。
こんな中で、言いたいこと言わないで仕事してたって「しゃーない」。
ひさびさに、今日は挑戦的なメールが他部門から、私を名指しで刺さってきたので、皮肉いっぱいのバカにしたメールを送ってやった。
CCでおえらいさんも入れてやった。
売られた一方的なおかと違いの罵声は、倍がけのナイフで、ざくざくと刺し殺す。これが主義であるから。
どうせうまくやろうったって、自分は優秀な誰かさんとは違うし、何やったって言う奴は言うし。。。
しょせんは、かたわのかたちんばとして生きてきた自分だ、せいぜい「あらがいたい」。
辞職した気で、平気な顔して生きてやろうと、久々に思った。
あいにく、打ちのめされるのには慣れているし、素直に従う・自戒する人間じゃないし。
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「パンク」という音楽分野があるらしいが、パンクが「パンク」という「形式」に集約・パッケージングされた段階で、もうすでに、それはパンクではない。
ジョン・ライドンではないが「パンクは死んだ。とうの昔に死んでいる。」
自分には、大竹伸朗の全身全霊を賭けた、ガツンとココロに響く生き方の「あらがい」は、「パンク」には見えても、今のロックにもパンクにも、何の「闘う意思」も「あらがい」も見出だせない。
だから、そういう音楽には興味も無いし、聴くこともない。
・・・やはり、といって、テクノやエレクトロニカやアンビエントにこそ「パンク」を感じる自分も、逝きすぎてはいるのかもしれないが…。
音楽も、90パーセントは、「惰性」で作られたものばかり。
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キレイに生きる、なんてことは出来っこない。
せいぜい、じたばたとあらがい続けて生きる、そこにしか真の「過激さ」は無いと思う。
・・・・・私は、運命など信じない。
【写真】は、「惰性」で生まれた音楽の渦のなか、数少ない、真の「パンク」と呼べるアルバム 「No New York」'78。
大竹伸朗だいせんせいも好きな1枚。