kmitoh 春夏秋冬

水生生物雑記帳・男鹿半島幻想・接写と拡大写真

「昔の光いまいずこ」(7)

2012-11-29 15:06:06 | 霞んだ光景
Ine12112901


 昔、稲とともに渡ってきたのは、「メダカ」だけではなく、
激しい「戦争」もいっしょにやってきた。
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 作物を育てる人よりも、動物を狩る人々の方が、
なんとなく残酷なように考えがちである。
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 しかし、稲を育てるためには土地と水を確保しなければならないので、
争いが起き、動物どころか人と人が殺し合いを始めたのである。
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使用ソフト:
 描画フリーソフト Gimp 2.8
 
 いままで使用していた 2.6 から 2.8 にバージョンアップしたので、
練習がてらに描いてみた。
 どこがよくなったのかは、もう2、3回描けばわかるだろう。
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「昔の光いまいずこ」(6)

2012-11-27 16:17:05 | 霞んだ光景
Yamato12112701


 謀殺、血族同士の争いは男鹿周辺にかぎったことではない。
 それどころか、大昔より延々と続いてきているのだ。

 たとえば、ヤマトタケルは、兄の手足を踏み潰したうえに、
もぎ取り、「こも」にくるんで庭に投げ捨てておいた。

 クマソタケルとの戦いでは、女装して相手を油断させて、
刺殺してしまう。

 イズモタケルとは、親友になったのだからと、偽の刀と相手の刀を交換させる。
そのうえで、抜けない刀をもった相手を切り殺し、
「いやはや気の毒なことだ」と自慢しながら歌う。

 こういうことが、正義としてまかりとおってきたのである。
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使用ソフト:
  3D人体作成フリーソフト makehuman 1.0-6
  3Dフリーソフト Blender 2.64
  描画フリーソフト Gimp 2.6
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「昔の光いまいずこ」(5)

2012-11-25 19:27:40 | 霞んだ光景
Uma12112501


1577年 安東愛季(ちかすえ)、男鹿市の脇本城に居城し、
      能代市檜山城(ひやまじょう)と秋田市湊城(みなとじょう)を事実上牛耳っていた。

1558年 三浦氏の子孫が八郎潟町の浦城(うらじょう)城主になった。

      神奈川県に勢力をもっていた三浦氏が、
      かって平氏を倒すために協力し合った北条氏に攻められ滅亡した。
      三浦氏の勢力拡大を恐れたためである。
      このとき、三浦氏の子孫は各地に散らばった。
      浦城名は、(御)浦からきているのかも知れない。

1583年 能代市の檜山城(ひやまじょう)で、合戦の祝勝会を開き、
      そこで、浅利氏(あさりし)を謀殺した。

      山梨県の浅利氏は、平泉合戦の恩賞として、
      かって頼朝から与えられた大館市に移住してきた。
      その子孫の兄弟が不仲で、弟は安東愛季(ちかすえ)と組んで、
      兄を攻め、自害させてしまう。弟が浅利氏を継いだ。
      その弟を浅利氏の勢力拡大を恐れた愛季は、酒席で騙し討ちにする。

1587年 愛季が、角館城と合戦の最中に病死。
      遺体は秘密裏に男鹿市脇本城に運ばれた。

1589年 湊合戦
      愛季の子、檜山城主実季(さねすえ)と、
      そのいとこ秋田市の湊城主道季(みちすえ)との合戦。

      湊城方についた浦城は、男鹿市脇本城から進軍してきた檜山方に敗れ、
      城主は「西観音の瀧」で切腹した。
      城主の子は奥方とともに逃げのびた。

1590年 小田原征伐で北条氏絶滅。

1597年 逃げのびた浦城主の子は実季に許されて八郎潟町の押切城主となる。

1600年 押切城主の叔父が、城主には謀反の疑いがあると実季に告げて、
      兵を数十人借りて謀殺する。
      そしてこの叔父が押切城主となったが、怨霊に祟られて死ぬ。

1600年 関が原合戦
      合戦後、
      安東氏は秋田から茨城へ国替え。
      佐竹氏は茨城から秋田へ国替え。

1630年 実季、幕府に嫌われて、三重県へ蟄居を命じられた。
      実季の子は、福島に国替え。
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 男鹿半島に関係することを少しみただけでも、
謀殺と血縁同士の殺し合いが続いていたことがわかる。
 戦いで死ねば、身ぐるみ剥いでいく者たちもたむろしていた。


使用ソフト:
3Dフリーソフト Blender 2.64
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「昔の光いまいずこ」(4)

2012-11-22 11:28:39 | 霞んだ光景
Monomi121122


 城跡といえば、石垣を思い浮かべるが、
中世、戦国時代の城は石垣がほとんど使用されていなかった。


 城跡・館跡(やかたあと)とよばれるものは、
男鹿市だけで37か所確認されているという。
 集落長のそれほど広くもない屋敷を防護柵で
囲ったようなものから、山ひとつなど、城・館といっても、
統合されていくまでは、さまざまな大きさだったのである。


 また、農民は戦う武力集団でもあったから、
映画「7人の侍」のようなことはなかったはずである。



使用ソフト:3Dフリーソフト Blender 2.64
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「昔の光いまいずこ」(3)

2012-11-14 19:48:13 | 霞んだ光景
Wakimoto12111401


 脇本(わきもと)城跡、登り口


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 見下ろした脇本の町並み
 秋田まで見渡せる。


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 目のよい人であれば、八郎湖対岸の浦城までも見えるだろう。


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 数日前に、手入れのいきとどいた浦城などを歩いた後では、
 「馬乗り場」までの散策路は、かなり足元を気を付けなければならなかった。


Wakimoto12111407


 「馬乗り場」
 北側の寒風山を眺めることができる。


Wakimoto12111408


 「馬乗り場」から、登り口ではなく、少し離れた本明寺(ほんみょうじ)へ降りる道。
 以前にも来ているからいいけれど、初めての人だと不安になるだろう。


 写真はすべて明るくしているが、実際は雨模様の暗い日で、
林の中などは手持ちでは撮影できない暗さだった。


 ほかのページに説明を乗せているので、とりあえず写真を載せた。
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