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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

宮台・中森『サブカル真論』

2009年09月05日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
『サブカル真論』(ウェイツ 2005)は、2004年に行われたトークイベントを基に翌年に出版された。そのなかに宮台真司と中森明夫と宮崎哲弥の鼎談が収録されている。80年代が生んだ「サブカルチャー」が00年代に停滞しているのは何故かをめぐって、宮台と中森が興味深い議論を展開している。80年代文化論にとって、必須の文献である。
細かい解説を加えるときりがないので、さしあたり、重要な発言を引用しておく。

「宮台 一口でいうと、差別語としての「サブカル系」とは、実は「自意識系」の別名なのね。サブカル趣味が、ある種の痛々しさの自己表明みたいに受け取られていたんです。サブカル系ということで、『エヴァンゲリオン』の碇シンジ扱いされてしまうんですよ」(p. 157)

「宮台 九〇年代前半に大月隆寛がよく言ってたでしょ。「どこかでうまいことをやっているやつがいるという八〇年代的感覚」と。正確には八〇年代後半的なものだけどね。ところが、いまはあまりない。その意味で、ルサンチマンはかつてほどはないというのが現実です。」(p. 164)

「宮台 すなわち、「モテるもモテないも、自分の責任」という場所を通過したあと、「過剰にモテ『ようと思う』のも過剰に退却し『ようと思う』のも、自分の責任」というふうに、いっそう再帰化--かつて前提だったものを選択対象にすることですが--しました。」(p. 165)

「中森 九〇年代に僕が何をやったかというと、「中森文化新聞」とかその他諸々そうですが、舞台をつくったわけですね。つまり新人類を増やせばいいんだと。もちろん僕が才能をつくったわけでも何でもなくて、舞台を提供しただけなんですけど、その中には鶴見済さんとか、しまおまほさんとか、いろいろな方がいました。」(p. 174)

「宮台 僕は湾岸戦争からオウムへの流れを見て、中森さんだけが「八〇年代文化人」だと思いました。というのは、何もかもわかったうえで「楽しくなければ文化じゃない」(フジテレビのキャッチコピーのもじりですが)ばりに戯れていたのは、中森さんだけだったなと。
 中森さんであれば、「いつまでも戯れていちゃいけない」はありえないでしょう。むしろ、「戦争が起こったのなら、なおさら、いつまでも戯れていよう」となるはずです。少なくとも僕ならそうです。表では永久に戯れつつ、裏でロビー活動をする。
 その意味で言えば、やっぱりネタで始まったものがベタになっていたんですよ。だからこそ、他国で戦争が起こった程度のことで「こんなふうに戯れていちゃいけない」などとベタに言いだすわけ。
 「あえて」が続いていると思っていた僕らは、頭を抱えたわけ。「エーッ」って。このセリフはあまりにマズイ。ベタに遊んでいたって話になっちゃう。過去が貶められちゃう。最初の「闘争ならぬ闘争の勧め」や「パラノならぬスキゾの勧め」はどうなっちゃったの」(p. 177)

「宮台 僕の認識では、オリジネーター(原新人類)は、高橋留美子『うる星やつら』の友引町のような「戯れに満ちた、外のない異世界」をつくって戯れようとしたけれども、わざわざそうするぐらいだから、自分たちには間違いなく「外」があったんですよ。
 それが、わかって「あえて」やっているんだという意識でした。それが、すでにつくられた「異世界」に単に住み込むだけのサクセサー(後期新人類以降)になると、外が消えてしまう。そのことを詳しく記述したのが『サブカルチャー神話解体』だった」(pp. 177-178)

「宮台 三島由紀夫は周知のとおり「サブカルの権化」です。」「サブカルというのは、三島由紀夫のような、劣等感や屈折ゆえにアイロニーや諧謔をよくわかっている人間が、そうした感受性をベースにして、ベタにではなくメタに、あるいは、ナイーブではなくあえて表現するときにこそ、大きな力をもつものです。」(p. 186)

「宮台 八〇年代は確かにスカだった。でもその意味は、中森さんのような確信犯が少なく、ベタな人が多すぎたということ。「メタ八〇年代的」よりも「ベタ八〇年代的」がもっぱらだったこと。「九〇年代に入ってみたら、八〇年代の本義を貫徹する者がいなかった」ということです。
 だから、僕は逆に「八〇年代的なもの」すなわち原新人類的な「メタ八〇明代的なもの」を完全貫徹するぞ、という明確な意図をもちながら、九〇年代の活動を開始しました。すべては横並びか?然り。「やっぱりリアルがあった」などとホザくヘタレ文学者は、クズ。
 「すべてが虚構だ。然るに、虚構のゲームを俺はこうやる!」という言い方をするのが、僕ですよ。」(p. 195)

「宮台 現実社会で上昇できないやつが教団内での上昇を目指すという宗教的な「地位代替機能」と同じで、性的なフィールドで上昇できないやつが「オタクの階級闘争」での上昇を目指すという振る舞いがありました。
 でも、援交ブームがピークを過ぎる九七年には、オタクの階級闘争も終わる。現実のセックスにコミットするのも「ときメモ」みたいなギャルゲーにコミットするのも等価。本当の島宇宙=フラット化が、九六年から九七年にかけて起こったというのが、僕の分析です。
 その結果、オタク連中の抑鬱状況が消えて、ハッピーになる。すると、上質な送り手がどんどん減って「萌えー!」的な受け手ばかりになる。それが理由で、ワンフェスが一時中止になる。」「社会が幸せになって文化が衰退する」(p. 211)