「愛される者の立場にいきなり立たされることは強烈な発見であり、外傷的ですらある。私は愛されることによって、明確な存在としての自分と、愛を生じさせた、自分の中にある不可解なXとの落差をじかに感じる。ラカンによる愛の定義--「愛とは自分のもっていないものを与えることである」--には、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」。誰かにいきなり情熱的な愛を告白されるというありふれた体験が、それを確証しているのではないだろうか。愛の告白に対して、結局は肯定的な答を返すかもしれないが、それに先立つ最初の反応は、何か猥褻で闖入的なものが押しつけられたという感覚だ」(『ラカンはこう読め!』pp. 82-83)
ちょっと時間が出来た今日みたいな日がダメである。
一応、部屋では本に取り囲まれているわけだが、どんな本を手に取ってみても、あんまり盛り上がらない。仕事で必要があって読む本はあるとしても、暇を埋めてくれるような「趣味は読書」の一冊は、その本たちのなかに見つけることが出来ない。と、決まって探すのがジジェクの『ラカンはこう読め!』。これは、面白い。墓場までもっていきたい数少ない一冊(死んだらラカン的な問題からは自由になれるんだろうけど、きっと、いや?)。
デタラメに開いてデタラメなところから読み出す。それで充分。
「私が誰かに「あなたは私の師です」と言ったら、私は然るべき態度でその人に接しなければならず、同じように、その人も然るべき態度で接しなければならない。ラカンが言わんとしているのは、われわれがこの遂行性、象徴的契約に頼らなければならないのは、他ならず、われわれが直面する他者が、私の鏡像、つまり私に似たものであるだけでなく、究極的に不可解な神秘であり続ける捉えがたい絶対的な〈他者〉でもあるからだ」(p. 84)
こんな文章を学生と読んでみたいものである。〈他者〉の存在、〈他者〉の欲望は、不可解さとともにしか理解されない。「ここにいる男を君たちが先生と呼び、そう呼ばれるので先生みたいな振りをしているけれど、本人はそんな先生なんてただ振りでやっているだけなんだよ」なんて言ってみたいが、こういう読書が前提にないと大変なことになりそうでもある。
〈他者〉との出会い、その不可解さを軽減してくれるのが、「幻想」と呼ばれるものだという。
「ラカンによれば、〈他者〉の欲望の謎に対する答えを与えてくれるのは幻想である。幻想に対して、最初に注目すべきことは、幻想は「欲望の仕方」を文字通りに教えてくれるということである。」「問題はむしろ、そもそも私が苺のケーキを欲望しているということを、私はどうしたら知ることができるか、である。まさにそれを教えてくれるのが幻想だ」(p. 87)
「幻想、すなわち幻の情景あるいは脚本は、「あなたはそう言う。でも、そう言うことによってあなたが本当に欲しているのは何か」という問いへの答である。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである」(p. 89)
「たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、じぶんのうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。」(p. 89-90)
現実的なもの、外傷的ものをひとに与える出来事は、例えば、冒頭の愛の告白であり、セックスもそうしたものとされる。セックスはだから、ひとが望んでいるかのように思われている以上に、ひとを傷つけてくる不可解なものであって、そうであるが故に、セックスの情景を映画で表象する時には、ある種の「幻想」がノイズとして置かれることがある。ジジェクは、『ライアンの娘』という映画での野外セックスの場面に、滝の音がインサートされていることに注目する。
「『ライアンの娘』のこの場面の逆説は、滝の音が、性行為から〈現実界〉を除去する幻想的な透過膜として機能しているということである。」(p. 91)
なんとなく、こうした「滝の音」としての音楽というのを、音楽論として考えてみたくなる。映画音楽とは大方こういうものかも知れない。
で、整理すると、現実界の出来事とは、知っていないものではなく、単に知っているものとも言えない、「知られていない「知られていること」」である。
「知られていない「知られていること」、つまり自分はそれを知っているのに、自分がそれを知っているということを自分では知らないことである。これこそがまさしくフロイトのいう無意識であり、ラカンが「それ自身を知らない知」と呼んだものである。」(p. 95)
現実界は、ひとを惑わす不可解で恐ろしいものかもしれないけれど、ならば愛の告白もセックスも禁じられるべきなのかといえば、そういうわけではないだろう。言いかえれば、現実界との遭遇を阻止しようとする「幻想」は、正義の使者と言い切るべきものではなく、謎めいたものとのしかるべき出会いを適当なものに仕立てて邪魔するものなのである。
「われわれがいま直面しているのは、幻想という概念の根本的両義性である。一方で、幻想は〈現実界〉との遭遇からわれわれを保護する遮蔽幕であるが、最も基本的な形の幻想そのもの、すなわちフロイトが「根本的幻想」と呼んだ、主体の欲望する能力の最も基本的な座標を提供するものは、決して主観化されることなく、機能するためには抑圧されたままでなければならない。」(p. 104)
なんての読みながら、新譜『New York Hell Sonic Ballet』と『記憶喪失学』を聴く。
ちょっと時間が出来た今日みたいな日がダメである。
一応、部屋では本に取り囲まれているわけだが、どんな本を手に取ってみても、あんまり盛り上がらない。仕事で必要があって読む本はあるとしても、暇を埋めてくれるような「趣味は読書」の一冊は、その本たちのなかに見つけることが出来ない。と、決まって探すのがジジェクの『ラカンはこう読め!』。これは、面白い。墓場までもっていきたい数少ない一冊(死んだらラカン的な問題からは自由になれるんだろうけど、きっと、いや?)。
デタラメに開いてデタラメなところから読み出す。それで充分。
「私が誰かに「あなたは私の師です」と言ったら、私は然るべき態度でその人に接しなければならず、同じように、その人も然るべき態度で接しなければならない。ラカンが言わんとしているのは、われわれがこの遂行性、象徴的契約に頼らなければならないのは、他ならず、われわれが直面する他者が、私の鏡像、つまり私に似たものであるだけでなく、究極的に不可解な神秘であり続ける捉えがたい絶対的な〈他者〉でもあるからだ」(p. 84)
こんな文章を学生と読んでみたいものである。〈他者〉の存在、〈他者〉の欲望は、不可解さとともにしか理解されない。「ここにいる男を君たちが先生と呼び、そう呼ばれるので先生みたいな振りをしているけれど、本人はそんな先生なんてただ振りでやっているだけなんだよ」なんて言ってみたいが、こういう読書が前提にないと大変なことになりそうでもある。
〈他者〉との出会い、その不可解さを軽減してくれるのが、「幻想」と呼ばれるものだという。
「ラカンによれば、〈他者〉の欲望の謎に対する答えを与えてくれるのは幻想である。幻想に対して、最初に注目すべきことは、幻想は「欲望の仕方」を文字通りに教えてくれるということである。」「問題はむしろ、そもそも私が苺のケーキを欲望しているということを、私はどうしたら知ることができるか、である。まさにそれを教えてくれるのが幻想だ」(p. 87)
「幻想、すなわち幻の情景あるいは脚本は、「あなたはそう言う。でも、そう言うことによってあなたが本当に欲しているのは何か」という問いへの答である。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである」(p. 89)
「たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、じぶんのうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。」(p. 89-90)
現実的なもの、外傷的ものをひとに与える出来事は、例えば、冒頭の愛の告白であり、セックスもそうしたものとされる。セックスはだから、ひとが望んでいるかのように思われている以上に、ひとを傷つけてくる不可解なものであって、そうであるが故に、セックスの情景を映画で表象する時には、ある種の「幻想」がノイズとして置かれることがある。ジジェクは、『ライアンの娘』という映画での野外セックスの場面に、滝の音がインサートされていることに注目する。
「『ライアンの娘』のこの場面の逆説は、滝の音が、性行為から〈現実界〉を除去する幻想的な透過膜として機能しているということである。」(p. 91)
なんとなく、こうした「滝の音」としての音楽というのを、音楽論として考えてみたくなる。映画音楽とは大方こういうものかも知れない。
で、整理すると、現実界の出来事とは、知っていないものではなく、単に知っているものとも言えない、「知られていない「知られていること」」である。
「知られていない「知られていること」、つまり自分はそれを知っているのに、自分がそれを知っているということを自分では知らないことである。これこそがまさしくフロイトのいう無意識であり、ラカンが「それ自身を知らない知」と呼んだものである。」(p. 95)
現実界は、ひとを惑わす不可解で恐ろしいものかもしれないけれど、ならば愛の告白もセックスも禁じられるべきなのかといえば、そういうわけではないだろう。言いかえれば、現実界との遭遇を阻止しようとする「幻想」は、正義の使者と言い切るべきものではなく、謎めいたものとのしかるべき出会いを適当なものに仕立てて邪魔するものなのである。
「われわれがいま直面しているのは、幻想という概念の根本的両義性である。一方で、幻想は〈現実界〉との遭遇からわれわれを保護する遮蔽幕であるが、最も基本的な形の幻想そのもの、すなわちフロイトが「根本的幻想」と呼んだ、主体の欲望する能力の最も基本的な座標を提供するものは、決して主観化されることなく、機能するためには抑圧されたままでなければならない。」(p. 104)
なんての読みながら、新譜『New York Hell Sonic Ballet』と『記憶喪失学』を聴く。