Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

complete best

2007年09月18日 | Weblog
9/18
Perfume『Complete Best』を遂に購入。なんで自分がこんなに激しく反応してしまっているのか。ともかくすごくいいと思う。すばらしい。

「完璧な計算で造られた楽園で ひとつだけ うそじゃない 愛してる」
「絶対故障だ てゆうかありえない 僕が 君の言葉で 悩むはずはない」
「どうして ねぇコンピューター こんなに 苦しいの あー どうして おかしいの コンピューターシティ」
(「コンピューターシティ」)

テクノ・ポップ=ロボット=計算という縛りが、恋愛を「バグ(誤作動)」として語るレトリックを導く。なんてのは、やっぱりとってもいいけど、そもそもその「ロボットとしてのぼくたち」という視点が放っておけないある種の時代の核心をついている気がしてならない。

こんなことブツブツ考えている時には、いろいろなものが向こうから押し寄せてくるもので、昨日の現代美学研究会は、事情があって新宿歌舞伎町ルノアールというとても刺激的な場所で行われたのだけれど、場所以上に、こんな「ブラックボックス」についての考察に出会ったことが、ぼくにとってとても刺激的だったのだ。

「私の理解するところではこの[ブラックボックスという]用語は、入力されるものと出力されるものはなにか分かるのに、その途中の内部でどんな機構があるかはわからない、そのようなひとつの装置を意味するものである」(プライス)

これは、箱のアートというものが60年代に台頭することと重なるように、ブラックボックスというキーワードが人々の意識に定着することに美術史家レオ・スタインバーグが注目した『他の批評基準』の一部である。

「1960年代を通じて、アメリカの彫刻家たちの多くが箱を制作した。なかにはひじょうに鮮烈な印象を与えるものも少なくない。驚くべき偶然の一致だが、そうしたなんの変哲もない箱、立方体、あるいはさいころがはじめて申し分のない彫刻表現であると思われるようになったそのときこそ、コンピュータの「ブラックボックス」が、時に不吉な意味あいを帯びて広く一般の意識のなかに入ってきたときでもあった。」(スタインバーグ)

他人が分からない、自分が分からない、でも生きている働いている、あるいはそんな分からない他人にひかれる恋をしてしまう、そうした不思議な事態にこそリアリティを感じる、そんな考え方感じ方が、箱のアートつまりミニマル・アートにはあった(ロバート・モリスとか)。そしてこうしたミニマル・アートの精神はテクノに間違いなく繋がっている。だから、ぼくのこうした連想はでたらめではないだろうし、きっと大きな議論を引き出してくるだろう(なんて、まだその予感だけがあって、実質はともなっていませんが、、、)。

「ブラックボックス」について考えている頭で、昨日は夕方、ST スポットで小指値(小指値 番外公演 横浜シリーズ「[get] an apple on westside/R時のはなし」二本立て)を見た。これがまた、とても、とってもすばらしかった。先日見たサンプルにちょっと「現代日本演劇の袋小路?」みたいな感覚をもってしまった分、彼らのあっけらかんとした抜けた感じが僕の中で一層際だった。小指値はポスト・チェルフィッチュの劇団であることは間違いない。けれども、その制約にがんじがらめになるのではなく、チェルフィッチュがひらいた地平をさらに自由闊達に遊び回り、ひょいひょい柔軟なアイデアを繰り出していた。なんか、とてつもなく明るいのがいいんだよなー。横浜駅近くの中華料理店で、N社の若い編集者の方とAとで、小指値の話でビール十杯分くらい盛り上がる。