昨日、編集のOさんが拙宅に来てくれて、三校を渡し、これでぼくの仕事がなくなりました。
ふーーっ。
ようやく、BRAINZ本第3弾『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』が出版されます!予定では、10月中旬には書店に並ぶそうです。
四月のgrow up danceイベントでもチラシを作り宣伝していたのですが、ずるずると遅れ(主な原因は図版の手配にてこずったこと。なかなか大変でした)、気づくと講義から二年も経っていました。
ぼくにとっての初の単著で、どのように受け取られるのか不安な面もありますが、「ダンス」の枠を大きくはみ出して「フィジカル」な「アート」全般の可能性を追求するために武器となる「セオリー」を過去(主に1960年前後)に遡って収集し、拾っては捨て拾っては捨てを繰り返す本書は、ダンスや舞台芸術に関心のあるひとに限らず(単に「開発」したい制作の側のひとのみならず)、ひろくいろいろな読者の興味に応えるものになっていると思っています。
今後、塾長も交えたイベントもあるかも知れません。ご期待下さい。
というか、告白なんですけれど、ぼくは80年代文化論ノートなるものを制作していながら、実は、佐々木さんの『ニッポンの思想』を今日の今日まで読んでおりませんでした!なんということでしょう!深読みの出来る有能な読者さんは、なぜ佐々木さんがあそこであのテクストをこんな風に引用して解釈しているのに、木村はそれについて無視をしているのか、、、などと考えてくださったかも知れませんが、いや、単純な話で読んでいなかったのです。だから、ぼくがこだわって調べている新人類の話は、佐々木さんがちょびっとしか取り上げないのに対抗して、、、のことではなく、たまたまでした。
読まなかった原因は、一時期アマゾンで売り切れていたりとか、夏休み中で街の本屋に行く気がしなかったとか、そんな程度のことでした。いずれ読むんだから、いまじゃなくてもいいだろう、と思っていたり。いや、でも、すごい本ですね。なにより、佐々木さんの猛烈な熱意、もうこれまでの30年はこんな感じだったのはもう分かりましたよね、じゃあもう終わりにして「テン年代」を新しく始めましょう、という過去をイレーズして次に行きたいという熱意がすごいですね。この点に関しては、ぼくがいま「やんないとな!」と思って、佐々木さんほどの熱意は出ないまでもこつこつ続けている「80年代文化をふり返る」ワークは、動機として同じものがあるつもりです。
ただし、ぼくは「思想」のみならず「文化」に興味があって、そこはちょっと違うつもりです。文化のOSが「思想」かもしれないのだけれど、だから「思想」を検討することはそりゃ当然重要だと思うのですが、同時に、「思想」だけを論じることは、論壇だけを論じることになり、「思想」がどう論壇に興味のない多くの人々にエフェクトを起こしていたのかについては、ふれられなくなってしまいます。と、言った口が渇く前に、この前言を撤回するべきであって、佐々木さんのこの本のすごいのは、思想のコンスタティプな意味内容以上に、そのパフォーマティヴな側面に注目しているところにあるわけで、例えば、『構造と力』から『逃走論』へと展開した浅田が、前者の慎重さを捨て去ったかのように後者で「ポップな文体」化したのは、その原稿が「ブルータス」載ったものだからと指摘しています。
「思想」のみならず「文化」に興味があるというのは、東浩紀のこと(というか、彼世代のこと)を考える時に、浅田や宮台との関係以上に、テレビ文化や雑誌文化について、あるいは受験産業のことなどについて考える必要があると思うんです。もちろん、佐々木さんの本は『ニッポンの思想』を論じるものであり、故に「思想」の範囲に限定しているだけのことで佐々木さんも当然そのようなことは考えていると思います。
いや、とても単純な話なのですが、『ニッポンの思想』読みながら、その脇でぼくは届いたばかりの『AKB48 総選挙!水着サプライズ発表』という写真集をちらちらと読んでいたんです。それは昨今の選挙ブームに便乗して(もうこういったところがきわめて秋元的だと思うのだけれど)AKBの人気投票をし、人気のある女の子の順でグループを作り、そのグループがシングルの曲を歌うというイベントを開いたそのドキュメントなんですね。それは、おニャン子時代に、なんとなく人気者とマニア好みが区別できていたとか、そんな甘っちょろいものではなくて、きわめてドライに順位付けがされ、「勝ち/負け」が決まってしまう。これが今後どういう効果を生んでいくのかはよく分からないし、そもそもAKBについてはほんとに無知なので、なんだか曖昧なのですが、ただこうした今日の秋元の手法とゼロアカがやっていることってのは、どう関連するのかというのは、ちゃんと考えてみたいテーマです。
まあこうしたドライな「勝ち/負け」に対して、批判の力が乏しくなっているのが昨今の「ニッポン」なのでしょう。こうした順位付けは、例えばキャバクラ(行ったことないけど)やホストクラブなどでは当たり前なのだろうし、またそんなキャバクラ的な女性像が受け入れられているのは『小悪魔ageha』などで周知のことです。あと、順位について審査員という超越的な存在を置くのではなく、一般のひとに委ねるという傾向は、本屋大賞もそうだし例えば裁判員制度にだって言えることで、大きな流れなんでしょうね(そういう話で言えば、15日に美術出版社主催第14回芸術評論募集の授賞式がありました。過去の受賞者の特権で、パーティに参加させてもらいましたが、受賞者うんぬんではなく、この賞が社会的な盛り上がりに欠けるのは、超越者を立てるシステムにあるのかな)。
重要なのは、一般の人が選挙に参加できるのは民主的で良いと言えるのかというのがやっぱり疑問ですね。そもそもその選挙のイベントを仕組んでいるのは、一般の人ではなく秋元康や東浩紀という超越的な存在なわけです。そうしたもののもとに集う的なことが、選挙に参加することとパッケージになっている。超越的な存在者が仕立てたイベントに参加できることを楽しむってところもあるのだろうけど、それって主体的な投票の身振りを取らせることによるイベントへの従属化なのじゃない?って気持ちにならないのかと思ってしまう。昨今の衆議院選挙だって、「政権交代」の選挙ってなんだか向こうで決められてしまっていて、それに自分の投票行為が一元化されてしまった気になるわけですよ。
ふーーっ。
ようやく、BRAINZ本第3弾『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』が出版されます!予定では、10月中旬には書店に並ぶそうです。
四月のgrow up danceイベントでもチラシを作り宣伝していたのですが、ずるずると遅れ(主な原因は図版の手配にてこずったこと。なかなか大変でした)、気づくと講義から二年も経っていました。
ぼくにとっての初の単著で、どのように受け取られるのか不安な面もありますが、「ダンス」の枠を大きくはみ出して「フィジカル」な「アート」全般の可能性を追求するために武器となる「セオリー」を過去(主に1960年前後)に遡って収集し、拾っては捨て拾っては捨てを繰り返す本書は、ダンスや舞台芸術に関心のあるひとに限らず(単に「開発」したい制作の側のひとのみならず)、ひろくいろいろな読者の興味に応えるものになっていると思っています。
今後、塾長も交えたイベントもあるかも知れません。ご期待下さい。
というか、告白なんですけれど、ぼくは80年代文化論ノートなるものを制作していながら、実は、佐々木さんの『ニッポンの思想』を今日の今日まで読んでおりませんでした!なんということでしょう!深読みの出来る有能な読者さんは、なぜ佐々木さんがあそこであのテクストをこんな風に引用して解釈しているのに、木村はそれについて無視をしているのか、、、などと考えてくださったかも知れませんが、いや、単純な話で読んでいなかったのです。だから、ぼくがこだわって調べている新人類の話は、佐々木さんがちょびっとしか取り上げないのに対抗して、、、のことではなく、たまたまでした。
読まなかった原因は、一時期アマゾンで売り切れていたりとか、夏休み中で街の本屋に行く気がしなかったとか、そんな程度のことでした。いずれ読むんだから、いまじゃなくてもいいだろう、と思っていたり。いや、でも、すごい本ですね。なにより、佐々木さんの猛烈な熱意、もうこれまでの30年はこんな感じだったのはもう分かりましたよね、じゃあもう終わりにして「テン年代」を新しく始めましょう、という過去をイレーズして次に行きたいという熱意がすごいですね。この点に関しては、ぼくがいま「やんないとな!」と思って、佐々木さんほどの熱意は出ないまでもこつこつ続けている「80年代文化をふり返る」ワークは、動機として同じものがあるつもりです。
ただし、ぼくは「思想」のみならず「文化」に興味があって、そこはちょっと違うつもりです。文化のOSが「思想」かもしれないのだけれど、だから「思想」を検討することはそりゃ当然重要だと思うのですが、同時に、「思想」だけを論じることは、論壇だけを論じることになり、「思想」がどう論壇に興味のない多くの人々にエフェクトを起こしていたのかについては、ふれられなくなってしまいます。と、言った口が渇く前に、この前言を撤回するべきであって、佐々木さんのこの本のすごいのは、思想のコンスタティプな意味内容以上に、そのパフォーマティヴな側面に注目しているところにあるわけで、例えば、『構造と力』から『逃走論』へと展開した浅田が、前者の慎重さを捨て去ったかのように後者で「ポップな文体」化したのは、その原稿が「ブルータス」載ったものだからと指摘しています。
「思想」のみならず「文化」に興味があるというのは、東浩紀のこと(というか、彼世代のこと)を考える時に、浅田や宮台との関係以上に、テレビ文化や雑誌文化について、あるいは受験産業のことなどについて考える必要があると思うんです。もちろん、佐々木さんの本は『ニッポンの思想』を論じるものであり、故に「思想」の範囲に限定しているだけのことで佐々木さんも当然そのようなことは考えていると思います。
いや、とても単純な話なのですが、『ニッポンの思想』読みながら、その脇でぼくは届いたばかりの『AKB48 総選挙!水着サプライズ発表』という写真集をちらちらと読んでいたんです。それは昨今の選挙ブームに便乗して(もうこういったところがきわめて秋元的だと思うのだけれど)AKBの人気投票をし、人気のある女の子の順でグループを作り、そのグループがシングルの曲を歌うというイベントを開いたそのドキュメントなんですね。それは、おニャン子時代に、なんとなく人気者とマニア好みが区別できていたとか、そんな甘っちょろいものではなくて、きわめてドライに順位付けがされ、「勝ち/負け」が決まってしまう。これが今後どういう効果を生んでいくのかはよく分からないし、そもそもAKBについてはほんとに無知なので、なんだか曖昧なのですが、ただこうした今日の秋元の手法とゼロアカがやっていることってのは、どう関連するのかというのは、ちゃんと考えてみたいテーマです。
まあこうしたドライな「勝ち/負け」に対して、批判の力が乏しくなっているのが昨今の「ニッポン」なのでしょう。こうした順位付けは、例えばキャバクラ(行ったことないけど)やホストクラブなどでは当たり前なのだろうし、またそんなキャバクラ的な女性像が受け入れられているのは『小悪魔ageha』などで周知のことです。あと、順位について審査員という超越的な存在を置くのではなく、一般のひとに委ねるという傾向は、本屋大賞もそうだし例えば裁判員制度にだって言えることで、大きな流れなんでしょうね(そういう話で言えば、15日に美術出版社主催第14回芸術評論募集の授賞式がありました。過去の受賞者の特権で、パーティに参加させてもらいましたが、受賞者うんぬんではなく、この賞が社会的な盛り上がりに欠けるのは、超越者を立てるシステムにあるのかな)。
重要なのは、一般の人が選挙に参加できるのは民主的で良いと言えるのかというのがやっぱり疑問ですね。そもそもその選挙のイベントを仕組んでいるのは、一般の人ではなく秋元康や東浩紀という超越的な存在なわけです。そうしたもののもとに集う的なことが、選挙に参加することとパッケージになっている。超越的な存在者が仕立てたイベントに参加できることを楽しむってところもあるのだろうけど、それって主体的な投票の身振りを取らせることによるイベントへの従属化なのじゃない?って気持ちにならないのかと思ってしまう。昨今の衆議院選挙だって、「政権交代」の選挙ってなんだか向こうで決められてしまっていて、それに自分の投票行為が一元化されてしまった気になるわけですよ。