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kmitoh 春夏秋冬

水生生物雑記帳・男鹿半島幻想・接写と拡大写真

男鹿半島幻想:寒風山:賽の河原(さいのかわら)

2014-10-30 17:30:21 | 男鹿半島幻想


 賽の河原 2005.5.24




 昔は主な道だった。 2005.5.24




 どこかに水を引いているようだ。 2005.5.24




 「板場の台」の地蔵さん 2003. 8. 5




 寒風山略図


 笹の茂る中の道をたどると、笹がない場所に着く。
ここが賽の河原である。
小石が敷き詰まっていて、笹が地下茎をはれないのだろし、
雨が降れば土を流し去ってしまうに違いない。

 湧き水が細い流れをつくっている。この水を遠くから汲みに来る人もいるらしい。

 昔は、賽の河原にある細い道が、半島北岸の北浦から岩倉などに
至る主要道のひとつであった。
 現在も山菜採りの人たちが歩く、「登山道」である。

 ここには飲み水があるためか、キツネやムジナが多かった。
それで、通過するときには、賽の河原に石をひとつ積み重ねなければ、
化(ば)かされたという。

 提灯の明かりで歩いていれば幻覚が起きそうな場所である。


賽の河原の地蔵和讃(じぞうわさん)

これはこの世のことならず
死出(しで)の山路の裾野(すその)なる
賽の河原の物語
聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ
十にも足(た)らぬみどりごが
賽の河原に集まりて
父上(ちちうえ)恋し 母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事(こと)変わり
悲しさ骨身(ほねみ)を通すなり
かのみどりごの所作(しょさ)として
河原の石をとり集め
これにて回向(えこう)の塔を積む
一重(いちじゅう)積んでは父のため
二重(にじゅう)積んでは母のため
三重(さんじゅう)積んではふるさとの
兄弟我身(きょうだいわがみ)と回向(えこう)して
昼は独りで遊べども
日も入りあいのその頃は
地獄の鬼が現れて
やれ汝らは何をする
娑婆(しゃば)に残りし父母(ちちはは)は
追善座禅の勤めなく
ただ明け暮れの嘆きには
酷(むご)や哀(かな)しや不憫(ふびん)やと
親の嘆きは汝らの
苦患(くげん)を受くる種(たね)となる
我を恨(うら)むる事なかれ
くろがね棒をとりのべて
積みたる塔を押し崩(くず)す
その時能化(のうげ)の地蔵尊(じぞうそん)
ゆるぎ出(い)でさせたまいつつ
汝ら命短かくて
冥土(めいど)の旅に来(きた)るなり
娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母(ちちはは)と
思うて明け暮れたのめよと
幼き者を御衣(みころも)の
もすその内にかき入れて
哀(あわ)れみたまうぞ有難(ありがた)き
いまだ歩(あゆ)まぬみどりごを
錫杖(しゃくじょう)の柄(え)に取りつかせ
忍辱慈悲(にんにくじひ)の御肌(みはだ)へに
いだきかかえ なでさすり
哀れみたまうぞ有難き


 三途の川(さんずのかわ)の手前にある賽の河原で、
親より先に亡くなった子どもたちが、石を積み重ねて仏塔をつくり、
生前にできなかった功徳をしようとするのだが、
できあがるころになると鬼が来て壊してしまう。

 そんな子どもたちを、お地蔵さん(地蔵菩薩)が、
ほとけ様のところへつれていってくれるという、内容なのだけれども、
前半部が強烈すぎて哀しくなってしまう「歌」である。

 ひろさちや の「死の世界 死後の世界」には、
次のようなことが書かれている。

 子どもたちを、お地蔵さんがほとけさまの国へ運んでくださるのですから、
安心していいのです。
 お地蔵さんに救いを求められるのもよいでしょうが、
絶対にお金を出さないでください。
お金を出すと、子どもや水子は救われません。
お地蔵さんが子どもたちを救われるのは、ご自身の仏道修行として
やっておられるわけですから、そこにお金を出すことは失礼です。
お金を出さないことによって、はじめてお地蔵さんのご利益があるのです。

 絶対にそれを商売にしている人に騙されてはなりません。

 安心して、お地蔵さんにおまかせすればよいのです。
そして、あなたは忘れ去ることです。
あなたが忘れないでいることは、ほとけさまの国に成仏させずに、
幽霊としてこの世に繋ぎ止めておくことになります。


 「板場の台」に、
周囲に石が積み重ねられた地蔵さんが、西を向いて立っている。

 わたしは最初、男鹿風土記の賽の河原だろうと思っていたが、
賽の河原ではないだろうと、新潟県の方から指摘されて調査すると、
賽の河原は姫ヶ岳の南山麓にあることがわかった。

 だとすれば、この地蔵はなんなのだろうかと気になってきた。
 地蔵が彫られた石の側面に、
「浦田 三浦傳八  明治廿九年九月」
とあった。
 「傳八」という屋号の家を探して訪ねた。

 傳八家の方が親切に話してくださった内容は、
「なぜ立てたかわからないけれど、なにか理由があったのだろうから、
宗泉寺の和尚さんをよんで百年祭も行いました。
以前はあそこを道が通っていたらしいです。
石は皆さんが積んでいってくれてます。
それから、地蔵さんは、もうひとつお山の方(真山か本山)にもあるらしいです。」
ということであった。

 結局、由来は不明だということであるけれど、
わからないということがはっきりしただけでも、気持ちの区切りがついた。


参考:
  男鹿風土記 吉田三郎 秋田文化出版社
  死の世界 死後の世界 ひろさちや 徳間文庫

  地図はフリーソフト、カシミールと Gimp を使用して描画した。



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男鹿半島幻想:寒風山:見える山々(冬)

2014-10-30 16:04:23 | 男鹿半島幻想


 2006. 3. 7 鳥海山




 2006. 3. 7 森吉山




 2006. 3. 7 白神岳(左)と向白神岳(右)




 2006. 3. 7 太平山


 寒風山は低い山ではあるけれど、海に突き出ているため、
天気がよければ、 鳥海山や白神山地も遠望できる。

 撮影した日は、上空は濃紺色であったが、
水平線は靄(もや)がかかっていた。

 カメラではうまく写せないようなときでも、
肉眼でははっきり見られる日がけっこうある。


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男鹿半島幻想:寒風山:山焼き:2003,2004

2014-10-30 13:11:53 | 男鹿半島幻想


 2003年




 2003年




 2004.3.28




 2004.3.28




 2004.3.28




 2004.3.28


 約30年ぶりに行われた2003年に続いて、
2004年も寒風山の山焼きが行われた。

 2003年は大噴火口跡を燃やしたが、
今年は地震塚がある南斜面などを焼いた。

 この「山焼き」の目的は芝生の美しい山にするためである。

 農耕機器が普通に手にはいるようになる昭和40年頃まで、
寒風山は秣刈場(まぐさかりば)、別の名称では採草地
あるいは草刈山として住民の生活にとって重要なものであった。

 「山明け」または「山の口明け」の日は、
浦田・百川では8月20日と決めらていたが、
その前に他の分を密かに刈り取る者もいるため見張り小屋を建て、
境界を巡視し、山明け当日は馬の持ち主がクジを引いて場所を決めた。
 それほど草刈りは大切なものだった。

 しかし、牧草も必要なくなった現在、寒風山は、以前とは違った意味の、
人による管理が行われている。
 寒風山に木がないのは、
寒風が強く吹くから生長しないのだと説明する人もいるが、
毎年景観維持のために行っている草刈りをしなければ、
数年でほかの山と同じように木の山になってしまう。


 流れる煙を眺めていると、噴煙のように見え、
寒風山が噴火していた時代にタイムトリップしたような気分になるが、
その最後の噴火がいつだったのかはよくわかっていない。

 文化7年、1810年8月27日午後2時頃、
寒風山を中心とするマグニチュード6の大地震がおき、
大きな被害もたらした。
 このときの記録のなかに、寒風山が噴火したととれるような記述が残っている。
 しかし、地質学的には、噴火があった証拠は見つかっていない。注(1)

 別の古文書では、26日の暮れに、太陽が2つ現れ、
ひとつは海に沈んだが、もう一つは赤神山の上で明るく輝いていたという。
この地震光らしきものが寒風山にも発生し、 噴火と見間違えたのだろうか。

 文化に噴火がなかったとすれば、最後の噴火は3000年ほど前となるという。
しかし、この説も再調査すべきだと、ホームページに載せている先生もいる。注(2)


 注(1)秋田県立博物館から「林信太郎先生は・・・」と教えていただいた。

 注(2)群馬大学教育学部早川由紀夫研究室


 参考:
  男鹿市史・上巻

  男鹿脇本の民俗 百川・樽沢・浦田
    大島建彦 編
    脇本地区市民憲章推進協議会


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男鹿半島幻想:真山山頂

2014-10-29 15:53:48 | 男鹿半島幻想


 真山山頂神社 2003.11.15




 変わった杉。 2003.11.15



 変わった杉。 2003.11.15





 真山は標高567mである。
 杉といえば直立して並ぶ、植林されたものを思いうかべるが、
真山山頂には、風と雪で曲げられた変わった姿の杉がたくさんあった。

 風雪に耐えて曲がりくねりながらも生きのびている杉の姿は魅力的である。
 この辺一帯の杉は神木なのだろう。


 ふもとの真山神社から、ここまで登ってくるだけで運動不足の私にはきつかった。
 この先、本山への道にキントリ坂がある。


 「きむどり坂(金取坂)という、けわしい坂を木の根にすがり、
手をついて、かろうじてのぼった。ここが褌腰(はかまごし)という峰であろう。」
        菅江真澄の「男鹿の春風」


 「お山がけ。男鹿では真山本山を合わせてお山という。
このお山のあちこちに祀られてある神々をおがむために、
一日難行苦行して登山することである。
 昔は少なくともこの男鹿半島に産声を男女は、必ず一度はこのお山がけを
断行しなければ、決して嫁または婿をめとることも、または嫁婿に行くこともできない、
という習慣があった。
 ・・・・
 あまり急坂なので、登ってゆく前の人の××玉を、手をさしのべて
握れるというわけで、この坂をキン取坂というそうだ。」
        吉田三郎「男鹿風土誌」1964年


 同行者もいたので(?)、挑戦はしなかった。


 追記:2014.10.24
 
 男鹿市の中学校では、学校の年中行事授業でお山かけをしているが、
キントリ坂を登っていた女生徒に落石が当たり頭部骨折の大けがをした。
快方に向かっているようで、まずはよかった。

 登る人も少なくなって、登山道が荒れてきているのかもしれない。


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霞んだ光景:冬の日本海

2014-10-28 15:36:28 | 霞んだ光景


 台島 2005.2.23




 台島 2005.2.23


 冬になりつつあるけれど、冬になったわけではない。

 ホームページをgooブログへ引っ越し作業をしている。
その過程で、いままで撮影してきた写真を眺めることになる。

 撮影した状況などが浮かんでくる。
 不眠・耐寒・危険・・・・。

 そして、もうこんな写真は撮れないだろうと寂しくなる。

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