リアクションとしてのダンス 2009年01月05日 | ダンス HARAJUKU PERFORMANCE PLUSで一番盛り上がった真鍋大度。手塚夏子と並べて賞味するといい? electric stimulus to face -test2 (Daito Manabe) 私的解剖実験-2
『帝国、エアリアル』 2009年01月05日 | ダンス 『帝国、エアリアル』 「現実」という名のアトラクション 文=木村覚 開演前から終幕まで、ゴミ(ペットボトル、弁当の容器、ビニール袋)があまりにびっしりと舞台上に散乱しているので、そのノイズに翻弄されていた。ノイズは身体を癒さずむしばむ。むしばまれることで、ぼくたちは自分の身体を感じる。ただし、その意識化された身体は、後半、ノイズの洪水に自分を閉じてしまうこととなった。この経験が意味することとは、いったい何なのだろう。 楽屋裏でじっと息を潜めていることを拒む大橋可也は、自らが支配者であることをあえて隠さない支配者である。今日において帝国とは「空気」のことではないか、と彼が新国立劇場のむき出しの天井にあらわれ、マイク越しに説くとき、支配者の見下ろす舞台は、彼がコントロール下に置く世界であることを明かす。この世界は、イリュージョンなのかそれとも現実的な何かなのか、ひとびとの欲望を見透かしたファンタジーなのか(今日その頂点に君臨するのがディズニーランドだとして)ひとびとの欲望を切り裂いてあらわれる血しぶきをあげる肉のごとき現実なのか、まだこのとき判然とはしていない。 舞台にひとりの女がすでにあらわれていた。くしゃくしゃな髪、動作は一貫性を欠き、見る者を不安にさせる。絶叫した。するとそれを合図に、舞台にひとりずつあらわれる、役者?ダンサー?ひとりひとりの動作は自閉した人間のそれであって、とはいえ特殊な人間というより、ヘッドフォンをした、携帯電話やゲーム機を手にした、どこにでもいる人間のどこででもやっている動作の延長のように見える。各人はばらばらに髪をかきむしったり、倒れたり、ひとつの動作にこだわったり、歌を歌ったり、駆け出したりする。そこには、視線のあからさまな交差はない。街中でひとを見るともなく見て、ひとから見られるともなく見られているときの状態に近い。無関係と思えた集団には微弱な関係性が詰め込まれていた。誰かが不意に、つまづくみたいに体を落とす。と、その周りの誰かも、似たようなカーヴを描いて体を揺らす、といったような。ここには無数の連鎖が発生している。そう気づくと、散乱するゴミに等しいくだらない動作の溜まり場に見えていた舞台が、途端にダンス的な何かとして立ち上がってくる。 そう思えたときから伊東の演奏が始まるときまでは、見る者の快楽はどんどん上昇していった。バラバラに思えた舞台のひとびとは、互いに微妙な関係の連鎖を引き起こしていて、それに気づきながら舞台のあちこちを眺めやるのは、まるでカメラをズームしたり、パンしたりするようなもので、見る側のとめどない視線の運動が、それ自体ダンスなのではないかと言ってしまいたくなるほど見事に設えられていたのだった。そうした注意の魅力は、大橋が日常的な仕草を舞台に上げていることによって引き出されているものでもあって、見る者が注意を引きつけられてしまうのは、目の前の動作が魅力的な動きのフォルムや躍動感を湛えているからではなく、目の前の動作が仕草的で、その仕草が見る者の記憶を逆なでし記憶を躍動させてしまうそういう装置だからなのだ。それは、不意に見かけた人間の身体部位に過去の記憶を刺激させられる都会での見る経験と重なる。見る行為の今日的リアリティを舞台に上げるというトライアルのひとつの成果として、こうした大橋の戦略を指摘しておくべきだろう。 こうした光景が20分ほど続いた後、BLIND EMISSIONの伊東篤宏とHIKOが現れ、OPTRONとドラムで視覚と聴覚を過剰に刺激しはじめた。蛍光灯をギターのように抱えてそれが轟音のノイズと繋がっている楽器OPTRONとパンキッシュ?なドラムは、次第に観客の身体を麻痺させていった。それまでの舞台が微弱な関係を追跡するデリケートなものだったとすれば、そのデリケートな庭は、雷雨に激しくかき乱されていった。BLIND EMISSIONの演奏はそれ自体として魅力あるもので、UNITみたいな場所で踊りながら聴くなら申し分ない。ところが観客は、舞台芸術系とライヴ演奏系のふたつの受容のファンクションを同時に起動させるよう強いられた。この贅沢な困難に、ともかく音を上げてしまったのは、ぼくというよりはぼくの肉体だった。 演奏が30分ほどで過ぎると、舞台には相変わらず自閉した者達の世界が続いていた。誰かがゴミのなかから紙飛行機を見つけはじめる。それが舞台奥に並んでゆく。目の前では、女が結構激しく男に叩かれている。共有する何か(近代的人間性?道徳性?友愛などの理念?)を欠いたひとが曝されることになるのは、他ならぬこうしたむき出しの暴力、ということなのか。そのなか紙飛行機が飛ぶ。そんな癒しに騙されないぞ、と思いながらも、轟音とフラッシュにやられた体でまず何よりすがりたくなるのはそうした(無意味な)希望ではないのかとも思わされる。次第に数が減って最後に残った舞台上の2人は、若い女で、そうした「女神的な何か?」と読み込みたくなる者達を残すことに、いささかの不信感と同時に現実的な癒しの効果も感じてしまう。ぼくたちが欲しいのは現状認識なのか、現実逃避なのか。少なくとも、大橋が行ったのは「現実」というものをテーマにひとつのアトラクションを拵えることだったのではないか。例えば、彼は「生きづらさを感じるあなたたちへ。身体、社会、日本をえぐる。」と副題に付けている(これほど明確にダンス作家が社会にメッセージを発したなどということはかつてあったのだろうか)。「えぐる」という言葉で大橋が伝えているのは、現実を認識するぞという自らの姿勢なのだろうけれど、そこで認識できたらどうなのか、ということが残ってしまう。そこまでがアートの役割と決め込むことも必要だろう。けれども、現実に「生きづら」い状況を生きざるをえないひとにとって、欲しいのは認識よりも生存なのかも知れなくて、少なくとも認識よりも希望なのかも知れない。「えぐる」ことにまつわる快楽が、どこに求められるのか、どこに求めることがしかるべきことなのか。こうした疑問が噴出する。まさにそれ故に、社会においてアートの役割とは何かということを考える基点にこの作品が位置するということは、間違いがない。