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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

講演

2009年05月24日 | ダンス
昨日、「ヴィデオを待ちながら」関連企画の講演がおわりました。120名ほどお越し下さったとのこと、5回行われた講演で一番の動員数だったようです。とはいえ「無事に」とはちょっと言いにくい、プロジェクターのショートというハプニングが三十分おきに三度ありましたが、、、ご来場下さった方、どうもありがとうございました。今回、「レディメイド」という概念を調べて、あらためてこれをデフォルトとする考え方が必要だなと思いました。そうしてはじめて21世紀型の芸術論、ダンス論、哲学というか人間学が立ち上がってくることになるのではないでしょうか。いずれどこかで、原稿にまとめたいと思います。常勤、非常勤両方の大学の学生のみなさんも数多く来てくれて、なかにはリゲイン1ダース陣中見舞い(?)に持参してくれた学生もいて、感謝です。お疲れの泉太郎君と学芸員三輪君にあげておきました(前日の金曜日には、泉君に大学に来てもらってトークしてもらったりなんてこともありました、人気者の泉君は、急いでタクシーに乗り、原美術館の「ウィンター・ガーデン」オープニングバーティに向かったのでした)。


2009.5.23@東京国立近代美術館(「ヴィデオを待ちながら」)

ダンスとレディメイド               
:1960-70年代のダンスと美術の交点
担当 木村覚

1 イントロダクション 1960年代のダンスと美術
 1-1レイナー「トリオA」
 1-2レイナーのチャート
2 レディメイドと人間の身体
 2-1デュシャンの「レディメイド」概念
 2-2 50-60年代アメリカにおける「レディメイド」概念の受容
  2-2-1 デュシャンの考える「ポップの芸術家」
  2-2-2 オルデンバーグとレディメイド
 2-3 ケージとレディメイド
3 ダンスとレディメイド
 3-1 Merce Cunningham Walkaround Time(1968)について
 3-2 ジャドソン・ダンス・シアターと「レディメイド」
  3-2-1最初のコンサートからの作例「Daily Wake」「Proxy」「Transit」
  3-2-2その他の作例「Flat」「Two Satie Spoon」
  3-2-3マイブリッジとジャドソン・ダンス・シアター「Huddle」「Room Service」
    「Waterman Switch」
 3-3タスクとレディメイド

主要な参考文献
Carrie Lambert-Beatty, Being Watched: Yvonne Rainer and the 1960s, MIT Press, 2008.
Ramsay Burt, Judson Dance Theater: Critical Traces, Routledge, 2006.
Liz Kotz, Words to be Looked at: Language in 1960s Art, MIT Press, 2007.


話が出来ずに残してしまったのは、美術評論家・ロザリンド・クラウスが、ジャドソン系のダンスについてヴィトゲンシュタインを介しながら論じている文章について。プライベートな次元からパブリックな次元へとひとが移るためには、語の意味を語の意味像ではなく語の使用の内に捉える必要があるということ。いわばそれは語を上演してみること。例えばそれは「歩く」などというタスクを、身体を通して実際にやってみることであり、そうすることでのみ、芸術はパブリックな次元を獲得することが出来る。「公共的」というと堅苦しく感じられてしまいそうだけれど、特殊なひとのみが語り手に(作り手側に)なりうるという考えから自由になって、誰もがプレイグラウンドの一員になりうるような装置を生み出すこと。「タスク」のアイディアは、そうした装置として構想されたものなのではないか。そうそう、これも言い忘れましたが、歩く動作、走る動作がバレエやモダンダンスの運動よりも好きだったわけではないと思うんですよね、ジャドソンのダンサー達は。好き嫌いではないんですよ。デュシャンが趣味批判として「レディメイド」を展開したように、趣味とは別の次元で「歩く」動作をコピー&ペーストしていたのではないか、そう考えるべきじゃないか。

「「日常の運動」のダンスを採用することで、ジャドソンのダンサーたちは「日常言語」の観念との結束を明らかにした。それは、いわば、心/身体の区別を言語の行動主義者的な見方へと分解する哲学である。語の意味はその使用である。彼らは格言としてウィトゲンシュタインを引用したものだった(彼らがウィトゲンシュタインを読んだことがあったかは定かではない)。語が意味するところを知るとは、ひとが参照する、語の「意味」の像を心の内にもつことではない、それはむしろ、語を用いて語を実演するperformひとの明白なる能力の一機能なのである。心の内にある想像上の像がもし全く主観的で、個人的でprivate、私だけがアクセス出来る何かであるとすれば、語の実行は公共的publicである。すなわち、私がそれを正しく用いたか、用いなかったかである。」(Rosalind Krauss, The Mind / Body Problem: Robert Morris in Series, in Robert Morris: The Mind / Body Problem, Guggenheim Museum, 1994, p. 6)

こちらは講演中紹介しましたが、パクストンはこんなことを言ってます。

「歩くことは、あなたが勝手にいじったり出来ない何かなのです。もし「普通に歩く」と言うならば、膨大な素材を抱えることになります。いじろうとすればするほど、普通に歩くことは当の事柄の持つ質を減少させるでしょう。」(Paxton: Sally Banes, Democracy's Body, p. 60)