We danceというイベントが、横浜で、今度の土日にあります。伊藤亜紗も参加していることもあり、しばしば食卓の話題になるのですが、個人的に応援しています。黒沢美香、手塚夏子、神村恵、、、の公演やトークを一度にみられるなかなかないチャンスなので、どうぞ、ダンス公演にあまり行かないみなさん、良い機会ですので、是非、足をお運び下さい。でも、なんでタイトル「We dance」なんだろうなー。見る専門のぼくみたいな立場は、疎外されている気になってしまうんですよねえ、若干。「We dance and you see」とかって言ってくれたら、いいのになあ(でも、そういう気持ちに応えるためなのか、伊藤は「おもしろいって言う係」といって若い鑑識眼のあるメンバーと共に、観客代表でいろいろとコメントしていくそうです)。
ところで、今日、ある担当科目のテストの採点が終わりまして、何分210人だったか受講者がいまして、大変でした。そこでは、ルネサンス期から、バロック、古典期、ロマン主義期、20世紀のパフォーマー達(ダンカン、ベイカー、オノ・ヨーコ、マドンナ、松田聖子、浜崎あゆみetc)にいたる女性のパフォーマンスの歴史を見ていきました。見られる存在としての女性達は、いかにしてその受動的で見る者に支配される劣位から自らの利益を得てきたのか、あるいはそうした支配/被支配の関係と闘ってきたのかについて論じました。そこで、いろいろな映像を学生と見たのですが、採点終了記念で、その幾つかをご紹介します。
例えば、ある回では、黒人のパフォーマーは白人の抱いている「黒人」のイメージを忠実に踊ることで、人気を獲得したという問題についてジョセフィン・ベイカーを参照した。その冒頭で見たのが、ビヨンセ「Single Ladies」。この踊り、スゴいですよね。
ビヨンセ「Single Ladies」
ビヨンセのAMAでのパフォーマンス
ジョセフィン・ベイカー バナナ・ダンス
ビヨンセがベイカーへのオマージュでバナナ・ダンスを踊る
例えば、ある回では、80年代にいまの「アイドル」イメージは形成されるが、その典型である松田聖子について、とくにその「ぶりっこ」パフォーマンスとは何だったのか、考えた。途中、しょこたんと比較して、松田聖子を十分意識しているだろうこの曲で、しかし、しょこたんの首は松田聖子のように揺れないのは何故か、なんて問うてみたり。松田聖子は、学生たちに人気だったなあ。「ぶりっこ」は、ありなんだそうです。
松田聖子「白いパラソル」
中川翔子「綺麗ア・ラ・モード」
見られるという事態は人気の証拠かも知れないけれど、見てもらえてはじめて見られる訳で、そこにはさまざまな戦略があったはずだし、それをズルイとか、男性中心社会に順応しているだけとか批判出来るは出来るのだけれど、男性中心の社会が崩れないなかでそれでも生きて行くためにどんなパフォーマンスを女性達が行ってきたのか、そういう視点で考察することは必要だとぼくは思っています。権力志向でも反権力でもなく対権力といいますか。そうそうマドンナも取り上げたのだった。
マドンナ「マテリアル・ガール」
これはモンローのこの曲へのオマージュでもあるのだけれど、単にマドンナは「物欲少女」を賛美したのではなく、そうとしか生きようがない女性に対して憂いの気持ちも含ませている。それはビデオの最後で、農作業用の車で野の花をプレゼントしに来た男と本当の愛(キス)を交わす(それもまた男の側の戦略だったのかもだが)というラストシーンに暗示されている。けれど、もっと明確なのは、このライブの後半。マドンナは、こんなもの全然欲しくなんかない、全部くれてやるとばかり、ネックレスとか札束とか客席に投げつけるパフォーマンスを見せた。
ところで、今日、ある担当科目のテストの採点が終わりまして、何分210人だったか受講者がいまして、大変でした。そこでは、ルネサンス期から、バロック、古典期、ロマン主義期、20世紀のパフォーマー達(ダンカン、ベイカー、オノ・ヨーコ、マドンナ、松田聖子、浜崎あゆみetc)にいたる女性のパフォーマンスの歴史を見ていきました。見られる存在としての女性達は、いかにしてその受動的で見る者に支配される劣位から自らの利益を得てきたのか、あるいはそうした支配/被支配の関係と闘ってきたのかについて論じました。そこで、いろいろな映像を学生と見たのですが、採点終了記念で、その幾つかをご紹介します。
例えば、ある回では、黒人のパフォーマーは白人の抱いている「黒人」のイメージを忠実に踊ることで、人気を獲得したという問題についてジョセフィン・ベイカーを参照した。その冒頭で見たのが、ビヨンセ「Single Ladies」。この踊り、スゴいですよね。
ビヨンセ「Single Ladies」
ビヨンセのAMAでのパフォーマンス
ジョセフィン・ベイカー バナナ・ダンス
ビヨンセがベイカーへのオマージュでバナナ・ダンスを踊る
例えば、ある回では、80年代にいまの「アイドル」イメージは形成されるが、その典型である松田聖子について、とくにその「ぶりっこ」パフォーマンスとは何だったのか、考えた。途中、しょこたんと比較して、松田聖子を十分意識しているだろうこの曲で、しかし、しょこたんの首は松田聖子のように揺れないのは何故か、なんて問うてみたり。松田聖子は、学生たちに人気だったなあ。「ぶりっこ」は、ありなんだそうです。
松田聖子「白いパラソル」
中川翔子「綺麗ア・ラ・モード」
見られるという事態は人気の証拠かも知れないけれど、見てもらえてはじめて見られる訳で、そこにはさまざまな戦略があったはずだし、それをズルイとか、男性中心社会に順応しているだけとか批判出来るは出来るのだけれど、男性中心の社会が崩れないなかでそれでも生きて行くためにどんなパフォーマンスを女性達が行ってきたのか、そういう視点で考察することは必要だとぼくは思っています。権力志向でも反権力でもなく対権力といいますか。そうそうマドンナも取り上げたのだった。
マドンナ「マテリアル・ガール」
これはモンローのこの曲へのオマージュでもあるのだけれど、単にマドンナは「物欲少女」を賛美したのではなく、そうとしか生きようがない女性に対して憂いの気持ちも含ませている。それはビデオの最後で、農作業用の車で野の花をプレゼントしに来た男と本当の愛(キス)を交わす(それもまた男の側の戦略だったのかもだが)というラストシーンに暗示されている。けれど、もっと明確なのは、このライブの後半。マドンナは、こんなもの全然欲しくなんかない、全部くれてやるとばかり、ネックレスとか札束とか客席に投げつけるパフォーマンスを見せた。