Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「(音がバンド名)presents」を見た

2009年01月27日 | Weblog
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恥ずかしながら初円盤。10人弱の観客を前に、驚愕のプレイ連続。小林亮平は、magical, TV(1/13)にも出演、またmagicalの美術展「Mr. Freedom X」にも美術作品を出展するなど、音楽の分野に限定されない活動を、今月、明らかにしている。「Mr. Freedom X」でのドローイング展示は、ミニアチュール好きのぼくにはたまらないものがあった。極小のキャラ達がスライド増殖するさまが六十センチ平方くらいのスペースに五十個くらい展開している。それは、迷うためにある空間と物語のように思われ、その迷う様は、何よりも彼のパフォーマンスそのものでもある。「あ、」「えっ、」とかいいながらコンセントを探したり、接触の悪い部分を直したり、注意がひたすら散漫な身振りは、どこに行き着くということではなく、いまをただいまを見つめさせる。音が出なくなって直してようやく復活したリズムボックスをあっさり阪神のプラスチックバットでぶっ叩き、また音が出なくなり、「あれ?」と直して、、、を繰り返す。こどもチャレンジ製・五十音の音声がボタンを押すと流れるおもちゃで、観客共々こっくりさんを展開するあたりで、その弛緩する時間はピークに。後半に登場の川染は、随時思いついた物語の断片を口にしつつ即座にあたかも音楽機材でそうするかのようにその断片にカット&ペースト+エフェクトを試みる、オペラ・リハーサルを上演。演劇をめざましく変換させてしまうミキシング・セットを空想し、むりやりステージ上で実行してしまうというばかばかしい遊びは、くだらなくまた崇高。観客に常に語りかけラッパー振りする彼が、そのさなか不意に「これをダンスとしてみて欲しい、舞踏としてみて欲しい、つーか、ダンス公演に出演させて下さい」と漏らしたのは、本気か否か。(ぼくに語りかけてきたのかは皆目分からないけれど)ぼくは本気です。2人とも、アートの境界線を激しく揺さぶる根源的にアート的な公演だった。しかもキュリアスでキュート。スゲー。個人的には、DCにオファーしたい超強力候補!これに対抗出来る根源的にアート的で、しかもキュートなコレオグラファーはいるのか?

そういや、こんな文章を昼間読んでから出かけたのだった。

「--ハプニングについては、どう思われますか。
ハプニングはとても私の気にいっています。それは、はっきりと画架の上のタブローに対立するようなものなのですから。
--それは、あなたの《観客》の理論と実にピッタリと対応していますね。
まさにその通りです。ハプニングは、芸術のなかにそれまで誰も置いたことのないひとつの要素を導入しました。退屈です。それを見ている人が退屈するように何かをすること、そんなことを一度だって考えたことがありませんでした。残念です。それはとてもすてきな考えですから。音楽におけるジョン・ケージの沈黙も、実際、それと同じ考えです。誰もそれを考えたことがありませんでした。」(『デュシャンは語る』)

芸術ににおける「退屈」(アンニュイ)の発明者としてのケージ。この退屈に彼らのトライアルも関係していると思うけれど、ぼくはともかく面白かったのだ。バリのオダラン(村祭り)のなかに居る感じに近いかも。いつなにがはじまるか誰にも分からない時の、弛緩したまま興奮している時間。