Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

Chim↑Pom in TAMABI

2007年09月02日 | Weblog
ここで何度か触れてきたことですが、今年度、ぼくは多摩美術大学で「現代美術」というタイトルの講義を担当しています。
夏休み明けの第一回目、来週の月曜日(9/10)に、Chim↑Pom(チンポム)のメンバーをお迎えして、イレギュラーな内容の講義を行うことになりました。

彼らの魅力はいろいろありますが、その大きな一つに作品解説がある、とぼくは思っています。7-8月の「オー・マイ・ゴッド!」展を見に行った時にも、そのことを痛感しました(ね、面白かったですよね!)。彼らの解説はそれ自体がレクチャー形式のパフォーマンスなのではないか?そんな気持ちから、メンバーには自分の作品を解説して下さいとお願いしてあります。
これはChim↑Pomの過去・現在・未来を知る絶好の機会になることでしょう。あくまでも単位取得希望者を希望する、大学の講義内で行うもの。フライヤーや紙媒体などを用いて公に告知をする類のものではないですし、平日の昼間でもありますが、聴講を希望する方は、ちょろりっと静かに潜伏なさってみてはいかがでしょうか。

9/10 13:00-14:30
@多摩美術大学八王子キャンパス内、メディアセンター、レクチャーB教室
(教室については、多摩美術大学のHPをご覧下さい)

風が心地よい、毎朝

2007年09月02日 | Weblog
またまた、日記が滞ってしまう。この間、ほんとに毎朝、ジョギングしてた。

写真は、8/25、横浜美術館で森村泰昌の展覧会「美の教室、静聴せよ」を見に行った時のもの。中華街にて。久しぶりにコンタックスのG1を使った。やっぱりピンぼけしたところがとてもきれいに出る。久しぶりに、カメラ持ち歩こう。

8/31
佐々木敦さん、大谷能生さんと会合。大谷さん初の評論集の話など盛り上がる。会合後、沖縄料理の店で飲む。内装がなんかお水っぽくて、「ガキ」なファッションの3人にはギャップが激しく、なんだか可笑しい。途中から、Aと会合の記録をしてくださったKさんも合流。

9/1
ポタライブをはじめて見た。神村恵「間隙」という作品。

ポタライブのブログを見ると「ポタライブとは、「散歩をしながら楽しむライブ」のこと。軽いサイクリングや散歩を表すポタに、演奏・演技・ダンスなどを表すライブを組み合わせて作った造語です。」とある。簡単に言うと、劇場空間ではなく街中を舞台に、公演を行う企画というもの、だろうというイメージがあった。必ずしも、ダンスの公演を中心にしたものではないし、どちらかといえば演劇系の団体というイメージが強いポタライブ。だから、今回見たことで、ポタライブとはこういうものか!と理解出来たと言えるかは分からない。けれど、そのエッセンスをつまんでみた、という気にはなっている。

12:30アゴラ劇場のロビー集合。そこから、主宰の岸井さんの誘導で、10人ほどのお客さんの塊が、一カ所に集められる。岸井さんは、ふっくらめの体型でやさしい感じの眼の男のひと。観客に傘を渡し、神村がさしたらこちらもさすようにと指示をする。神村があらわれたらついて行ってください、「間隙」という作品なのでいろいろな間を通り抜けるのでなるべく付き合ってそこを通ってみてください、、、と岸井さんがいっているそばから、観客の小さい円陣の真ん中に神村がすうっと入ってくると、そこから道路の方へと抜けた。その挨拶を合図にして、ぞろぞろと10人がついて行く。公演が始まる。

舞台は、そういうわけで駒場の住宅街。駐車場や公園、マンションの入り口付近の暗がり、というか多くの場合、それらを繋ぐ道ばたこそが中心的な舞台となった。

神村のダンスは、そもそもその多くが「歩く」ことから成り立っている。進み立ち止まる。その間にある不意のリズムや差し込まれる謎の動作が、彼女のダンスをもっぱら構成する。だから、道ばたで歩くことは、それ自体、彼女にうってつけのシチュエイションだともいえるわけで、神村のそんな不意打ちの詰まったウォーキン・ダンスを10人は、横から斜め後ろからあるいは真後ろから眺め、追う。

ダンサーと見る者とが、追う/追われるという関係を通して、ある種の舞台を住宅街に生みだす。まず、その移動劇場の生成という事態に、わくわくする。これが、なるほどポタライブなんだ。

舞台の出現はさらに、街から発生するさまざまな出来事を察知する感度を上げてくれることに気づく。舞台を前にして、観客に何が起こっているかというと、「よく感じる」ということが起こっている。だから、見終わると疲れるんだ。五感が集中する。その集中が劇場から飛び出し、街中で発揮される。神村のスニーカーがアスファルトをこする音に注意する耳が、次々と、家並みからはみ出した葉のこすれる音や、遠くのひとの声や、風や、周りの観客の仕草などを感じていく。劇場仕様になった五感が、さまざまなものを役者にする。さまざまなものの出来事を際だたせていく。

ときどき神村が傘を差す。と、ぼくたちも晴れた住宅街で、一斉に傘を開かせる。ひと(一般の通行人)とすれ違う。そのとき、無表情になって、その場(場面)の一員(役名のない登場人物)になろうとしている自分に気づく。一般のひとの出現によって、神村のみならず観客であるぼくたちもまた舞台を構成する役をになっている、そのことに気づかされる。そして、神村を見るぼくたちは、そのとき観客というだけでなく、というかむしろ、神村を含めたぼくたちを傍観する一般のひとたちこそ、この移動する舞台に驚く不意なる観客となる。というか、突然、観客にさせられてしまう。高校生の一団が通り過ぎた。彼らのきゃぴきゃぴの笑い声がこちらの五感にフレームインする。すると、彼らは舞台の一員になる。けれど、怪しいこちらの集団こそ、彼らにとって非日常で、ほっとけないなんだか変な人たちで、彼らは奇異の眼差しをこちらに差し向けることで、観客にさせられる。一般の彼ら通行人とぼくらは、相互に役者にさせられたり、相互に観客にさせられる。

30分ほど続いた最後、狭い狭い一本道をゆっくり進む神村を追っていた。ぼくは、そのときたまたま彼女を最初に追う客になってしまった。ゆっくり進む彼女を追い越してしまわないようにするには、彼女のステップを真似するしかないと思い、足元を見ながら呼吸を合わせてみた。そうしていると、そういうゲームのような気がしてきて、面白くなる。別にそうしなきゃいけないわけではないから、後ろで他の客がどう見ていたのか知らない。きっといろいろだったろう。少なくとも「見る」という行為に多様な可能性が生まれていたはずだ、そのとき。少なくともぼくの「見ること」はそのとき「まねること」になっていた。
その狭い、管のような道を抜けると空き地に出た。石を踏む、と蹴る、と追って踏む。なんか、これまで神村と一緒にしてきたことを模倣しているみたいな(これがほぼラスト)。

神村というダンサー(パフォーマー)がひとり道ばたにいると、街のあちこちが際だってくる。神村は、まるで定規とか分度器とかのようだと思って見ていた。ものにあてるとものが際だつ、経過する時間が際だつ。測ること、のようなステップ。
神村恵って、やっぱスゲー面白いなー。と8月にあった『ビーム』の感想があまりまとまらぬまま(いや、とてもよかったんだけれど、難解でもあって、、、)、悶々としていたので、シンプルに神村のエッセンスを感じられてうれしくなった。そのエッセンスが、うまくポタライブという企画に混ざり合っていることにも、なんだかうれしくなった。

ポタライブは、多分、大いに岸井さん本人のキャラクターの魅力が支えている面があるのではないか。公演が終わって、ほぼ迷子状態になった観客と一緒に帰りながら、話す岸井さんのお喋りがめっぽう面白かった。駒場で九年前にあった火事のこととか、道ばたに生えている草の伸び具合のこととかある古い家の窓辺に並んでいるコーラの缶は古いようにも見えるが結構入れ替わっていることとか。見るということを共有すること。楽しい。


13:40 公演が終わって、Aが駒場のギャラリー「12」というところに行きたいというので、てくてくと向かう。途中、フレッシュネス・バーガーで昼食。行く途中、岡田斗司夫『いつまでもデブと思うなよ』を読んでいたので、岡田が、メガマック食べたい時に、それを包丁で八等分して1/8だけ食べて捨てたという話を思い出す。ぼくはハンバーガーというものを年に一二回しか食べないので、岡田のバーガー好き(というか、マクドナルド好き)に感心する。「たべたいときはがまんするな。でも、1/4だけたべて捨てちゃえ」というダイエット法は、参考になるのかならないか(あ、でも、いろいろとためになることが結構かいてあった。ちなみに、彼のダイエット法は、レコーディングダイエット。ともかく自分の生活をメモれ、と。それするだけで10キロ痩せた、と。ふーん。ただし彼のキャラで痩せてしまうのは、得なのかなーと他人として気になる。帯の写真すごいっすよ!一見の価値有り)。

14:30そこから、さらに代々木上原まで歩こうということになり、さらにてくてく。その後は、生田と読売ランド前近くのマンション物件を見て歩く。最近、Aとなぜか物件を見学するのがブームになっている。不動産屋のひとってすごい熱い。おしゃべり。疲れる。ただ物件だけ見せて欲しい。読売ランド前の物件に2人興奮。これ、まるで、ヴィラ系のホテルじゃん、バリの。