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ツバキを撮りに、椿(地名)の能登山に数回行ったが、
潮風とヒヨドリのためだろう、きれいに咲いている花はほとんどなかった。
それでも今日なんとか撮影した。
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能登山を眺めているうちに、疑問が起きてきた。
「山」とはいっても、岩の塊である能登山は、いま道路に挟まれているが、
むかしは海が南側に接していたし、北側もシケれば海水が押しよせて
くるようなところだったはずだ。
そんな環境で数百本のツバキが繁茂し続けることがどうしてできたのだろうか。
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文化1年(1804年)、菅江真澄(すがえますみ)が椿を訪れ「男鹿の秋風」を残している。
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○「椿の浦というところに中山というちいさな磯山がある。そこには椿ばかりが生い茂っていた。」
そのころは、能登山ではなく「中山」とよばれていた。
50年ほどのちの本、「絹篩きぬぶるい」では「能登釜」となっている。
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○「椿は海辺に生えるものであろうか。海石榴の中国名も知られている。」
海石榴の「日本よみ」は「つばき」である。
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○「この中山にも陰陽門(めおと)の神として斎(いわ)いまつっている。
そこに水のたまった岩があり、苔の深くむした墓のような石がある。
ここにのぼり詣でると、たちまち疾風がおこり、雨が降って海も荒れ狂うので、
浦ではきびしい禁忌があって、人がのぼることはできない。」
のぼるとケガをするとも言われているから気をつけて撮影した。
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○「中山の麓に清らかな泉があって、行きかう人はみなのどをうるおしていゆく。」
1955年に出版された岩波写真文庫「男鹿半島」には、
能登山のすぐ後ろにある地区の大きな比丘尼(びくに)共同井戸の写真が載っている。
泉と関係しているのだろうし、井戸の名前は伝説からきているに違いない。
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これらのことから、
ツバキはもともと塩害に強い。そして能登山の根元には豊富な地下水が流れているので、
それに含まれる養分を吸収して600本ほどのツバキが繁茂できるのだ。
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江戸時代のひとよりも貧弱な知識しか持ち合わせていないことを再認識した。
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参考書
菅江真澄遊覧記(5)東洋文庫
菅江真澄 編訳:内田武志/宮本常一
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