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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

サンプル「カロリーの消費」

2007年09月16日 | Weblog
9/15
しばらく放置していた仕事を再開。大事な仕事なだけに、再開するタイミングがあると考えつつ、時間が経っていきいらいらしていた。いや、タイミングではないのだ、要はどさくさでもはじめるべきだったのだ。と思いつつ、でも、そう前向きに思えるのに時間が必要だった、いまがそういうタイミングだった、なんて考える。ぶつぶつ。

サンプル(松井周)「カロリーの消費」(@三鷹市芸術文化センター)を見た。以下、箇条書き的メモ。

ポツドール、チェルフィッチュ、青年団、ハイバイなどいま話題の劇団で活動する俳優の顔が目立つ。ある種、スター・キャスティング。彼らの俳優としての存在感がきわだっているので、イマドキの日本演劇の顔ぶれをあつめたアンサンブルに見える。というか、それらの劇団との隔たりにおいて当のサンプルを理解するということをどうしてもしてしまう。

舞台のセッティングはチェルフィッチュほど簡素ではなく、ポツや青年団ほどリアリズムではない。敢えて言えば、いかにも演劇的な「お約束」を成立させる舞台美術。宙づりの窓が上下したり、宙づりのテーブルが上から降りたり戻ったりする。だから、リアリズムの傾向から離れた感じがある。ポツの俳優が暴力的なシーンをはじめても、核心の部分はきれいにカットされてしまうところも、リアリズムではない、演劇的なフィクションのレヴェルでやろうとしていることがうかがえる。

複数のラインが緻密に重なるストーリー。若夫婦が夫の母の看病に来ている。そこはエバーグリーンという名の老人介護施設。そこで働くヤクザなフィリピン系介護士が母を連れ出し逃走する。それが一つ。介護士とその施設の医者との同性愛的関係、またそこでの女性介護士と医者との異性愛的関係。それが一つ。行方不明になった母を捜査する刑事と若夫婦、妻の飼う猫と刑事の母がそこに関わる。それが一つ。フィリピン系介護士の逃走に巻き込まれる少年。それが一つ。これらを縫うように、「歌」を探してさまようチャコという名の女の子が出てくる。

登場人物のキャラクターが、一貫したアイデンティティを固持しないので、ふわふわと事態は風任せに揺れていく。その不安定さ、急激な変化は、異常なものというよりもむしろ現在のひとの心性をトレースしたもののように感じられる。その点では、この演劇はリアリズムであり、演劇的なフィクショナルな(=非自然主義的な)ひととひととの接触がむしろ現在の我々を描くのに適したものと感じられる、そのようになっている。フィクショナルであるからこそアイデンティティの不安定さが浮上していると言えるのかもしれない。自然主義的な面のあるポツの芝居では、はなから人間には表の顔と裏の顔があると予想しながらみることが出来る。サンプルが示すのは、ポツのように表と裏ではなく、そもそも表も裏もない自分がよく分からない存在同士が接触しているという事態なのだろう。

このリアリズムは、アイデンティティの脆弱さから成り立っている分、キャラとしての魅力は乏しい。逆に言えば、キャラの設定が弱くなることで、この何処に飛んでいくか分からない、不確かな人間を描くことが可能になる、ということなのだろう。

「歌」の不在な現在という根底に流れ続けるテーマが、一体どのようなスティタスにあるのかが正直よく分からなかった。歌=リアルな気持ち、という考えは分かるには分かる。ただし、この舞台の超越的な存在であるように見える少女(チャコ)が、終幕に向かうにつれ、どんどん人間的なところに降りてくるのだが(具体的には少年に恋をするという展開。『ベルリン天使の歌』?)、歌の不在に戸惑い歌を求める彼女のピュアネスが、脆弱なアイデンティティしかもてないひとびとのうわっすべりの発言に対して批判的な立場に立つのであれば、ピュアなものが汚れたものを憂うというなんだかありふれた思考をなぞっていること?となんだか腑に落ちない。それでいいの?いや、そういうことではない、のか、ならば、なんなのか、分からないのだ。
90年代以降の日本の演劇史を更新しようとする作者の批評性が強く感じられる作品だった、よくも悪くも。いや、ここまでさまざまな要素を意識しながら、さらに新しい地点へと到達しようとする意志はすごいし、そういうトライアルが出てくるいまの演劇シーンの成熟には率直に感動してしまう。すごいなー、と思い三鷹の夜道を歩くのだった。けれども、これ批評的すぎやしないかとちょっと思う。楽しいは批評的営為のために二の次になっている。そのストイシズムにぼくはどれだけ付き合うつもりなのだろうか。ぼくのアイデンティティも曖昧だ。