Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

出張ダンス・レクチャー

2007年04月15日 | Weblog
3月に大橋可也さんの主催で行いました出張ダンス・レクチャーがシリーズ化することになりました。毎月一回、一回三時間ほど、毎回ひとつのテーマに絞って20世紀のダンスを概観し、そこからいまのダンス・クリエーションの金鉱を探り当てていこうとするレクチャーです。二月の「超詳解!20世紀ダンス入門」に重なる面もありますが、より先鋭な議論、より具体的実際的で作家の明日の創作に活かせる内容を目指し、またディスカッションの機会をより多く設けていきます。よって作家(振付家、演出家、ダンサー)のためのレクチャーですが、その前提を理解していただければ、ダンスの歴史や方法や今後に興味をもつすべてのひとに門戸を開くつもりでいます。

第2回 暗黒舞踏の方法について(仮題)
日時:4/22(日)18:00-21:30
会場:中野区のスペース(JR中野駅北口下車徒歩15分、西武新宿線「沼袋」駅下車徒歩10分)
参加費:1000円

場所はここには載せません。参加希望の方は、ぼくに直接メールを送って下さい(ぼくのHPのAboutをご覧下さい、アドレスがわかります)。


写真は、バリの王宮跡で撮ったもの、レクチャーとは関係ありません。

トーク・イベントご静聴ありがとうございました

2007年04月15日 | Weblog
おとといは、松井みどりさんにお声をかけてもらって、Nadiffでいまの日本のダンス(Chim↑Pomもちょっとだけだけど流した、ちなみに「ちんぽむ」と発音するのが正しい、と当日、本人たちから指摘された。「「ちん」て言うの、照れてるのかと思っちゃいました」などとひやかされ。でも、「Chim」は表記からしたら「ちむ」だと思うのだが、、、はい、これからは清く正しく「ちんぽむ」で行きますよ!)を紹介するという時間をもつことが出来た。始まる前、集客のことを制作の方と心配していたのだけれど、立ち見も出る盛況で(40人弱くらい?)、ほっとしました。客が少なければ、絶対ぼくのせいだなーと反省していたと思うんだけれど、多ければ、絶対松井さんや泉さんファンのおかげだなーと思っているわけで、あまり得しない心配ではありましたが。ほっとしたことには変わりありません。

ぼくはそこで30分くらい山賀や手塚の作品をかいつまんで紹介した。その後で、泉太郎さんのビデオ作品を紹介する時間になったのだけれど、泉さんの作品と比較しながら、水戸芸術館の森司さんが発言したコメントは興味深かった。つまり、ダンスの作品は、非常に真面目に見える、その真面目さは認めるがそれは同時に観客に緊張を強いる、息苦しい気分にさせるものでもある、その点が気になる、といった趣旨のものだった(とくに、きわめてコンセプチュアルでそれに対してきわめて誠実な手塚の作品を説明した後で出てきた発言だった、もちろん、手塚の試みの高度な点をみとめていただいた上でのものである)。確かに、泉さんの作品は、見る者を脱力させる。「キュロス洞」でも、暗い道ばたで通り過ぎる車を何度もひたすら追いかけて右往左往する作品でもそうなんだけど、見ているほうに「なにやってんの!」とツッコミをさせる余裕があって、そうした余裕が見る者との関係を深く強くする力になっている。そうしたユーモラスな気分を振りまく余裕がマイクロポップには不可欠なんじゃないかというのが、森さんのマイクロポップ観だとぼくは理解した。それが、いまの美術のシーンにおけるあるエッジなのだとすれば、そのエッジをまだ十分意識出来ていない、全てではないとしても多くの振付家・ダンサーがそこまで到達していないというのが、確かにダンスの方の現状と見るべきなのかも知れない(もちろん、その例外として身体表現サークルやボクデスや山賀ざくろがいることは付言しておく必要があるだろう。それとこの「余裕」というものが、観客の笑いのツボを押さえて安心をともなった笑いを与えることとは区別しなくてはならない。いわゆる商業的な笑いとここで言う「余裕」とは似て非なるものである)。

簡単に言えば、大枠においてダンスは真面目なのだ。どうしても真面目になってしまう。真面目なことを真面目にやってしまう。それには、二つの理由があると思う。

ひとつは、ダンスが身体をメディアとするということ。身体を扱う時、基本的にひとは鍛える方向でがんばってしまいがちなのだ。ストイックに求道的に。スポーツしかり。というか、ダンスはスポーツの域を脱していないかもしれない。スポーツだったら不真面目にやるのはあまり面白くない。自分の能力の最大限を発揮してはじめて面白くなるもの(脱力状態でやるサッカーとか、つまんないだろう)。そうしたスポーツのようにどうしてもダンスは身体の限界まできわめていこうとする。きわめることは悪くはないが、きわめていればいいということでもない、少なくともそれを観客と共有しようとするのであれば。真面目なことを真面目にやっていると、見る者は自分も真面目でなければいけないように思い緊張してしまう。あるいは、真面目なものを真面目にジャッジする立場に立たされてしまう。先生-生徒のような関係に。真面目なものを不真面目に(=くだらなく、つまらなく、無意味に)やれ、と言いたいのでもない。観客に余裕を与えるような仕掛けを作品のなかに入れ込むと、ダンスというジャンルはぐっと成長するに違いない、と思うのだ。

もうひとつは、広い意味でシアターという設定にしばられがちだということ。単にプロセニアムアーチのことばかりではなく、料金のこととか。美術館の展覧会は、例えば「夏への扉:マイクロポップの時代」展であれば15人の作家が出品していて料金は1000円超くらい。これが、ダンス公演の場合、単独だと3000円以上は当たり前。すると必然、3000円分のものを来た客にもって帰って貰わないといけない、という気張りが出てきてしまう、当然。真面目なことを真面目にやらないといけないというプレッシャーがこういうところから出てくると言うことはあるんじゃないだろうか(最近、音楽のライブとか良く行くこともあって、ダンス公演の料金設定に疑問を強くもつようになった。ダンスはブルジョワの遊び、でいいのだろうか)。

とはいえ、ダンス作品はすべからく脱力していなければならないという話ではない。大事なのは、観客にどういう気分で自分の作品を見て貰いたいかということを真面目に考えるということ。作品が良いものであるためには、良い振付とかそれをうむ良いアイディア以上に、観客に対して自分がどういうアプローチを取るかを精緻に考え尽くすことこそ必要条件ではないだろうか。かねてからぼくが使っている言葉で言えば「社交」ということ。真面目なことを真面目にやっているとすれば、それを自覚するべきだし、意図的に選択した結果であって欲しいということだ。